旅愁
聴こえる波音を儚いと思った。
寄せては返すを繰り返す。拳をそっと開けば一握の砂。
さらさらと指の隙間からこぼれ落ちる。
尖った鉛筆があれば良いのに。
瞬く間に波に攫われる文字であっても、綴りたい名前がある。
あなたの名前を刻めば、それが何かの印となる気がして。
お母さん。
私たちを置いて、恋を選んだあなた。
ついに振り向かないまま、病床に伏した。
駆け付けた私からふいと顔を逸らしたあなたを、今でも忘れない。
それでも微かな後悔があったのか、あなたは顔をこちらに向け直し、よく来てくれたねと言った。
ねえ、知ってる。お母さん。
あなたが消えたあと、お父さんと私が、その空漠を埋める為にどれだけ懸命だったか。
お父さんは本当に、お母さんのことを愛していたのに。
何が足りなかったとか、そんな理屈じゃないことは、私だって解っている。
お父さんはそれでもあなたを許した。
私にあなたを恨むなと言って、逝ったわ。
私は残り少ない命を蛍のように灯すあなたと過ごした。あなたが恋した人はとうにいなくなっていた。
寂しいお母さん。
それでも恥じる顔一つせず、最期まで悔いる様子を見せずにあなたは旅立った。
見送った私の心は虚脱感に満ちて。
潮風にぎこちなくなる心に錆止めをする必要を感じる。
錆びたら動けなくなるから。
私は私の生を、また歩まなくてはならないから。
ユリカモメの鳴く青い空を見上げる。
もう良いよね。
あ、虹。
写真提供:空乃千尋さん