猪狩
「高爺さま!!」
太郎が駆けつけた時、その場には
血の匂いが濃く、常人であれば
鼻をつまみ、目を背けたくなるような惨状が広がっていた。
高亥の状態を確認するのに夢中な太郎は
そんな中でも、高亥に目を向ける。
「そん……な……」
太郎の目に映った高亥は
牙は折れ、血に塗れていない場所を探す方が難しいほどに
紅に染まった毛皮、潰れた片目
生きているのか死んでいるのか判断出来ない程に
身動ぎひとつしない巨躯。
そんな姿に絶望している太郎に、声がかけられる。
「そこの人! まだ止めを刺すに至っておらぬ! 避難してくれ!」
太郎が声の主に目を向ける。
視線の先には高亥とやり合い負ったと思われる男が
怪我を押さえながら
刀を杖代わりにようやく立っている状態だった。
──瞬間、太郎の中で何かが弾けた。
「おのれぇ!!」
しかし、太郎の叫びを掻き消すように
高亥が大きな声を上げ、立ち上がる。
太郎も男も、高亥に目を向ける。
高亥は、立ち上がった拍子に
あちらこちらの傷口が開いたのだろう
全身から血を流しながら威嚇する。
もはや焦点も定まらない程に満身創痍で
気力だけで立ち上がったのは明白にもかかわらず
その鬼気迫る様子に太郎も男も動けない。
そんな中、太郎の心に穏やかな声が響く。
「太郎、わしは直に死ぬ。だが、その者を恨んだり、憎んだりする必要は無い。寧ろわしは、その者に『感謝』さえしている。ただの年老いた猪としてでは無く戦士として死ねる。長く生きたわしにとって、これ程幸せなことは無い」
「で、でも……!」
「太郎。大切なものを失いたくなければ強くなれ! 強さとは力の強さだけでは無い。斃す為、守る為の力を十全に引き出すための『技量』。傷つく事、大切な物を失う恐怖を知ってなお、立ち向かう『心の強さ』。それらを兼ね備える者に、太郎ならば、なれると信じている」
高亥はそこまで伝えると、体の力がどこからと無く抜け
倒れるでも無く、崩れ落ちた。
高亥が地に伏す衝撃で、震える空気が
太郎と男の頬を伝わる。
男は大きく息を吐き、その場に座り込む。
「はぁ……はぁ……何とか、なったか。そこの人、大事ないか!?」
高亥の働きにより、太郎からの敵意を感じずに済んだ男は
太郎の身を案じる。
……が、太郎からの返事は無い。
太郎は高亥が逝った後、生気が抜けたような顔で
その場にへたり込んだまま動かないでいた。
──そこへ、松吉がやってくる。
「太郎! どうした! って、何という大きな猪じゃ! ……! なんでお侍様がこんなところに!? 怪我をなされてるでは無いですか!」
松吉は一度の情報量の多さにたじろぐが
先ずは男へ駆け寄り、怪我の具合を見る。
「大丈夫でごさいますか? お侍様」
「ああ、この辺りに住む者か? 拙者への気遣いは無用だ、生き死ににかかわる様な傷は無い。そんな事よりあちらの人が、先程から声をかけても反応せん。そちらを見てやってくれんか?」
松吉は少し躊躇ったが、その後強く頷き、男へ会釈し
太郎へと駆け寄る。
見たところ怪我は無い、ただ虚空を見つめ
声も無く、涙を流していた。
──これじゃあ、まるで大人ではないか……!
それが松吉が最初に感じた印象だった。
出来る限り普通の子供のように育てていこうと、おハツと誓ったのに
神様はどうしても、この子を早く成長させたいのか! と心の中で
やるせない思いを押し殺し
こぼれそうになる涙をぐっと堪え
太郎の肩を揺らす。
「太郎! 太郎! しっかりしろ!」
「ちち……うえ……」
松吉は子細は知らないものの
太郎と大猪の間には、浅からぬ縁があったのだろうと察し
力強く抱きしめた。
すると太郎は堰を切ったように
大きな声を上げ大粒の涙を流す。
松吉は抱きしめたまま、うんうんと何度も頷き
松吉の目にもうっすらと涙が浮かんでいた。
太郎の泣きじゃくる姿には、久しく見られなかった
年相応の少年の面影が見えた気がした。
松吉は太郎を落ち着かせ、侍に肩を貸し家路につく。
家に着くなり、おハツが太郎に駆け寄り優しく抱きしめる。
「太郎……母は何があったのかは分かりませんが、今はゆっくり休んで。あなたはまだ七歳、慌てなくても大丈夫よ。ゆっくり、一歩ずつ成長していけば良いのです」
おハツは、寝所まで太郎を連れて行き
ふたたび松吉達の元へ戻る。
そして侍に深く頭を下げ、傷の手当ての準備を始める。
「何から何までかたじけない、拙者は巽家家臣『猪狩 蒼達』という者、故あって巽家が治める領土にある村々を回っていたのだが……道に迷った挙げ句、食うに困って猪に手をかけたところ、主に見つかりこのざまだ」
「それは大層なご苦労をなされたようで」
松吉とおハツは準備をしながら頭を下げる。
おハツが猪狩の怪我を水で洗い、その後
怪我に効くとされる野草を、加工した物を
松吉が用意した布に塗りつけ
傷口に貼り付ける。
松吉の持ってきた端切れを包帯代わりにし
取り敢えずできる限りの応急処置を施しす。
「怪我の具合が良くなるまで、家に泊まっていってください」
「いや……ううん、そうか。すまない、世話になる」
松吉の申し出に、猪狩はしばし迷った後
この家に留まることに決めた。
「そういえば、喰う為に狩った猪を置いてきてしもうた。責任を持って喰ろうてやらねば、猪にも主にも申し訳が立たん」
「分かりました、猪は私が取ってきましょう。ですがあの主と思しき大猪は、後ほど弔ってやりたいのですが、よろしいでしょうか?」
「それは構わんが……理由を聞いても良いか?」
松吉は難しい表情を浮かべ、しばらく逡巡したのち
猪狩に言う。
「込み合った事情がありますので、後ほどでも良いでしょうか?」
松吉の言葉をうけて、猪狩は頷き、そのあと頭を下げる。
「分かった。元から無理に聞き出すつもりは無い。猪肉を取りに行く際は、くれぐれも無理をしないよう。野犬に取られていればくれてやって構わぬので」
「お気遣い心入ります」
さっそく松吉は準備をして、森に入っていく。
猪狩はその姿を見送った後、おハツに向かって頭を下げる。
「細君殿も、世話をかける」
おハツは慌てて頭を下げ、恐縮する。
「とんでも御座いません、ゆっくりなさってくださいませ」
猪狩は苦笑いを浮かべ、おハツは咄嗟に自分がした反応を
気恥ずかしく思ったのか、下を向いたまま黙り込む。
二人は松吉が帰るまで、どこか居心地の悪い
時間を過ごした。
それから暫くして猪を荷車に乗せて、松吉が帰ってくる。
それを心待ちにしていた二人は、にわかに浮き立つ。
怪我を負っているはずの猪狩は
松吉と猪肉の処理を始め、おハツは思い出したように
料理を始め、作業終わりに直ぐに食事がとれる様にと
準備を進める。
結局作業が全て終わり、猪狩が食事をとったのは
夜も明けようとする、朝方になった頃だった。
「朝餉の様な時間になってしまい、申し訳ありません」
「いやいや松吉殿、拙者にそう畏まらんでも良い。誰が見てる訳でも無し。歳とて、そうは離れておらんだろう?」
「それが……」
松吉は猪狩にこの一家に起きていることを、大まかに伝える。
「なんと……俄には信じられんが、本当なのだろう。確かにこの家族には多少違和感があるとは思っていたが。それでは、やむを得なかったとはいえ、太郎殿には申し訳ない事をしたな」
松吉や猪狩、二人の話を聞いて事情が理解出来たおハツは
神妙な面持ちで黙り込む。
そんな空気を変えるため、猪狩は話題を変える。
「細君殿、大変美味しく頂いた。まことにかたじけない。拙者は朝の鍛錬をしてから横になりたいと思う。この部屋の隅で休んでも良いだろうか?」
松吉とおハツは猪狩の言葉に首を振り、恐縮する。
「いえいえ! そんな!」
「寝床は、わしの仕事場に用意しますんで! そちらにお願いします!」
猪狩は未だ痛む身体を引きずりながら庭へと出て鍛錬を始める。
そんな様子を見送り、松吉とおハツは寝床の用意や
朝の支度をしつつ、太郎の寝覚めを待つのだった。




