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春に溶ける瞳  作者: 田辺
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和平の冬

 アナベルは、丁寧な手つきで栗色の自分の髪とハンカチで包んだ指輪とを空っぽの棺桶に収めていた。

 ――水晶でできたそれは割れやしないかしら。割れたってもう意味もないのだけれど。

 輿入れの準備のため葬儀への参列を許されなかったサークランドの王女、ミザリー・カフランはそんな、とりとめもない考えを頭の中で遊ばせながら、塔の窓からその光景を眺めていた。

 カフラン朝サークランドがミザリーの曽祖父の代に始まってからというもの、大河を挟んで相対するメルゼリ王国との間で争いを続けて来た。その戦争が書面の上で終わったのは、つい一か月前のことだ。激戦地と呼ばれるミレー平原で両軍共に千人以上の死者を出したのは二か月前の秋のこと。ミレーの戦いそのものはサークランドの勝利で終わったが両国双方に戦争を通して得られる利権が、増え続ける損失に追いつかないことを示すには十分だった。「先祖の誇り」だけで戦いを続けるには失ったものが多すぎたのだ。

 ミレーの戦いでメルゼリ王国の王太子は戦死し、サークランド側でも天国の門を叩いた貴族が数人いた。その中には2人の若い騎士、それにサークランド国王の弟、アシュトンも含まれている。王太子の死を受けたメルゼリ王国の女王は悲嘆にくれて病に伏せ、サークランド国王はサークランドの勝利という形で決着をつけるよりも和平交渉でこの無益な戦争を終わらせることを提案した。

 愚かな曽祖父が戦争の火種とした河口の利権をメルゼリ王国はサークランドに引き渡したが、その代りに和平の証として莫大な持参金と共にサークランド王女ミザリーはメルゼリ王国の王太子に嫁ぐことになっていた。


「王太子殿下はミレーで亡くなったとお聞きしました」

 数日前のことである。父であるサークランド国王の執務室でミザリーはそう告げた。国王は仲の良かった弟が死んでから深くなった眉間のしわを、指のはらでほぐしている。

「メルゼリ女王には三人の子どもがいた。王太子だった長男はミレーで薨御したが、あと王女と王子が一人ずついるはずだ」

 ミザリーとてサークランドの王女である。敵国だった王室の事情にも詳しいつもりだ。ミザリーにはどうにか戦死を免れた兄と弟がおり、奇しくもメルゼリ王国も同じ二男一女だった。兄弟の順序も同じとなれば忘れるはずもない。

「存じております。けれどメルゼリ王国では王女殿下にも王位継承権がおありでしょう。婿に入るならば弟のほうが適任ではありませんか」

「エリザベス王女は王位継承権を剥奪されている」

 国王は赤いベルベットの張られた薄い箱を取り出した。それを横目で見ながらミザリーは驚いた。そんな重大なことが、私の耳に入っていないなんて。

「なぜですか?」

「落馬の事故で、子供を産めなくなったと聞いた」

 馬鹿な、といいかけた言葉をミザリーは飲み込む。一国の王女が落馬の事故? 戦時中の緊張の下で? そんなことはそうそう起こらない。

 その事が意味する情勢を悟らないほどにミザリーは馬鹿ではなく、どこの国も宮中というものは毒蛇が巣食っているものなのだろう。国王は辛そうにまた眉間に手を当てた。

「そのような場所にお前を行かせるのは辛い。だが……」

 開かれた箱の中には油彩の肖像画が収まっていた。

 17才のミザリーと同じくらいだろうか。若者の明るい空色の瞳がこちらを見ている。後ろで一つにくくられた亜麻色の長い髪が顔の線を一層細く見せ、頬は薔薇色に色づく。睫毛の繊細なカーブはミザリーよりよほど魅惑的だった。

 ――まるで乙女のようだわ。

 綺麗な顔つきに描かれた王子の絵画にミザリーは一瞬見入って、すぐに我に返る。肖像画というものは往々にして実物以上に美しいものだ。

「お任せくださいお父様。否やを唱えようというのではございません。サークランドの王女としての職分はわきまえております」

「おおミザリー、……立派になったな」

 国王は目の前に立つ娘を見つめた。戦場を知らない華奢な体躯。腰まであるまっすぐな黒髪に隠れる瞳は曇り空の灰色だが、明るい陽の下で時折薄い水色に見える。目を見張るほどの美人とは言えないが、賢そうな額と王族としての風格がそこにあった。

「まさか、まだ私のことをおてんば娘だと思ってらしたのですか。随分前に卒業致しましてよ」

 二人きりの場であってもそう言って気を遣うミザリーに国王はぎこちなくほほえんだ。

 和平の証として嫁ぐのである。思うようにいかないことはあれど王宮内で命まで脅かされることはないと父親なれば信じたい。けれど忘れるには先の戦争では死人が出すぎていた。

「可愛いミザリー、新しい王太子の名前はセオドア・ホーリーだ」

 セオドア・ホーリー。

 ミザリーはその名前にほとんど聞き覚えがなかった。仇国の王位継承権第3位の王子はミザリーにとって縁遠く、あちらもおそらく影が薄かった。けれど、今はもうミザリーの未来の夫だ。

「それでは国王陛下。私はセオドア殿下と共に、我がサークランドとメルゼリ王国の懸け橋となりましょう」

 ゆっくりと優雅に腰を折る。おてんばと呼ばれてからかわれていたのは八才までのこと。九才の誕生日の日からミザリーは王族として恥じないよう、笑われないよう、懸命に礼儀作法を学び、教養を磨き励んできた。戦争中も王族の務めを果たし、教会で毎夜祈り続けたミザリーを笑うものはこの城にいない。

「明日には皆に知らせ、急いで準備をさせよう。輿入れは早ければ早いほうが……できれば冬が厳しくなる前がいい」

「かしこまりました」

「無理をさせてすまないね、ミザリー」

 国王はミザリーの額に親愛のキスを落とすと、輿入れの準備を言いつけるために従者を呼んだ。

 するべきことは山ほどある。衣装の選定と新しく作るならば採寸、持参品の確認。馬車の準備に、どの道を行くか国境の河ではどの橋を渡るか。王妃である母と兄弟、貴族への別れの挨拶、王妃としての最後の心得を学ぶこと。

 ――それに、どの侍女を連れていくか。


「考えすぎて頭が痛いわ」

 暮れかけた太陽の光が差し込む中、ミザリーは自室で椅子に座ってそう零す。考えごとをするときのいつもの癖で右手の人差し指でくるりくるりと空に輪を描いた。すかさず侍女の手によって目の前に熱い紅茶とチョコレートの皿が差し出された。礼を言ってミザリーは紅茶の香りを吸い込んだ。

「そうは言っても衣装の採寸も終わりましたし、後は貴族方への別れのご挨拶と司祭様へのご挨拶だけですわ」

「そうかしら……」

 いいと言ったのに、わざわざ葬儀を終えてから帰ってきた侍女のアナベルは考え込む様子のミザリーを優しく見つめる。

 アナベルはミザリーより四つ年上の二十一才、けれどミザリーがおてんば娘だったころからずっと一緒にいた二人に年の差はあってないようなものだ。

「あちらに着きましてもやって頂かなくてはならぬことは山積みでしょうけれど、私も精一杯殿下のご負担を減らすよう尽力いたしますから」

 あまり気負われずに、と続けようとしたアナベルはミザリーの驚いたような視線に気づく。

「……伯爵が、そんなことを許すはずはないでしょう」

「父が許さずとも国王陛下がお許しになれば問題などございません」

 アナベルはおかしそうに笑って紅茶のお代わりをついだ。アナベルのまとめた茶髪と紅茶が夕暮れの光で真っ赤に燃えて見える。ミザリーはもう何百回と出会ったその美しい光景に別れを告げる決心をしていたのに。

 ミザリー王女殿下の話し相手を兼ねた侍女を務めるともなればサークランドではそれなりの地位が要求される。アナベルは伯爵家の三女でミザリーの幼馴染だから城で働くことができた。

 だが今まで戦争をしてきた国、それも一生帰らないだろう王女にうら若い娘を付き従わせられるものだろうか。

「アナベル、あなた……だって」

 二人が生まれる前から続いていた戦争で、親しい者たちの幾人かが死んだ。ミレーの戦いで散った貴族の名前も顔もミザリーは覚えていたが、アナベルにとっても偶然その中によく見知った者がいた。

「私はミザリー様と違って気が長いのですよ」

 侯爵家の花と呼ばれた美人は棺桶に水晶の指輪を差し入れたのと同じ手で、胸元に吊り下げた銀の指輪を引き出しミザリーに見せる。唇はお茶目に弧を描いた。

「……、私、あなたは置いて行こうと思っていたの。その、もう」

 行儀が悪いと知りながらもミザリーは指でカップの縁をなぞる。

「いいえ、どこまでもお供いたしますわ。サークランドの国民として殿下がおてんばをなさらないか見張るお約束でしょう」

 太陽の残光にあたった銀の指輪がきらりと光る。ミザリーの返事がないことを気にせずにアナベルは窓を見た。

「そうしたら殿下とご一緒にあちらの国で春を迎えることになるのですね」

 一週間後、久しぶりに雪雲のない晴れた日にミザリー王女と従者達、それに持参金を載せた馬車は城を出た。国境の川には三週間で着く。

 馬車に同乗するアナベルが雪の積もった森が美しいですよ、と窓かけを引いたのをミザリー・カフランは他人事のように見ていた。

 いつのまにか太陽に雲がかかりはじめていた。


 なんとか厳冬が訪れる前にメルゼリ王宮に着けそうです、と護衛の騎士はメルゼリ語で伝えてきた。

 国境の河を境に馬車を変え、アナベルと他数人の侍女を残してミザリーはすっかり周りをメルゼリ王国の人間に取り囲まれている。

 王太子の喪中であるだろうことを汲んで衣装は落ち着いたライラックや灰色のものばかり用意してきたがどうやらメルゼリ王国の者たちに不評ではないようでミザリーはほっとしていた。

 馬車はガタガタと音を立てながら荒れた道を進む。

「昨夜の宿で王太子様のお噂を騎士達から耳にしました」

 アナベルは馬車の中でミザリーの腰が痛まないようにとクッションをかき集めながら言った。

「どんな方なの?」

「ご容姿は本当に殿下がご覧になった肖像画の通りで、亜麻色の髪に水色の瞳をお持ちだそうです」

「どうかしら」

 ミザリーは容姿に関しては噂も肖像画も信用していない。周りにいる召使たちもアナベルも口が滑ってもミザリーのことを「どうもパッとしない賢しそうな女」とは言わないだろうから。

 そんなミザリーの態度に抗議したいのかアナベルはクッションをはたいた。

「ではお人柄のお話ですわ。……ご存知の通り玉座に遠くいらっしゃった上に、思慮深いお人柄であまり表には出てこられなかったそうです」

「そうなの」

「故王太子殿下や王女殿下とはお父上が違われますが、仲はそれほど悪くなかったとか」

 ミザリーには異父兄弟の関係が通常どのようなものかは想像がつかなかった。サークランドに残してきた兄弟とミザリーの母親は同じであり、父親の愛人には子供がいなかった。

 セオドアとて決して女王の側室や愛人の子ではないが、メルゼリ女王は前の夫と死に別れており、現在の王配は二人目なのだ。今の王配は宰相の息子だとミザリーは聞いている。

「エリザベス王女とも?」

 メルゼリ王国の王太子亡き後、継承権第一位であったが落馬事故で子供を産めなくなったという王女だ。

「……殿下の事故は、現王太子殿下の祖父君である宰相一派が仕組んだことと噂されているそうです」

 前王配筋のエリザベス王女の継承権を放棄させて得をするのはセオドアの祖父である宰相なのは確かだ。宰相は戦争の和平派、女王は河口の利権を手放したがらなかったという。

 アナベルは馬車の床に目を落とした。

「お腰が多少悪くご出産が難しいとはいえ、手立てはいくらでもあったでしょうに」

 王女へ即位を妨げるような圧力があったのだろうか。考えてみてもミザリーにはわからなかった。何せ今まで戦争をしていたのだ。相手方の宮殿の内情はどちらも把握していないに違いない。

「とにかくセオドア王太子が王女と仲がいいのはいいことね、アナベル」

 多分それは、複雑な立場のなかでも波風を立てないようにできる人だということだ。

「……殿下にお優しい方であればいいのですが」

「お優しい方でなくともいいから、国土の再興を共に目指せる方がいいわ」

 アナベルはミザリーの言葉を聞いて口元をほころばせた。

 今にも雪がこぼれてきそうな灰色の空の下にそびえたつメルゼリの王宮は、冷たく白い石の美しい建物だった。

 「無事のご到着、一同喜びをもってお迎え申し上げます。サークランド、ミザリー・カフラン王女殿下」

 宮殿の最初の広間でミザリーたちを出迎えたのはヘンリー・ティーリング伯爵という男だった。色褪せた茶髪にやつれた頬。おおよそ健康体には見えないがこの男は王太子殿下の最も親しいお付きであるという。

「歓迎にお礼申し上げます。両国の平和の礎となれますように」

 ミザリーがティーリングにそう告げると人々がホッとしたような声を漏らした。ティーリングは二度ほどまばたきをして深く頭を下げた。彼の衣服は上から下までモノトーン一色だ。ミレーの戦いで死んだ王太子の喪に服している城の中では黒い服ばかりが駆けまわっている。サークランドより厳しい冬が始まろうとしている。けれど、それでも確かに戦争が終わるという喜びの声があちらこちらから聞こえた。

ミザリーは与えられた部屋の窓から降り出した雪でけぶる遠くの山々を眺めながら喜びの声に鈍かった己を恥じた。

――人々がこんなにも喜んでいるのだから、戦争の終わりを私は王太子殿下と確かなものにしなければいけないのだわ。

 部屋に入ってきたアナベルがティーリングからの伝言を繰り返した。

「『セオドア王太子殿下はご多忙のため、一週間後の結婚式までお会いになることはできません。ミザリー殿下におかれましてはどうぞごゆるりとお過ごしください』とのことです」

「……お忙しいのは仕方ないわね。私がわがままを言って王太子殿下の邪魔をしては悪いもの」

 王太子は慣れぬ重圧に疲れ切っているのだろうとミザリーは思ったし、アナベルもそうだろうと苦笑した。肖像画から見る限り王太子は繊細の二文字がよく似合う。

「私共もこちらの暮らしに早く慣れるよう努めます。ご迷惑をおかけしてはなりませんものね」

「ええ。よろしく」

ミザリーは女王陛下にご挨拶をと思ったが、お加減のよろしくないということでこちらも止められてしまった。


結局、王太子とミザリーが初めて顔を合わせたのは本当に一週間後の結婚式当日のことだった。

「セオドア・ホーリー、汝はミザリー・カフランを富める時も、貧しき時も、病める時も、健やかなる時も、死がふたりを分かつまで助け合い、慈しみ、貞節を守ることをここに誓いますか?」

「誓います」

 ミザリーの横で王太子、セオドア・ホーリーは静かな声で、そして幾分ぞんざいに誓いを告げた。

 足取りもおぼつかない老司祭は声を張り上げて宣言する。

「神の前で両人は誓いを立てられました。これより先、病める時も健やかなるときもメルゼリ王太子セオドア・ホーリーと王太子妃ミザリー・カフランは夫婦であり続けることをここに私が宣誓致します」

 取り急ぎ行われた結婚式はあっけないものだった。喪中だからと披露宴もなく、大聖堂の中二人はサインを交わして持参金を渡し、誓いの言葉に首肯した。観衆はまばらな貴族のみ。

 まるで取引のようだわ。

 実際これは両国の和平に伴う取引だった。ミザリーはちらりと横で司祭の言葉を聞く王太子を見る。

 驚くべきことに王太子セオドア・ホーリーは肖像画と寸分違わない、いや、それ以上の美しさだった。亜麻色の髪は王宮お抱えの職人が一番細く紡ぎだした金細工のように淡い日の光を受けて輝き、瞳は透き通る冬空の隙間のような水色。ひょっとするとミザリーより線が細い。ただ、宣誓のときに聞いた声は20歳の男の声に間違いはなかった。

 式が終わり、ミザリーが重いドレスを着替え終ると王太子は声をかけることもなく執務に戻った。ミザリーは一人で食事をし、貴族の挨拶を受けエリザベスと言葉を交わす。アナベルは私ではお力になれません、と頭を下げて寝室に送り出してくれた。

 震えはせず、灰色の目をした王女は今から襲いかかってくる未知に立ち向かってやろうと考えた。毛を逆立てた猫のように布団にくるまり王太子を待つのだ。城で聞いた喜びの声を思い出せばミザリーの体の奥から熱がじんわりと滲み出してくる。ミザリーとセオドアの結婚は豪雨の後の虹になるだろう。

 しかし、不思議といくら待ってもあの美しい男は来なかった。考えてもこればかりはミザリーにもわからない。もしかしてこの異国の閨では花嫁が寝静まってから花婿が来るのかもしれない。メルゼリ王宮での夜の作法は流石に故郷でめくった文献にも載っていなかったし、母は口にださなかった。いや知らないのかもしれない。

 翌朝、故郷と変わらずメルゼリ王国でも朝焼けは美しく、一人寝の朝は寒いのだとミザリーは初めて知った。



算用数字と漢数字が入り混じっていてすみません

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