第八話 始まりの朝
儚く淡い白雪が空を舞い踊り、次第に白銀の世界へと塗り替えられていく狐守の街。
古くより狐守の地に居を構え、火之宮を始めとした"四大名家"と呼ばれる者たちと共に魔獣から人々を守ってきた家系の一つ――桜ノ宮家の屋敷の一室に、二つの人影があった。
一つは柔らかな布団の上で横になり、今にも壊れてしまいそうなほどに儚げな印象を受ける、少し青白い顔の女性。
そしてもう一つは、横になる女性の傍で姿勢良く座り、彼女の話す小さく弱々しい声を一言一句聞き逃さないように静かに耳を傾ける、四歳ほどと幼い少年――桜ノ宮冬次だった。
布団の上に横になっている女性は、体を病に冒されながらも健気に笑みを浮かべ、幼い冬次へと、自分が身に着けていたあるモノを手渡そうとする。
それは女性がつい先ほどまで首から提げていた、蒼い石の付いたペンダントだ。
冬次はこのペンダントが、目の前の女性――母である桜ノ宮冬乃が、いついかなる時も肌身離さず持っていた大事なモノだと知っている。
『これはね、お母さんが小さい頃に冬次のおばあちゃんからもらったモノなの。
すっごく大事なモノで、ずっとずっと昔、おばあちゃんのおばあちゃんよりも前から受け継がれているのよ。
どう? すごいでしょ?』
まだ体の調子が良く、活力に満ちていた頃、目の前の母は楽し気に笑ってそう言っていた。
どれだけ凄いのか、という具体的な理解は出来ていなかったが、それでも朗らかに屈託なく笑顔を浮かべるその姿は色濃く記憶に刻まれている。
だからこそ、幼い冬次は当然、疑問に思った。
「……これ、だいじなモノだったんじゃないの? なんで僕にくれるの?」
純粋で無垢な煌めく蒼の瞳を手の中にあるペンダントへと向け、不思議そうに首をひねる。
「実はこのペンダントはね、お守りなの。 すっごくすっごーく効き目のあるお守り。
代々、親から子へと受け継がれる大事なモノ……って言ったらいいのかな。
冬次にはわからないかもしれないけど、これは今のアナタにとって必要なモノなの。
私の血を……ううん。 私の力を色濃く|受け継いでしまったからこそ、アナタに持っていて欲しいの」
冬乃は冬次の疑問に、真面目な態度で答えた。
血だとか、力だとか。 そんなモノは、幼い冬次にはわからない。
それがどういう意味を持つのかなど、理解できるはずもない。
だが、そのわからない何かが、これまで母がこのペンダントを大事に持っていた理由なのではないか。
そしてその何かというのが、自分の中にも存在するのかもしれない。
そう、冬次は幼いながらに思った。
「……わかんないけど……わかった。
お母さんがそう言うなら、僕、このペンダント大事にするね」
「ふふっ、お母さんも冬次がそうしてくれると嬉しいわ」
本当に嬉しそうに笑みを浮かべる冬乃。
その表情からは先ほどまでの青白さが薄らぎ、顔色が良くなっているように冬次には見えた。
「そうだ。 今日はお母さん、体の調子が良いし、つけるの手伝ってあげるわね。
ペンダント、かしてもらえる?」
「あ、うん。 はい、これ」
「ありがと。 それじゃ、動かないでねー?」
渡されたペンダントを受け取り、冬乃は冬次の首の後ろへと手を回す。
そしてペンダントをつけ終えると、
「――――――――――――――、――――――――――」
日本語ではない、全く聞き覚えの無い言葉が冬次の耳元で囁かれた。
「あ、あれ……?」
瞬間、冬次の体が支えを失ったように崩れ落ちる。
「な、何だかぼく……ちからが、ぬ……け……」
先ほどまで何ともなかったはずなのに、突然力が抜けて失われたような感じがする。
力を入れているつもりなのに、体は思うように動いてくれない。
視界はぼやけ、目の前にいるはずの母の姿は二人、三人と複数いるようにさえ見えている。
いったい何が起きたというのか。
幼い冬次の頭は、ワケの分からない現状に理解が追いつかなかった。
いやむしろ、考えることすらまともに出来そうにない。
ただただ、母の口から紡がれる哀しい音色の言葉だけが冬次の耳に届けられる。
「ごめんなさいね、冬次」
何故謝る? 何故目の前の母からは哀しい声が聞こえる?
わからない。 意識がドロドロに溶けて消えてしまうかのようだ。
それでもまだ、冬乃の声は冬次の鼓膜を揺らす。
「大丈夫? ごめんね、辛いよね。 でも、必要なことなの。
今のアナタのままじゃ、いずれ体が力に耐えられなくなる。
だから、まだ力が目覚めきっていないうちに処置しておかないといけなかったの。
本当に……身勝手なお母さんでごめんなさい」
冬乃はそう言って、崩れ落ちた冬次を己が胸に抱き寄せ、その黒髪を優しく撫でる。
柔らかく温かい母の温もりに包まれ、冬次の意識がさらに遠くへと誘われていく。
そんな中ではあるが、幼い冬次は懸命に意識を繋ぎとめ、何かを言おうと口を動かす。
「……」
だが、本当に動かしただけ。
口からは全く音が出ていない。 既にそれすらも出来ないほどに疲弊していた。
そんな冬次に対し、冬乃は何かを悩む素振りを見せ、決意したようにゆっくりと話し出す。
「……お母さんね、冬次に二つ、お約束してほしいことがあるの。
一つは、そのペンダントをどんな時でも肌身離さず身に着けておくこと。
そうすれば、それがアナタを守ってくれるから。 だから、外しちゃダメよ。
少なくともアナタが桜ノ宮として在る以上、その時が来てしまうまでは」
言葉は聞こえる。 だが、何も言えない。 動くことすらままならない。
記憶は出来た……はず。 だけど、今はその言葉が音としてしか認識できない。
意味を理解することができない。
「そして二つ目は――大事だと、大切だと想える誰かを見つけること。
自分の全てを賭けてでも守りたいと想える、力になってあげたいと想える、そんな誰かを見つけなさい。
例えば、お母さんにとってのお父さんや冬次みたいな……そんな人を。
そして、見つけた大事な人たちのために何かを成せる人になりなさい。
……って、これじゃあ三つね。 お母さんったらうっかりうっかり。 えへへ」
冬乃は屈託なく笑い、照れたように頬を染めている。
しかし、その間にも懸命に繋ぎとめていた意識の糸に切れ目が入り、冬次の意識は次第に深い深い漆黒の闇の底へと誘われていく。
そんな暗き闇へと意識が呑まれそうになる中、冬次は聞いた。
母が言った、最後の言葉を。
「でもね……そうすればいつかきっと、アナタに受け継がれた"それ"を使いこなせる時が来るはずよ。 私はそう信じているわ。 なんてったって――」
――世界を救った英雄の息子なんですから。