過去の私は逃げ出したい
「ダンドさん! ローブのつまみとエール一杯お願いします!」
「はいよ!」
今日もお店は大繁盛。まだ夜に差し掛かったばかりだというのに席は賑わい始めている。
ルーナは肩まで切り揃えた茶色の髪を後ろで一つに結び、エプロンをつけて注文表を片手に張りのある声を上げていた。
ガヤガヤと仕事終わりの男性達が入店してくるのを席に案内しながら、慣れた手つきで空いた皿を回収していく。
「よぉ! ルーナちゃん! 今日も可愛いね! おじさんの酒の相手でもしてくれよ」
「今仕事中だから、また今度ね!」
酔っ払いの誘いを軽く往なし、お尻に向かってくる手をさらりと交わして、次の運ぶべき料理をとりにカウンターに向かった。
後ろでは先程声をかけてきた男とお尻を触ろうとした男がダンドさんに首根っこ掴まれて店の外に放り出そうとしている。
「すまんな、ルーナ。どうやらテッドが今日遅くなって、ルーナが夜でるって町の連中に知られたみたいだな。ったく、こんな時間から押し寄せてきやがって」
ダンドさんは男二人を軽々ポイっと扉から放り出して呆れた声で振り返った。
ダンドさんは身体が巨大だ。筋肉隆々で厳しい顔に髭をはやし、額には刃物でつけられた大きい傷がついている。人睨みするだけで大の大人が裸足で逃げ出す迫力だ。どう見ても常人には見えないが、このロダン亭の店主兼料理人だ。
「いえいえ、大丈夫ですよ! 別に追い出さなくてもよかったのに」
私はにっこり笑ってダンドさんの方を見た。ダンドさんが苦笑いを浮かべている。
「いやいや、お前に何かあったらリザの雷が落ちるからな」
リザさんはダンドさんの奥さんだ。ロダン亭は昼は定食、夜は居酒屋をしていて昼間はリザさんがロダン亭を仕切っている。小さいながらも御飯が美味しいと町でも有名な店だ。
ダンドさんはリザさんに滅法弱い。更に今年3歳になる娘のミナちゃんを前にすると強面はデロデロに溶けて、見る影も無くなる。
リザさんもダンドさんに厳しい言葉をかけながらも大切にしていることが分かるから、お互いを想い合った理想的な夫婦だ。
羨ましいと思うこともあるが、過去の自分を振り返ると過ぎた夢だということも分かっている。
「お! テッドが来たみたいだな」
ダンドさんが扉から外を眺めて言ったすぐ後に、息を切らした青年が急いでロダン亭に飛び込んできた。
「ルーナちゃん、遅くなってごめん!」
よほど急いで来たのか乱れた髪を整えてから、ダンドさんは手を合わせた。
濃い茶色の髪に薄茶色の瞳の優男風の端正な顔の青年だ。テッドさんはダンドさんの年の離れた弟だか、風貌はまったく似ていない。唯一兄弟だと分かるのは髪の色が同じというところだけだ。
「全然大丈夫ですよ。教師の仕事お疲れ様でした!って、今からもお仕事ですよね。頑張ってください」
私はお客様に料理を運びつつ、テッドさんに笑いかけた。テッドさんは少し顔を赤らめて、はにかんだ笑顔で笑った。その顔はリザさんを前にしたダンドさんに似ている。
テッドさんは昼間はたまに教師として教鞭に立つことがある。今日もその仕事でロダン亭にくるのが遅れるということで、到着までの代わりの給仕を私が引き受けたのだ。
「ありがとう、ルーナちゃん。兄さん、とりあえずルーナちゃんを家まで送ってから戻ってくるよ」
「おぉ、そうしろ」
「いえいえ、まだそんなに遅い時間じゃ無いし、家も近いから大丈夫ですよ!」
私は慌ててかぶりを振った。
「ルーナ、テッドに送ってもらえ。ロダン家の恩人に何かあったら大変だからな」
ダンドさんは豪快にがははと笑って厨房の方に戻っていった。
ロダン亭の人達はとても優しい人達だ。素性の分からない小娘を受け入れてくれた。こうして今無事に生きているのもこのロダン亭の人達に拾ってもらえた幸運があったからだ。
私は四年前までルファイナ・フォル・ランベルグという名前だった。伝統あるランベルグ公爵家の令嬢であり、王城を取り仕切る現宰相の娘でもあった。
過去の私は傲慢だった。自分の立場をかさにきて、他の人達を見下す暴君。完全に調子に乗っていた。過去の自分を思い出しただけで、顔から火が出るくらいに恥ずかしい。
逃げた私は過去の自分を殺した。別人として生きるために。
□□□□
元々私は自分に自信の無い子供だった。社交会の宝石と謳われた華やかな母と美丈夫な父に挟まれて、立っている地味な自分。髪も母のような輝くような金髪では無く、麦色の髪をしていたのが恥ずかしかった。
いつも髪はできるだけまとめて、目立たせないようにしていた。
母様は私を小さい頃の自分そっくりだと褒めそやし、華美な洋服やアクセサリーを与えてくれた。大好きな母から貰ったものを否定するのも躊躇われ、パーティーに母とお揃いの格好で出席したこともある。
華やかな母様と比べられ、とても視線が痛かった。
けどある日転機が訪れた。10歳の時に参加した国中の高位貴族の子女だけが集められた王宮でのお茶会だ。公爵家でこの国の宰相である父の娘の私も当然参加することになった。
大規模な子女会であるにも関わらず、そこには一人だけ男の子が参加していた。この国の第二王子であるセヴァン・ログライト・アラント殿下だ。
王族特有の美しい白銀の髪に鼻筋の通った端正な顔立ち。長い睫毛に縁取られた、吸い込まれそうな美しいロイヤルブルーの瞳。人形のように整った容姿は父様の様に雰囲気が冷たくなりがちだが、殿下はずっと柔かや笑顔で、優しそうだった。
殿下の笑顔を見た瞬間から、頭に血が上り、殿下のことで頭が一杯になった。一目惚れだった。
公爵家の令嬢である私は王城に今までも来ることがあったし、年の近い殿下とも会う機会があったが、華やかな王城が苦手でいつも適当な理由をつけては逃げ回り、この歳までお会いすることがなかった。
もっと早くから出会えていたら、こんなキラキラした眩しい殿下と友達になることはできなくても、遠くからその御姿を見ることができたというのに! 逃げ回っていたことを激しく後悔した。
お茶会の席は殿下の周りから順に位の高い貴族令嬢が割当られていた。私の席は殿下の斜め前だった。
公爵令嬢だから当然といえば当然なのだが、周りは高位貴族でこの日の為に精一杯着飾った輝かんばかりの御令嬢達、そして目の前には一目惚れした王子様。
ただでさえ今まで逃げ回っていた苦手なお茶会で、周りはとびきりキラキラした人達。内心緊張で吐きそうになりながら、周りを見渡すこともできず下の方を向いて固まっていた。
唯一の救いは、私も母様が用意した華やかな衣装に身を包んでいたことだ。もしいつも着ているような動きやすさ重視のシンプルなドレスを着ていたら、席に着くこともできずに逃げ帰っていただろう。
母様がよく「ドレスは女性の戦闘服であり、身を守る鎧よ!」と言っていた意味が分かった気がした。
お茶会が始まり、王妃様が初めの挨拶が始まった。このお茶会は第二王子の婚約者を見つける為のものだ。
「第二王子に見初められた者が婚約者になる」
と王妃様が仰った。
そんなことはこの茶会に参加した者は皆知っている。なんせ年齢層や性別、貴族の位を指定された絶対参加の王命のお茶会だ。この日の為に令嬢達は身体を磨き立派なドレスを仕立てて、遠い所からだと隣国の友好国からも来城しているのだ。
普通であれば王子の結婚となれば政略結婚。王の決めた家柄のあう令嬢と強制的に婚約となるはずなのだが、先代の王妃様、今の皇后様が前王様と身分違いの恋をして迎え入れられた関係で王子が婚約者を選べる幅を持たせているのだ。
皇后様は身分が低い男爵令嬢だったが、当時の皇太子である先代王に見初められ、その時婚約者だった性格の悪い悪役令嬢に婚約破棄を突き付けて一緒になったらしい。一時代に旋風を巻き起こしたラブロマンスだ。
だが、現実にはそう身分違いの恋で王妃を決められては貴族社会が成り立たない。なので、一定の身分以上の令嬢の範囲から王子に自分で選んでもらうという方法をとっているのだ。
王妃様の挨拶が始まったら下を向いてもいられない。勇気を出して顔を上げると、セヴァン殿下と目が合った。ロイヤルブルーの瞳を大きく開いて、少し驚いた表情をしている。けどすぐに笑顔になって、綺麗な微笑みをくれた。
私はあまりのことに血が上り、頭が沸騰するかと思った。その後のお茶会の内容は緊張しすぎて、余り覚えていない。
けど、お茶会の後に奇跡が起こった。なんとセヴァン殿下が私を婚約者として指名してくれたのだ。私は喜びの余り気絶しそうなりながら、屋敷に帰ったのを覚えている。
セヴァン殿下が、私を見初めてくれたのだと思うと、身体が熱くなり、自分に自信が出てきた。
父様、母様も凄く喜んでくれてフワフワとした夢のような幸せな日だった。
その日から私の生活はセヴァン殿下一色だった。
セヴァン殿下はあの容姿に加えて、文武両道の完璧なお方。その殿下に見初められたのだ。セヴァン殿下の隣に立つに相応しい女性にならなくてはならない。好きだった町の散策も森での遊びもすべて投げ捨てて、美容と勉強に力を入れた。
並み居る美しい令嬢の中、セヴァン殿下に選んでいただけたということを思い出すと、身体に力が漲るのだ。
王子の婚約者が社交が苦手などとはあってはならない。苦手だったお茶会も積極的に参加するようにし、美容にいいものがあれば父様に強請って買ってもらい、それをお茶会で広めたりもした。
殿下が見初めた相手が優れてなければ、殿下に恥をかかせることになる。
気持ちの弱かった私はくじけそうになる時もあったが、殿下に見初めてもらったということをバネに頑張り続けた。
セヴァン殿下は最高の婚約者だった。お忙しいはずなのに、たまに私の屋敷を訪問してくれたり、季節やイベントごとにプレゼントをくれた。周りに興奮しながら伝えると、婚約者として当たり前の行為だと呆れられた。
いつも殿下が来られる時は玄関で待ち構えて歓迎した。髪も服も母様直伝の華やかなドレスで。少しでも、殿下にいい印象を持ってもらいたかった。
「殿下! お忙しいのにいらしてくださって、ありがとうございます! お会いできてとても嬉しいです!」
「ありがとう、僕も会えて嬉しいよ。婚約者に会いに来るのは、当たり前のことだからね。今日も綺麗な服を着ているね」
「ありがとうございます! 殿下にそう言ってもらえて、すごく、嬉しいです」
だけど、一度たまたま近くに寄ったからと立ち寄ってくださったことがあった。その時は私は完全に油断していて、いつも頑張っているご褒美とばかりに以前のような動きやすいラフな服装で、庭に転がっていた。それを殿下に見られてしまった。
その時の殿下は驚いた表情をしていたが、すぐに優しい笑顔に戻ってくれた。そういう姿もいいねと褒めてくださったが、私は顔から火が出るかと思うほど恥ずかしくて、その後何を話したのかさえ覚えていない。一時も気を抜いてはいけないと心に誓った。
セヴァン殿下はなんでも器用にこなされる方だった。武芸も勉強も人付き合いも。そういったところも素晴らしいが、何よりセヴァン殿下は穏やかで気品があり、優しかった。
至らないことの多い私に優しく接してくれて、話を聞いてくれた。最初は一目惚れだったが、殿下と接するたびに殿下の人柄や優しさに惹かれていった。
髪色に自信が無いとつい溢してしまった時は、私の髪色が好きだと言ってくれた。麦色の髪は成長と共に金色になることもあると教えてくれた。
その日から私は殊更髪のケアを念入りにして、髪を伸ばし始めた。すると、本当に成長すると共に私の髪は黄金色の輝きを持ち始めた。
セヴァン殿下の優しい笑顔を見るだけで、胸が一杯になって幸せだった。
優しい殿下、私は彼の虜だった。
私は殿下を心からお慕いしていたし、殿下も私を見初めてくれた。それが何より嬉しかったし、ずっと続くものだと信じて疑っていなかった。
セヴァン殿下は第二王子で、王太子である立派なお兄様がいらっしゃるので、私が王妃になることはない。だが、王家に嫁ぐ以上王妃教育に準ずる淑女教育は必須だ。私が貴族の子供が多く通うベルマール学園の中等部に入るころから定期的に王城での教育が始まった。
第二王子である私の教育は王妃教育よりは難しくはなかったが、それでも高いレベルを求められる教育に私は必至でくらいついていった。もともと、頭の出来のよくない私は人一倍努力しなければこのような高いレベルに追いつけないのだ。
王城では王妃様や王太子殿下の婚約者であるセリーナ様にもよくしていただいた。
王太子殿下の婚約者のセリーナ様はとても立派な方だ。その容姿の美しさや聡明さはもちろんのこと気品があり、そして何より面倒見の良い方だった。
よくお茶会しながら王家の輿入れする人物として、どのようなことが必要なのか、周りとどのように接していけばいいのかなども教えてもらった。
私には姉はいないけれども、姉がいればこのような感じなのだろうかとセリーナ様を本当の姉のように慕った。
幸せな日々の中で、私はどんどん自分に自信をつけていった。
けど、いつから私は間違った方向に進んでいったのだろう。積み上げていった自信はやがて傲慢に形を変え、完璧を求めるようになり、人を見下すようになっていった。
私が中等部に入って半年もたたない頃、大好きだった母様が馬車の事故で亡くなってしまった。私は悲しみに暮れていたが、殿下が元気を出してほいいと慰めてくれて何とか立ち直ることができた。
けど、父様は滅多に屋敷にはおられないし、お忙しい殿下とは会える機会も少ない。中等部に入ってから殿下はさらに忙しくなられて、登城した時もお会いできないことが多くなった。大きな屋敷に一人。どうしても寂しくて、セヴァン殿下に相応しくある為、完璧であることに傾倒していった。
学園では自分よりも身分の高い者は殆どいない。なので学生時代に最先端の流行をつくっていった伝説のセリーナ様の様に、次は美容にも衣装にも詳しい私が学園の流行をつくるのだと信じて疑わなかったし、実際にそうしてきた。令嬢達は挙って私の真似を競っていた。
たぶんその頃から、周りの粗相が許せず怒りをあらわにし、身分の低い者や要領の悪い者を見下すようになっていったような気がする。
母様が亡くなって一年経ったころ、父様が再婚した。伯爵家の末端の女性で私と同じ年齢の男の子を連れての身分差のある再婚だった。
宰相で公爵でもある美丈夫な父様には、母様が亡くなってからは多くの再婚話があがり引くて数多だった。だから何もこんな身分差のある再婚をしなくても良いのにと憤りを覚えた。
確かに顔立ちは整っているが、素朴で可愛らしい優しい雰囲気の義母。豪奢で派手だった母様とは真逆のタイプだ。
父様は義母と結婚してからは、頻繁に館に帰ってくるようになった。私が一人の時はこんなに帰ってきてはいなかった。それが無性に悲しくて、腹ただしかった。
加えて、義母は子連れ再婚だった。レンという私と同い年の男の子だった。父様はレンを次期侯爵として育てると明言していて、義母と義弟を大切にしていることが見て取れた。
私が王家に輿入れするのだから、元々血縁貴族から養子取る予定だった。その方がよかった。私はいきなり現れたこの身分の低い親子に、全てを奪われるような錯覚を起こしていた。この親子には負けたく無いと、虚勢を張り続け攻撃的に接していった。
私はレンを馬鹿にし続けていたが、頭も要領も良く容姿も端麗なレンはすぐに周りに一目置かれるようになった。ベルマール学園の中等部が終わりの頃には、あろうことかセヴァン殿下の側近候補として、側で活躍するようになっていた。
私はセヴァン殿下がレンに悪事を唆かされないか心配になり、レンが些細なことで失敗するたびに殿下の側には相応しく無いと喚きたてていた。
この時にはセヴァン殿下は殆ど私に声をかけてくれることは無くなっていた。
淑女教育の賜物か、私もセヴァン殿下に会えたからと浮かれる気持ちを抑える術を身に付け、駆け寄ることもなく、完璧な令嬢の見本のような態度で接することができるようになっていた。
私はいつからか、完全に自分を見失っていた。だが、ある人物の存在がそれを更加速させた。
エリス・クローバー男爵令嬢。ピンクブロンドの長い髪にリボンを着けた大きな瞳が特徴の男爵家の令嬢だった。彼女は元々男爵の庶子で庶民として生活していたところを、母親の死をきっかけに男爵家に引き取られたという異色の存在だ。
最初は取るに足らない存在だと気にも留めていなかったが、エリスは私は元庶民だからと屈託なく笑いながら非常識な行動を繰り返していった。
婚約者のいる高位貴族の男性ばかりに次々と声を掛け、近づいていく。あろうことか王族であるセヴァン殿下にも気軽に声をかけ、馴れ馴れしく接していた。
エリスは特に身分の高いセヴァン殿下、次期公爵のレン、教会統括長の息子エルヴィ様、騎士団長の息子ダン様に積極的に近づいていっていた。身分が違い過ぎるにもかかわらずだ。
私はそれを黙って見ていることはできなかった。
学園内は皆平等と謳われているが、実際はそんなことはない。殆どが貴族で構成されるこの学園は、ある程度社交会のマナーが暗黙の旅行として適用される。
身分の低い男爵家から、気軽に高位貴族に声をかけるなどあってはならないことだ。
私はことある毎に嫌味を含めつつ厳しく注意をしたが、彼女は一向に改善する気がないようで余計に私の怒りを加速させた。
「ルファイナ様は、もっとセヴァン殿下を思いやってください! ルファイナ様はセヴァン殿下のことを考えて無さすぎると思います!」
といきなり聖堂に呼び出され、涙ながらに訴えられた時は、目の前が霞む程の激しい怒りを覚えた。
その後も演技のような身振り手振りで、殿下が可哀想だの、私なら一番に思いやえる等と訴え続けているが、脳が真っ赤に染まったように何の言葉も入ってこない。
気づけば私はエリスに向かって腕を振りかぶっていた。
平手をする前にレンが聖堂に飛び込んで静止の声を出したおかげでエリスを打つことは無かったが、エリスは涙を流して座り込み、エリスを庇うように立ったレンに睨まれた。
「義姉様! 貴女という人は! 自分より下の身分の抵抗できない相手を打とうとするなんて! いくら何でもやり過ぎです!」
レンが捲し立てるように喚く。
「...貴方に何が分かるのよ」
レンを睨みつけ次の言葉を繋げようとした時、レンが飛び込んできた扉にセヴァン殿下が冷たい瞳を此方にむけ立っているのに気づき身体が凍りついた。
セヴァン殿下は黙って近づいてくる。
弁解の言葉を言わないとと思うのに、言葉にならない。そもそも、どんな言い訳を並べても女性を打とうとしたことは事実だ。
殿下がゆっくりと近づいてくるのに、私は声も出せず唇を震わせるだけだった。
殿下は冷たい目線でチラリと私を見ると、小さい溜息をもらして何も言わずに私の横を通り過ぎた。
「エリス嬢、大丈夫ですか?」
殿下はいまだ座り込んで涙を流しているエリスに手を差し伸べる。エリスは嬉しそうにその手をとった。
「我が婚約者の非礼、私が代わりにお詫びしよう。申し訳なかったね」
「そんな! セヴァン様がお詫びなんて、しなくて大丈夫です。いいんです! きっと私がルファイナ様を知らずに怒らせてしまったんだと思います。私、ずっと庶民の生活をしていたから、まだまだ至らないことが多くて。ルファイナ様をお叱りにならないでください!」
「ありがとう、エリス嬢は優しいんだね」
セヴァン殿下が優しい笑顔をエリスに向けた。私には滅多に向けてくれなくなった笑顔だ。私のこの世で一番大好きな顔だ。
足元がガラガラと崩れたような気がして、逃げ出したいのに手足が震えて動かなくて、下を向いて唖然とすることしかできなかった。
レンが何か言っていたが、耳に入ってこない。三人が聖堂から立ち去っても、ずっと動けないままでいた。
それから、私のエリスへの態度は更に苛烈になっていった。エリスが何をしていても癪に触るのだ。何かあるとすぐに泣くのも嫌だった。
エリスにあたる度に殿下や殿下の側近が止めにくる。
さすがに殿下に不便をかけるのは嫌で、エリスと距離を置こうとしても何故かエリスは私の近くにくる。近づくなと伝えても、何かと適当な理由を付けて目につくように振る舞うのだ。
私は自分を止めることができなくなっていた。
私が何かする度に、止めに入るセヴァン殿下達にジクジクと心が痛み、自己嫌悪に落ち込むということを繰り返していたある日、それは起こった。
昼休憩にエリスに遭遇しては堪らないと、外の空気を吸いに中庭に出た時だった。
ここにいないはずの人物がいたような気がして、追いかけるように中庭のサロンの外れの裏庭まで行った。普段であれば決して行かないような場所だ。
そこで楽しそうな声が聞こえてきた。聴き慣れた、けど聴きたくなかった声だ。エリスのはしゃいだ声。さらにレンやエルヴィ様、ダン様、そしてセヴァン殿下の声が窓から聞こえた。生徒会のメンバーの会話にここが生徒会室のすぐ側であると思い至った。
セヴァン殿下は高等部の二学年に進級すると共に生徒会長にも就任していた。さすがだと喜びに打ち震えたことを覚えている。生意気にもレンは副会長、私に当たりのキツいエルヴィ様とダン様は補佐だ。
生徒会室で午後のお茶をしているのかもしれない。エリスの高い声が耳障りだ。
生徒会の手伝いと貴族社会の勉強と称して、エリスが頻繁に生徒会室に出入りしていることは知っていたが、また入り込んでるのかと呆れると共に怒りが湧いてきた。だが、さすがにこんな盗み聞きできそうな場所から乗り込む訳にはいかない。
中庭に戻ろうと踵を返した時、私の名前が聞こえてつい立ち止まった。
「エリス、今日はルファイナ様に虐められいないんだな」
「はい、ルファイナ様はいつも不機嫌で。どうしてなんでしょうね? カルシウム不足? でも、私は大丈夫です!」
「カルシウム? よく分からないが、時々ルファイナ様を見ていると痛々しくなる。あんなに攻撃的にならなくてもいいのにな」
ダン様の声だ。そう言うなら私を止める時に腕をねじ上げるのを止めてもらいたい。貴方も十分攻撃的ですわ。
「まぁ、確かに、毎回止めに入るのも大変だよなぁ」
レンが溜息混じりの声。止めて欲しいなんて頼んで無い。理由も聞かず止めに入るからこちらが一方的に悪者になるのだ。話を聞け!
「確かにいつも気を張って、威張り散らして。いつも取り巻きを従えてるけど、怖がっている令嬢もいるからね」
エルヴィ様が同調する。時々イジメの様子を楽しそうに眺めてること知ってますよ!
「そうですよね! あのガチガチに固まった縦ロール、いかにも悪役令嬢って感じ!」
悪かったわね! 今の流行なのよ! 好きでしてる訳じゃ無い!
「そんなこと言うなよ、私の婚約者だぞ。まぁ、確かにやり過ぎな時もあるが」
セヴァン殿下の声だ。会話につい心の中で反論していた思考も止まる。
「えー、でもぉ。婚約者に選んだっていっても、前の席に座っていてたまたま目が合ったからなんですよね?」
「まぁ、確かにそうだが…」
「大丈夫です! セヴァン様には運命の人がいますもの! 卒業パーティーで婚約破棄しちゃえばいいんですよ!」
それ以上は聞いていられなかった。震える足で後退り、その場から立ち去った。
別に誰に何を言われても気にしないようにしていた。私を友人だと言って近づいてくる明らかに下心の見える令嬢達だって、口では持ち上げるようなことばかり言ってくるが、本気で慕われていないことくらい気付いていた。
けど、そんなことはどうでもよかった。他の人からどう思われていたっていい。
嘘よ! ファビアン殿下から見初められたから、婚約者に選ばれたのだと思っていた。そうずっと信じて頑張ってきたのに!
それが、たまたま目が合ったからだったなんて。
殿下に見初めてもらえたという自信の上に成り立っていた、プライドと虚勢が一気に崩れ去った。根底にあったものが虚像だったのだから当然だ。
次から次に溢れてくる涙を拭うことも忘れて、教室には戻らずにそのまま館に逃げるようにして帰った。義母が様子のおかしい私を心配して様子を見に来たが、顔を見ることもなくすぐに部屋に戻ってもらった。部屋付きのメイドも人払いして、一晩中泣きはらした。
それから数日は何もする気力が起きず、体調が悪いと部屋に引きこもっては、泣いて寝てを繰り返した。
確かに思い起こせばあのお茶会でセヴァン殿下自身から見初めたと言われていなかった。
王妃様の「第二王子に見初められた者が婚約者になる」と言う言葉を私が鵜呑みにしていただけだ。気にいる令嬢がいなかったから、たまたま目が合った爵位の高い私を選んだのだのかもしれない。
そもそもおかしいと思ったのだ。あの頃はくすんだ麦色を髪にろくにお手入れをサボった肌、細くて貧相な身体。母の選んだ豪奢なドレスを着ているというより、着られているという感じで、ドレスが私を引き立てるというより私がドレスの引き立て役のような有様だった。
髪や身に着けているものを褒められたことはあった。勉強や淑女教育を褒められたことや、頑張れと応援されたこともあった。その度に私はそれを好意だと受け取っていたが、私自身を好きだと言われたことはなかった。
なんということだ! 盛大な勘違いであんな傲慢な態度まで取っていたなんて。穴があったら入りたい。そして、一生出てきたく無い。
泣き暮らしていたら、一週間程経っていた。こんなに泣いたのは初めてだ。母様が亡くなった時でさえ、こんなに泣かなかったかもしれない。
そうだ、あの時はセヴァン殿下が側で慰めてくれたから、早く立ち直ることができたのだ。
漸く落ち着いた頃、部屋にノックの音がして、義母がやって来た。
「あ、あの、ルファイナさん……お加減はいかが? あまり食事をしていないでしょう? 何か果物でも食べますか?」
遠慮がちに優しそうな笑顔つくって、私の顔色を窺う義母に、再び泣きたくなった。
私は今まで、義母に辛く当たってきた。義母が父様を身分目当てに誑かした悪女の様に思えていたのだ。何度も笑顔で声を掛けてくれ、気を遣って歩み寄ろうとしてくれていたのに、私は頑なに無視し続けた。それだけでは無く、早く館から出て行くように嫌がらせをしたり、婚姻前の身分の低さを罵ったこともあった。
館の中でも、気に入らないことをした人物がいれば、いつでも左遷した。完璧を求めていた私はメイドや使用人に少しでも粗相があれば、不快だからと。
昔の居心地の良かった館はいつの間にか様変わりして、私の前では皆ピリピリと張り詰めた緊張感を漂わせていた。
私付になりたいと申出るメイドは、今はいなくなっていた。私の癇癪に巻き込まれては堪らないと、遠巻きにされていたのが理解できた。
「ありがとう...ございます。お母様。喉が渇いたので、いただきたいです」
蚊の鳴くような声でそう告げると、義母は驚いた表情をした後、泣きそうな笑顔になった。
義母をお母様と呼ぶのも、お礼を言ったのもこれが初めてだ。義母が私を思いやってくれる優しい人なことは分かっていたのに、どうしてあんなに頑なだったのだろうか。傲慢になった高いプライドが義母を認めるのをゆるさなかったのかもしれない。そのプライドも根本から崩れ去り、涙と一緒に流れてしまった。
「初めて...私を母と呼んでくれましたね。本当に嬉しいわ! けど、そんなにやつれて、顔色も悪いわ。すぐに栄養のある果物を用意してもらうわ。待っていてね」
そう言うと部屋を急足で出て行った。メイドに指示をだしてくれたのだろう。よく冷えた喉越しの良い果物がすぐに届けられた。
果実の甘さが疲れた身体に染み渡る。やっと次のことを考えることができる様になってきた。
「私は、これからどうすればいいのだろう」
誤字脱字、読みにくい表現がありましたらご指摘いただければと思います。
自分に甘いメンタルプリンなので、厳しい言葉は避けてください。凹みます。
拙い文章力ですが、楽しんでいただけると幸いです。