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「ここの問題は、この公式を当てはめると解けますよ」
「なるほど。じゃあ、えーと、…………xが96で、yが……75かな?」
「はい、正解です。さすがですね」
「結芽の教え方が上手だからだよ」
結芽の指導が始まってから早二時間。
テスト範囲である教科書内の単元のひとつが終わりを迎えようとしていた。
普段なら、こんなにも集中力が続くことはないだろう。結芽の教え方が上手いというのもあるだろうが、途中から問題を解くのが楽しくなってきた。そう思わせるのも、彼女の力のひとつかもしれない。問題への向き合い方を変えさせる。それを思わせる意識的な変化を自分でも感じていた。
こんなにも多くの数字や公式を前にして、苦手な数学にこうして向き合えるなんて思いもしなかった。
「方程式は一つ覚えるだけでも全然違うんですよ」
現在は、複素数を使った方程式について教えてもらっている。
これは簡単に言えば、ある等式を満たす実数xとyを求めるというものだ。この問題で大事になってくるのは、「複素数の定義」と「複素数の相等」の二つ。
正直、もうこの時点で俺は頭が痛い。今の説明も、結芽の受け売りだ。
まず、一般校であれば高校生に上がってすぐに習う範囲ではない。しかも、うちの教師ときたら、今の二つを生徒が知っていることを前提に授業を進めているのだと言う。アホかと。
一般校から受験した俺がそんなものを解けるはずがない。
しかし、結芽は違った。
しっかりと一から教えてくれている。だからこそ今は、この問題に立ち向かっていけているわけだ。
「すごいよ結芽。今まで分からなかったのが嘘みたいだ。さすがは天才だね」
「いえ、司さんの飲み込みが早いんです。今回のように期限付きでさえなければ、神聖学園でも上位に入れると思いますよ。勉強のやり方にもよりますけどね」
「まじで?」
「まじです」
「俺調子に乗っちゃうよ」
「それぐらいの意気込みでこれからも頑張りましょう」
流石にそれは、過大評価しすぎなのではないか。しかし、これが彼女なりの生徒へのやる気の出させ方なのかもしれない。
にしても、さすがに褒めすぎだろう。
「では、あと一問解けたら休憩にしましょうか。私は口出しを一切しませんので、自分の力で解いてみてください。教科書を見ながらでも構いませんから」
「分かった」
そうして、示された問題へと目を落とす。
そこに書かれていたのは、今やっている単元の章末問題だ。いわば今までやってきたまとめのようなもの。ここが自分の力で解ける事ができれば、このニ時間の教えが身についたことになる。
「でも、教科書を見ちゃってもいいの?」
「はい。教科書の中からヒントを探す事も大事ですし、立派な勉強のやり方なんですよ。それに、最終的に教科書を使わないのはテストだけなので何度も見ているうちに自然と頭に浮かべられるようになるはずですから」
「なるほどな!」
この子達にとって、家庭教師をする事は初めてのようだけど、本当に先生みたいなんだよな。年下というのが多少恥ずかしくは感じるものの。
結芽の言葉に納得したところで、俺は問題に挑んだ。
「……………………………………」
「……………………………………」
長く続く沈黙。集中しているのだから当たり前のことではあるけど。じーっと、見られているのは、少し緊張するな。先程まで話しながら問題を解いていたから、違和感もある。
テストの時はこの沈黙が一時間近く続くので、慣れておくべきなんだろうけど。一つだけ、気になる事がある。
ピトッ
進めていたシャープペンの動きを止める。
ふと隣を見ると、結芽の肩が俺の腕に密着していた。身長差があるので腕に肩がつくのは仕方のないことだけど、距離が近すぎやしないか?
部屋に二人きりなので、スペースは十分にある。それでも密着して見ていてくれるのは、真剣に教師として取り組んでくれている証拠なのだろう。無下にはできない。
しかし、隣からの体温、呼吸、髪から漂う石鹸の香り。そういった情報が数字と共に頭の中に入ってくる。
子供だから少し体温高いのかな。腕に当たる肩の感触も女の子らしい柔らかみが……。いやダメだ。集中しなくちゃ。手を動かさないとな。こんな状態じゃ、結芽にも変に思われるかもしれないし。
俺は再び途中式を書き始め、問題を解いていく。
「ふー、終わったー!」
「お疲れ様です。答えも当たってますし、ここはもう大丈夫ですね。明日、復習で似た問題を解いてみましょう。私が問題を作っておきますので」
「了解。それじゃあ」
「はい。今から少し休憩しましょう」
コンコンッ
俺が両腕を上げて、背筋を伸ばすのと同時に扉の方からノックが聞こえてきた。
「あ、千尋さん」
扉を開けると、そこにはジュースの入ったコップとお菓子の乗ったお盆を持った千尋さんの姿があった。
「お疲れ様です、司くん。よかったら、これどうぞ」
「ありがとうございます。ちょうど休憩に入るところだったんですよ」
「そうですか。それはよかったです」
「はい。タイミングバッチリです!」
千尋さんは安心してお盆を手渡してくれる。
「結芽ちゃんも、お疲れ様。よかったら一緒に食べてね。ミーシャちゃんたちにも、今渡して来た所だから、後で味の感想を聞かせて頂戴ね」
「はい。わざわざ私の分までありがとうございます」
「ふふっ、いいのよ〜」
感想を聞かせてくれということは、このスコーンも手作りか。市販の物かと思ってしまうほど、形がいい。それに、手作りのスコーンを食べるのは初めてだ。
そもそも、スコーン自体男にはほとんど縁のないお菓子だからな(偏見)。
お菓子の中でも、スコーンにマカロン。この二つは圧倒的に女子に合うイメージが俺の中では強い。おしゃれなお菓子と言えばこの二つと言ってもいい。
「あっ、司くん」
「はい?」
持ってきてくれたお菓子を勧められ、一通りの会話を交わしたのち、俺に視線が向けられた。
「今から夕飯の買い物に行ってこようと思うんですけど」
様子を伺うように、話しをされる。
なるほど、そういうことか。
「忙しいと思いますけど、お留守番をお願いしてもいいですか?」
「全然大丈夫ですよ」
「良かったです。ありがとうございます」
「あれ? でも、昨日も買い物に行きませんでしたっけ?」
俺は、昨日も似たような会話をしたことを思い出した。確か昨日も千尋さんは買い物に行くと言って出かけていた筈だ。
「そうなんですけど、結芽ちゃんたちの分とかで」
「ああ、そうですよね」
夜までかかるなら三人共、夕飯を一緒に食べることになるのか。それどころか、明日からはお昼も一緒になる。そうなると、普段俺と千尋さん二人だけの食料だけじゃ足りないという事か。それなら納得だ。
「あとは、歯ブラシとタオル。パジャマとかも必要ですよね」
「え?」
次に千尋さんが口にした言葉には、聞き返さずにはいられなかった。
いや、まだ誰のものと決まったわけじゃない。俺は最後の希望を胸に、千尋さんに尋ねる。
「それって、誰のやつですか?」
「もちろん、結芽ちゃんたち三人の分です。お金は修さんから頂いてますから」
「結芽たちの……って、まさか、泊まるって事ですか!?」
「司さん」
結芽に名前を呼ばれて振り返る。
「私たち三人は、司さんに勉強を教える間、ここに居候させてもらう事なってるんです」
「うそ!?」
「ほんとうですよ? 司くん知らなかったんですか?」
「初耳ですがっ!」
不思議そうに首をかしげる千尋さん。
やはり、この人もなかなかの天然だな!
「修さんから言われて、てっきり司くんも知っているものかと」
「いえ、そんなことは」
すると、俺のスマホがなった。
メールだ。こんな時に誰からだ?
画面をつけてメールを開く。
『偉大なる天才教授のお父さんでーす。そろそろ電話してくる頃だと思うから、最初にメールを送るぞ。そっちにいる俺の助手たちはお前のテスト勉強をつきっきりで見ることになるから、その間泊まることになってる。その間はお前がその子たちの面倒も見てやってくれ。勉強教えてもらってるんだからそれ位の事はやれよ。あと、今から俺は出張だから、しばらく電話には出られなくなるから、そこんとこよろしく。
ps.いくら子供らが可愛いからって手は出すなよ』
「…………」
あんのクソ親父!!俺が反対するからって、わざと黙ってたな。ご丁寧に、俺から電話が来ることを予測して、このタイミングで要件を全部まとめたメールを送ってきたのか!
確かに今日立てたスケジュールだと、ミーシャから英語を習うのが20時から24時だ。そんな夜中に子供達を寮に帰させるわけには行かない。そもそも、俺が送っていくにしたって、寮はその時間とっくに閉まってるはずだもんな。
「これは、一本取られたな」
いや!
俺は諦めずにすぐさま電話をかける。しかし、繋がることはなく、よくある電子音がスマホから流れる。
くそっ! もう出ない。てか電源切ってやがるな。
俺は諦めて通話を切った。
よくよく考えればすぐにわかる事だったのに、俺は本当にバカだ。昼に親父と電話した事で完全に安心しきっていた。
「一応、ニ週間の間の外出許可は下りているので、私たちは大丈夫です。お金の事とかも心配はかけません」
「そ、そっか」
お金の事は心配していなかったけど、結芽は気にしていたのだろうか。
それより、俺としては男子高校生が住む家に、知り合ったばかりの子供らが住むこと自体に問題があると思う。決して親父がps.で残したような行動に出ることはありえないが。普通に考えたら俺は今、社会的に危ない位置にいる。学校側もよく許可したものだ。
「それでは司くん。私少し出てきますね」
「あ、はい。なんかすみません。千尋さん」
「いえいえ。娘ができたみたいで嬉しいです」
本当に嬉しそうだ。幸せそうなふわふわした感情が俺にも伝わってくる。
「それに、司くんがやる気になってくれたことが、今は何よりも嬉しいです」
「千尋さん……」
「それじゃあ、行ってきます」
そう言って、千尋さんは階段を降りていった。
明るく振る舞ってくれていてはいたけど、千尋さんも俺が学校に行かなくなったことをすごく心配してくれていたんだな。この数日、悪いことをした。
「司さん?」
すぐ近くまで来ていた結芽が、心配そうに俺を見上げていた。
「ううん。何でもないよ。お菓子食べよっか」
「……はい」
背中をポンポンと軽く押してやり、テーブルへと促す。
あれ、ちょっと元気ない?気のせいか?
とりあえず、いくら考えていても仕方がない。ひとまず、この子たちのお兄さんとして、勉強を教わりながら一緒に生活をしていこう。
もちろん、問題を起こすことはあり得ないけど、期間限定とはいえ家族が増えたことを意識しておく必要はあるよな。




