疾風
猿少年は部屋から出るなとは言われていたが
律儀に守る必要は無いと
人目の無い内にこっそりと屋敷を出る事にする。
「人目につかんように……」
猿少年は盗みの下見で鍛えた隠密技術で
音も無く無人の館を進んでいく。
「あそこが正門か、流石にあれを使う訳にはいかんじゃろうな」
さらに歩を進め、猿少年は不審に思う。
「こんだけ馬鹿でかい館なのに、人っ子一人居やしない。一体何なんじゃ?」
「何、人を雇う金が無くてな」
突如として聞こえた猪狩の声に、猿少年は
身を固くして振り返る。
「な、なんで……」
「いや、丁度所用から帰ってな!」
あっけらかんと言う猪狩の隣には
美しい女性が笑いながら猿少年を見ている。
「蒼ちゃん、彼が言ってた子? なかなか生意気そうな顔をしてるわね」
「そう言わないでやって欲しい。色々と事情があるのだ」
女性はうんうんと頷き
にっこり笑って猿少年に言う。
「私はコマよ。よろしくね!」
猿少年は怪訝な表情でコマを睨みつける。
「なんじゃあ、あま! 気安く話しかけ──」
ブチン!
即座に猪狩が猿少年を抱えて、コマから距離をとる。
「あ゛あ゛ん! このガキ、誰に物喋ってんのかわかってんだろうな!!」
コマは手近な壁を殴りつけ
屋敷の風通しを良くする。
「ば、馬鹿者! 早くコマ姉に謝るのだ!」
焦った猪狩と、コマから発せられる怒気とも
他の何かとも取れる気配を感じ、猿少年は
反射的に謝罪をしてしまう。
「申し訳ありませんでした!」
するとコマは、態度を豹変させ再び笑う。
「うん、分かれば良いのよ、分かれば」
猪狩は汗を拭い、猿少年は土下座の姿勢のまま。
「それで、あなた名前は?」
「はい! わしは……わたくしは『猿』と申します!」
コマは一瞬だけ驚き、その後腕を組み考える。
「蒼ちゃん、さすがに何とかならない?」
「拙者も何か、手はないか考えていたところで」
指を立てて天井を指したコマは
名案とばかりに
とんでもない事を言い始める。
「名前付けちゃいましょうよ! ここで。だーいじょうぶ、義旭様にお願いすれば、万事解決でしょ!」
「えぇ……」
猪狩と猿少年は思わず声を揃えて
顔を引き攣らせる。
かくして、猿少年の名前を決める事になった
なったのだが……
「もうちょっと、待っててね〜! もうすぐご飯が炊けると思うから」
厨房から、コマの元気な声が聞こえる。
猪狩と猿少年は、少し離れた場所に
据え付けられている机で、引き続き命名に関する
話し合いが続いていた。
「少年は、何か希望は無いのか?」
「ふむ、わしはこの名前で今の今まで生きてきとる。今更、あんな名前が良いなぁ等と、思った事も無い」
「そうか……では、自慢できる特技はあるか?」
「特技か、スリをしてバレたことは無いな」
自慢げに胸をはる猿少年だったが
猪狩は肩透かしを食らったような表情を浮かべ
目を閉じて考え込む。
「そ、そうか……」
「そうだ、『逃げ足』にも自信があるな!」
「逃げ足? 逃げ足か……」
そうこうしているうちに、コマが沢山の手料理を
運んで来る。
「おまたせ! 続きは食べながらにしましょ?」
「おお! 助かる! 少年、コマ姉の料理は絶品だ、遠慮せずに食え!」
「絶品だなんてそんな……」
くねくね身を捩りながらコマは何か呟いているが
猿少年は構わずに喋りだす。
「くれるって言うなら、食うが……」
コマの様子に困惑する猿少年をそのままに
猪狩は両手を合わせて
「いただきます」と言い食べ始める。
猿少年は、それを不思議がり
猪狩に尋ねる。
「なんじゃあ? そりゃあ」
猪狩は何の事かと思い、聞き返す。
「それ……と言うと?」
「いただきます、て言ったじゃろう?」
猪狩とコマは顔を見合わせる。
「知らないの? ご飯を食べる前のあいさつみたいなものよ?」
「うむ、作ってくれた人、はては明日への糧となった、生き物へ『敬意と感謝』を込めて言う言葉だ」
「知らん、そんなもん思ったことも無い!」
即答する猿少年に、コマは芝居掛かった
仕草と口調で猿少年を憐れむ振りをする。
「そうなの、それは寂しい思いをしてきたのね……」
「はあ? じゃから、なんとも思って──」
「良いのよ隠さなくても! これからは、私たちと一緒にご飯を食べて、家族の温もりを感じて行けば良いわ!」
猿少年の言葉を遮り、有無を言わせぬ
物言いで、猿少年に迫る。
「お、おぉぅ……」
「良いわよね? 蒼ちゃん」
「……はい」
コマの圧に屈した、男子二人は
ただただ頷くしかない。
一方、言質をとったコマは
上機嫌で両手を合わせて猿少年を見る。
「ほら、一緒にやるの!」
「はいっ!」
猪狩は改めて、箸を止め手を合わせて
猿少年はそれに倣うように声を合わせる。
「いただきます」
三人の声が揃った時、猿少年の心に
感じたことの無い感覚が一瞬だけ浮かび、消える。
その後三人は、食事をとりながら
猿少年の名について考える。
「名が『猿』ならば、読みを変えてみるか? 例えば『ましら』など、どうだろうか?」
「蒼ちゃん、それじゃあ結局、意味は同じでしょ?」
「言われてみれば、確かに」
「そもそも、猿としか呼ばれてきてないんじゃ、どんな名前だろうと、ぴんと来んわ」
半ば呆れ顔で言う猿少年を諌めるようにコマは言う。
「駄目よ、私たちはもう『家族』みたいなものだもの。それが悪口みたいな名前じゃ、わたし達だって良い気分じゃないわ!」
「めんどくさいのう」
猿少年の言葉にコマは、ギロリと鋭い視線を向ける。
「いえ! なんでもありません!」
「ふふっ、分かれば良いのよ? そうだ! 『疾風』なんてどうかしら?」
「疾風?」
「そう、疾風。身のこなしに自信があるみたいだし、疾風の様に速く動ける、みたいな?」
「格好は良いが、誰の名前じゃ? と、思ってしまいそうじゃな」
猪狩はふむ、と顎をつまみ
折衷案をだす。
「疾風がぴんと来ないのであれば、姓に『猿』と付けよう」
「それじゃあ、さる はやてになる訳?」
「いや、そのまま『さる』と読まねば良いだろう? そして、『さる』はあだ名として使っても良いし、使わなくても良い」
猿少年は感心したようにうなり、腕を組む。
「ほぉ、考えたもんじゃのう! それなら、違和感は無いな。で、猿の字はなんと読むんじゃ?」
「そうだな……ううむ」
「蒼ちゃん、まさか考えてなかったの……?」
考え始める猪狩にコマは呆れ
猿少年も溜め息をつく。
「『ませ』! ませ何てどうだ!?」
追い詰められた猪狩は、咄嗟に口走る。
コマと猿少年はしばらくポカンとした後
難しい表情になる。
「えっと、どういう意味……?」
コマは尋ねる。
「意味という程のものは無いが、『ましら』を捩った読みだ。これならば、そのまま呼んでも問題あるまい」
「そうじゃろうか……?」
首を捻る猿少年に、コマは問う。
「で、どうなの? 気に入った? 『猿 疾風』」
猿少年は腕を組んでうなりながら返事を捻り出す。
「猿っちゅうのは、さるって字を使うんじゃろ? なら、問題は無い。んで、疾風っちゅうのは、単純に格好は良いとは思う」
はっきりしない猿少年に、コマは痺れを切らして
先程よりも少し大きな声で、答えを引き出そうとする。
「気に入ったか、気に入らないか、はっきりしなさい!」
びしっと人差し指で、猿少年を指す。
「は、はい! 気に入りました!」
コマの勢いに負け、咄嗟に返事をする猿少年だが
内心、疾風という名は吝かでは無い。
それを感じ取ったのか、満足そうに頷くコマ。
「よろしい! じゃあ後は、わたしが頑張るだけね」
張り切るコマを見て、惚けたように佇む疾風と
苦笑いを浮かべる猪狩がいた。




