鬼との邂逅 SideStory
本編第41部分 『鬼との邂逅』に続くネメシスサイドのお話です。
テラーは輪堂茜。
「行くぞ、輪堂。絶対に離れるな」
──そんなこと言われなくたって、私は貴方について行きます。菅谷先輩。
黒いコートの彼の左眼が真っ直ぐ見つめる先には黒い煙。その先は何も見えません。私は手中の9mm拳銃をもう一度握り直しました。先輩方がこんなにも警戒しているとすれば、ミュートロギアか、または、銀狼会あたりの勢力でしょうか。
「必ず急所を狙えよ、輪堂ちゃん。簡単には死なねぇし、何より敵は痛覚が無い」
シグザウエルP230を腰のホルスターに戻した彼、旭さんはそんな事を囁いてきました。簡単に死なない、というのは……治癒系の能力者? 痛覚が無い、と言うとトネリコみたいな痛覚操作系の能力?
一瞬の内に考えられたのはそれくらい。ですが、それくらいならば私達、とりわけこの御二方の敵ではないはずです。
【どういう事ですか?】
共有回線に飛び込んできたのは、まだ幼さの残る声。私の疑問を代わりに口にしてくれたライラには感謝するしかない。
「今は説明する時間が無い。ライラ、このアーケードから出てきたヤツは取り敢えず全員射殺しろ。俺たちが『良し』と言うまでは、万一このうちの誰かだとしても、殺せ」
いいな、と念を押したのは誰でもない、菅谷先輩。さすがのライラもほんの少し返答に迷っていましたが、遂に「了解」と呟いてしまう。
お前もだぞ、と言うように菅谷先輩の鋭い視線が私に刺さる。
こんな時、私は頷くしかない。私はあの人の部下であり、それ以上でもそれ以下でもない。未熟な私なりに、それは弁えなければいけない。
「いつでもいいぞ、菅谷」
「では行きましょう。幸運を」
旭さんの手には、彼の身長を優に超える長い棒が握られています。警棒を改造したそれは、彼独自の武器。先端には、鋭利な刃が光っている。
菅谷先輩の手を見ると、こちらは赤く発光する刀。
そして私たちは、昼間なのに先の見えない商店街へと足を踏み入れました。
敵がどこから現れても良いように、精神を研ぎ澄ませると、奇妙な音が聞こえてきました。人の足音のようにも聞こえるけれど……それよりももっと小さい。竦みそうな足。こんな事で、怯えていてはこの仕事は務まらない。しかし、いつもと違う空気感に、どうしても手汗が止まらないのです。
「煙が邪魔だな」
「そう言うと思ったから複製済みだぜ、菅谷」
「それを先に言ってください」
ふと歩みを止めた先輩方に合わせて、私も立ち止まります。旭さんを中心に風が巻き上がります。確か、今回出動した大編部隊の指揮官は『風力使役』の使い手だったような気がする。
どうしてこうも、この人は言うのが遅いのでしょう。私がもしも菅谷先輩の立場ならフルボッコです。
私達よりも数歩先に立つ彼の赤いネクタイが大きく舞い、渦を巻いた風は視界を晴らしていきました。
「来る……!」
前方20メートル程が明るくなった瞬間、菅谷先輩が焦ったように飛び出しました。その影は旭さんを狙っていましたが、彼の太刀が切り伏せます。
また、あの光景。外で見たのと同じ……動物が砂になる。狂犬病に侵されたような黒い犬でした。
それを皮切りに、無数の気配が私たちを囲みます。能力を解いた旭さんも武器を構え直します。
ゆらりゆらりと敵影がこちらへ向かってくる。一般人らしい姿が大半ですが、中には身内の戦闘服も見られます。
「惑わされんなよ、輪堂ちゃん」
震える手を押さえ付けるのを悟られないように、私は引き金を引きました。
あまりにも聞き慣れすぎた発砲音。先輩の指示は急所を狙うこと。その位はこなさねばここにいる意味は無い。眉間に赤黒い穴を開けた虚ろな顔が風に流される。彼もまた、砂に還った。
だが、それ以上の事は起きない。敵に動きがない。
「何故、こっちに来ないんだ」
菅谷先輩が呻るのですが、旭さんも眉間に皺を寄せています。あまりにも静か過ぎる戦場。奇妙すぎます。
「さっきのワンコはなんで飛び込んできたんだ?」
煙草と酒で潰したと仰っていた掠れ声も疑問を滲ませています。そして彼は、徐ろに私達から離れていきました。
「旭さん!」
菅谷先輩がその背中に叫んだ直後。
今までの静寂が嘘であったかのように、旭さんの姿が見えなくなるほどに何かが群がりました。それは恐らくネズミ。一般にドブネズミと呼ばれる中程度の個体が彼の身体を上り、噛み付くのが辛うじて見え、それもすぐに複数の人影によって阻まれてしまう。
「クソっ!」
菅谷先輩がそこへ踏み込もうとしましたが、一閃が煌めきます。発生源は、勿論私たちの目の前の人の群れであり、その中心。
「いってぇ……ハムスターにも噛まれたことねぇのに」
「大丈夫ですか、旭さん!」
「輪堂ちゃん、心配してくれたのか?」
ニヘラと笑い、敵を薙ぎ払い砂に変えた長い棒を肩に担ぐ旭さん。彼の白いワイシャツは所々が真っ赤に染まり、噛まれたり引き裂かれたような跡もある。更に、その首筋──頸動脈にも程近いところから鮮血が溢れている。止血をしないと……!
「首が……!」
「ん? あぁ、なんか、もう血が止まってる」
「へ?」
そんな私の心配を他所に、彼は相変わらずニタニタとしている。血が止まっているとは、どういう事? 言葉は理解出来てもその内容が追いつかない。
「旭さん、その目……」
更に、菅谷先輩が眉を顰めて彼を凝視している。目……とは一体?
「あっ」
よくよく見れば、旭さんの虹彩が僅かに黄色い光を放っているではありませんか。ティナの琥珀色の瞳とは少し違う、内からの煌めき。こんな事、今までありませんでした。新参者の私だからこう思うのではなく、菅谷先輩の声も動揺を隠せない様です。
「お前もだぞ、菅谷。赤く光ってる」
私よりもずっと背が高い菅谷先輩の顔。見上げても、右側に立つ私には黒い眼帯しか見えません。ですが、二人は顔を見合わせてこの変化に戸惑っている。
「わ、私は?」
そうだ。私にも何かしらの変化が起きているかもしれない。そう思うと、確かめずにはいられませんでした。
ですが、私の顔をのぞきこんだ先輩方は首を横に振ります。
「なるほどなぁ」
黄色に光る瞳を細めた旭さんが意味深に肩を竦めてみせた。
こうしている間にも、敵は虚ろな目をこちらへ向けるだけで一人も一匹も襲いかかってきません。
「何が、なるほどなのですか」
「わかんねぇか、菅谷。この敵といい、オレ達にしか発現しないこの変化といい──五年前を思い出せ」
血糊を残したワイシャツの彼の五年前という言葉。私が知らないネメシスに関わること。
斜め上からゴクリと唾を飲む音がします。
「まさか……本当に」
「確定しちまったかもなぁ。でもよ」
私の知らないところ、想像さえも及ばないところで進む二人の会話。
旭さんの逆接の言葉に「でも?」と菅谷先輩が続きを急かします。
「何だか知らねぇが、今のオレ達には何らかの力があるみたいじゃねぇか。つまり、あの時の惨劇はもう繰り返さねぇよ。胸ぇ張れよ、菅谷」
「その根拠は?」
「長年のカン?」
「馬鹿馬鹿しい」
浅黒い手が菅谷先輩の肩を小突き、それを彼は払い除けます。
大きな嘆息を漏らした菅谷先輩。
「ですが、一理ある事も確かです」
「ま、細かい事はここを片付けてからでいいだろうよ」
「ええ」
完全に蚊帳の外の私ですが、ここから始まるのは反撃なのだということは辛うじて理解出来ました。
少なくとも、足でまといにだけは……。
「輪堂、ぼさっとするな。一気に畳み掛けるぞ」
彼が、ほんの少し私の方に顔を向けます。
嗚呼……やはり彼の左眼は朱色に光っていました。それもそれで、美しい。
「行くぞ」
見とれてしまいそうだった自分。頭を振って雑念を取り払うと、もうその時点で先輩方は二方面に散ってしまっていました。そして、私に向かい来る虚ろな視線と赤い目。菅谷先輩のとは全く違う。禍々しい赤。
残念ながら、私にあの二人のような力はないようです。でも、この体ひとつで今までやってきた、それと同じように戦えば良い。あの薄暗くて、狭くて、温かい事務所へ帰るために。
───言われなくたって、何処へでもついて行きますよ。菅谷先輩。