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さざ波


ちょうどその頃。少し前から時間に追われ、多忙な日々を過ごしていた遥も漸く落ち着きを取り戻し、久々に数日間の纏まった休暇が取れた。特に遠出する予定もない遥は、朝からのんびりと気の向くままに片付けをしていたのだが、その最中に引き出しの奥に仕舞い込んでいた“白いハンカチ”がふと目にとまる。


あの日。間近で感じる波風に心が揺れて仕方のなかった遥は、許可を貰うと懇親会の会場を抜け出した。


そのまま、目の前に広がる穏やかな海を眺め、ぼんやりと想いを馳せていたのだが……いつの間にか眠っていたらしい自分は、苦しみの中からそっと呼び戻された。


優しく添えられた手の温もりに、戻る意識の中で自分は泣いていたのか、と理解をした直後。目尻の温もりは消え、気遣う様にそっと白いハンカチで涙を拭われた事もぼんやり覚えている。


そして彼が、遥の具合だけを訪ねると後は何も聞かず、ただ立てるかとその手を差し伸べた事も。


黙って握らされた白いハンカチはそのまま持ち帰って洗い、うっすらと着いた化粧も綺麗に落ちたものの。何となく使ったものを返すのも憚られ、結局は新しく求めたハンカチを詫び状と共に送る事にした。


何気なくそのハンカチに手が触れた途端、鮮やかに蘇ったあの温もりに心がザワついた遙は、徐に身支度を整えると家を飛び出した。



『懐かしい……』



眼下に広がる青い海。その水面の輝きは、隼人と最後に会ったあの秋晴れの日と変わらず、流れた月日を感じさせない。


もうこの世には居ない、その事実は数年掛かりやっとの事で受け入れられた。でも、心はまだその事実に完全には追従仕切れていない。


今でも、間近で海を感じると心にさざ波が立つ。



『何時までもこれじゃあ、情けないって隼人に怒られちゃうよね』



小さく笑うとベンチに腰かけたままで背伸びをし、ふと眼下の港へ目を向ける。



『あ、』



チクリと胸の奥がうずく。そこには、間違いなく高橋の乗る艦が停泊していた。



『そういえば、一般公開があるって案内が来ていたような』



多忙の中でその案内は斜め読みとなり、艦名までは確認してはいなかった。


一瞬、広報官ばりの高橋の笑顔が脳裏を掠める。



『制服、どうしたかな……』



海上自衛官の、眩しいほどに真っ白な制服。それは遥にとっても、決して汚してはいけない、神聖なもの。


深い溜息を吐いた遥は、そのまま家に帰る気にもなれず。



『どうせ明後日まで休みだし』



とひとり呟くと、久し振りにぶらつこうかと街へ足を向けた。



* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *



思い立って訪れたこの場所も数年ぶりとなる遥は、悠然と佇む、戦艦三笠の姿を仰ぎ見る。



『守りたい人がいる』



現在の日本の国防の要は言うまでもなく自衛隊だが、そもそも先人達の想いがこの国を、“国”として遺してくれた。


そして。今この瞬間も同じ様な想いでこの国を護るべく、目立たず寡黙に職務に従事するその多くの存在を、その大きな意味を、果たしてどれ程の日本人が理解しているのか。


完全に理解される事自体が稀だという現実を、遥自身は既に受け入れている。


それでも、どこか納得仕切れない自分としては、小さくとも何か出来ることはないのかと足掻き続けた。


政治的な関わりは極力避けつつ、自衛官への理解を広めたい。そんな一方的な思いだけでただ我武者羅に突っ走ったこの数年間。それは思った以上に難しい道だと遙が思い悩む中で、奇しくも近年に起きた幾度かの大災害により。当人たちが望んでいない形で自衛官への評価はたちまちウナギのぼりになった。


遥は、自分が今まで何かを残せたのか、正直なところよく分からない。


すっきりしない気持ちを抱え、遥は気の向くままに艦内に展示されている三笠の歴史をなぞる。



* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *



ひと通り三笠の艦内を散策した後、ちょうど三笠が見える位置にあるベンチに腰掛け、何する訳もなく波間に漂う光をぼんやり眺めていた。ふと人の気配を感じた矢先、足元にひとつの影が出来る。



「ご無沙汰しております」



聞き覚えのあるその声に、遥がふと顔を上げると。そこには私服姿の高橋が立っていた。



* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *



「まさかあんなところでお会いするとは」



――折角ですし、宜しければお茶でも――



との高橋の言葉に、特に予定もない遥はどうにも制服の事も気掛かりで。連れ立って近場の喫茶店に入った。


注文を済ませた段階で、遥は背筋を伸ばし改まる。



「高橋さん、先日は本当に色々とすみませんでした」



深々と頭をさげる遥に、



『色々とはどの部分のことか』



と測りかねながらも見当を付ける。



「それはもうお気にさらず。大体、汚したのは自分です。此方こそ、お手紙や新しいハンカチまで頂いてしまい、却って申し訳有りませんでした。ご連絡先が分からずにお礼をしそびれてしまいました。今日ここでお会いできて本当に良かったです」



その堅苦しい口調は変わらないまでも、制服姿特有のあの重さを微塵も感じさせない屈託のない笑顔に遥の心が軽くなる。



「で、あの……膝の汚れ、無事落ちましたか?」



高橋があの日膝をついたところは、運悪く湿った土の上だった。



「大丈夫です。自衛官、洗濯はお手の物ですから」



思い出しつつ内心苦った高橋だが、表向きには迷いなくそう返すと遥は安堵した様子を見せた。


そんな遥とは裏腹に



『冷静に周囲状況の確認が出来ないほど、余裕の無かった』



そんな自分の姿を否応なく突き付けられたあの日。


高橋は己の未熟を戒め、暫くの間続いた上官や同僚達からの弄りは有り難く甘受した。


そして今。複雑な思いのまま、珈琲を片手に目の前の遥を見詰める。


静かでどこか柔らかな雰囲気の、恐らく20代半ば頃の女性。


その瞳は、何処か強い意志を湛えたように曇りが見えない。


肩より少し長い、軽くウェーブのかかった栗色の髪は、今日はラフながら後ろで纏められている。


左手に指輪が無いのは先日確認済みだが、改めて視認する。



『夏なのに、ホットココアがそんなに美味いのか』



そんな高橋の心の内を知る由もない遙は、両手で包み込んだカップに実に幸せそうに口をつけている。


穏やかで心地良いその空気に浸っていた高橋に、はっとしたように遥が顔を上げ2人の視線が交わる。



「高橋さん、お時間は大丈夫ですか?」


「時間、ですか?」


「……何かご予定があったのでは?」



気遣う遥に、高橋は



『この世界に慣れているのも当然か』



と一人勝手に納得する。



「いえ。たまには陸でのんびりしたくて泊まりで出ています。良い映画が無かったら時間いっぱい図書館へでも籠ろうかと思っていた位です」


「……でも、あの、飲み会とかは?」



心底不思議そうな遥に、彼女の周りの自衛官は余程の飲兵衛ばかりなのかと気が滅入る。



「自衛官、全部が全部飲兵衛と言うわけでも無いですし、いや、確かに飲む機会は多いですね。しかしそもそもまだ昼ですし、たまには1人でのんびりしたい日もありますから。まあ、要は甲羅干しですね」


「甲羅干し?!」



思わず吹き出す遥は、顔を赤らめ慌てて口を塞ぐ。



「ええと。そんな貴重なお時間なのに、何だかすみません」


「三枝さんは我々の事にお詳しそうなのに、驚かれるとは少し意外でしたが」



何とも言えない心地良さに気が緩み、ついうっかりが転がり出た。



「……詳しそう?私が?」



本能的にやらかしたと感じつつ、かといって出てしまった言葉は戻せる訳も無く。



「研修の時も慣れたご様子でしたし。後援会にまで入られているのだからやはりお詳しいのかと」



何とか当たり障りの無い答えで濁すも、その甲斐なく遥の表情は固まったままだ。



「別段、詳しくは無いです。ただ、こんな私でも何かのお役にたてば……」



それは、高橋に向けたというよりも呟きに近く。窓の外へ視線を泳がせた遥の表情は、見間違いだったかと思ったあの時の物だった。


どれが地雷源だったのか見切れないまま、どうも遥の顔を見ると冷静沈着と評価の高い自分が、そのなりを潜める現実を思い知る。


こんな自分は何年振りか。いやここまでの気持ちは初めてかもしれない。その現実を認めたからには、観念し行動するべきか。



「三枝さん、この後のご予定は?」


「え、私ですか?」



驚いた顔で視線を戻す遥に、他に誰が居るんだと笑いを堪えつつ。



「ご迷惑でなければ、映画でもご一緒に如何でしょう」


「映画、ですか?……そう言えばここ暫く見てないです」



あ、でも、と言う遥に高橋は答えを待つ。



「あの。私と2人きりで行っても大丈夫なのですか?」



先ずは相手を気遣う遥に、高橋は自分の中に僅かに残っていた迷いが消えたのを感じた。



「自分はフリーですから問題ありません。三枝さんこそ、その辺り問題は?」


「……私も今はフリーですから、特に問題はありません」



今は、と答える遥の笑顔に翳りを感じるが、高橋は揺るがない。



「ではお互い問題なし、と言うことで。何か観たいものはありますか?」


「ええと。今だとゴジラ?」



即答の遥に気を使わせてしまったかと思いつつも、ここは黙って合わせる。



「趣味合いますね」



柔かく笑う高橋に、遥は心に宿った温もりを感じていた。



* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *



流石というか、自衛隊の協力の賜物なのか。


期待以上の迫力満点の映画をみ終えた2人は、昂奮気味に感想を述べ合いながら映画館を出るた。辺りは既に夏の夜の賑わいに満ち溢れていた。



「三枝さん、お腹空きませんか?」


「結構空きました」



少しずつ打ち解けてきた様子の遥の姿に、その笑顔をもっと見たいと素直に思う。


笑い合う2人はじゃあこの際だから夕飯も、と話が纏まり。何を食べようかと繁華街へ向かう途中、遥はすれ違いざまに酔っ払いにぶつかられてしまい、体勢を崩した。


足が捩れ、瞬時に踏ん張ろうとするも人通りの多い中で運悪く段差だった為に立て直せず……遥が転ぶ覚悟をした瞬間。


グイと腰を抱え込まれ、行き交う人の波から引き摺り出された。



「大丈夫ですか?」



そんな2人に気付くこともなく離れ行く酔っ払いを取っ捕まえ、張り倒したい衝動を堪えつつ。高橋は遥を抱えたまま、すぐそばにある建物のエントランスに入る。


遥は自分の腰を支える力強い腕よりも、俄かに殺気立った高橋の気配に気圧され、されるがままだ。



「あの、ごめんなさい。私がぼんやりしていたから」



慌てる遥に、高橋はハッと我に返る。



「いや、大丈夫です。公の場では流石にあの酔っ払いを殴りはしません。自分の方こそ、きちんとフォローができずに申し訳ありません」


「え。酔っ払いを?な、殴る??」


「え?」



認識の差に、高橋の纏った剣呑な雰囲気は瞬時に掻き消されるが、入れ替わりで微妙な空気が流れる。


怯えさせただろうかと俄かに焦る高橋だが、“失礼しました”と遙の腰から手をそっと外すも、やはり心配そうに足元を伺う。



「それで、お怪我は……」



すっかり弱った様子の高橋に、遥は軽く足首を左右に動かし。



「お陰様で何ともないみたいです」



と微笑む。


ほっと苦笑いの後、仕切り直しとばかりに数件覗き、手頃な居酒屋に席を確保する。


他愛の無い会話で、楽しく穏やかな時間を過ごしていた高橋に、ほろ酔い気分の遥が前触れもなく爆弾を落とした。



「高橋さん、最初はてっきり広報の方かと思いました」


「は?」



高橋は、落としかけた箸をなんとか持ち直す。



「隙が無いのに人当たりは凄く良いし、あ、それは海自だし幹部だし当たり前か……お話も凄く分かり易くて本当にお上手で。だからほら、この間も凄い人気者だったし。正に、」



他国と渡り合うことも多い仕事柄、確かに海自の幹部ともなれば愛想の良さも標準装備には違いないのだが。少しばかりハードル高すぎやしないかと高橋が苦笑う中。


コロコロと笑っていた遥は、ハッとした顔でその先の言葉を飲み込む。


が、時すでに遅し。



人誑ひとたらし?」



ニヤリと笑う高橋に、遥の頬は瞬く間に染まる。



「ええと、決してそういう事では無くて。それに、特に幹部の方って多かれ少なかれ皆さんそんな面お持ちですし。あ、でも高橋さんの場合はお人柄なのかも知れませんけど。だって、ほら、何だか極々自然な感じで……だ、大体、広報だってとても重要なお仕事ですし、」



恐らく出掛けた言葉は図星だったのだろう、支離滅裂でしどろもどろな赤い顔の遥がもう堪らない。



「あれは仕事ですから。ですが、プライベートでは極稀な限定品です」


「へ?」



この真っ直ぐな瞳を自分だけに向けたいというのは我儘だろうか。


そんな自身の欲に気付いてしまった高橋は、今更後戻りする気など毛頭無い。



「限定品、です」



もう一度、すり込むようにしっかりと言葉にする。



「……ごく稀な限定品??」



が、残念ながら、どうもその意味が伝わっていない様子の遥に、しくじりたくない高橋は



『今日はここまでか』



とブレーキをかける。



* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *



「宜しければ、連絡先を教えて頂けませんか?」



――本当に楽しかったです――



とご機嫌モードな遥を、少しばかり強引に2駅離れた遥の自宅の最寄り駅まで送り届けた高橋は、次への繋ぎを手繰り寄せる。


遥は一瞬の間の後、鞄を探ると名刺を差し出した。



「ちょっと待って」



受け取った高橋は、すかさずそのアドレスにメールを入れる。



「ご迷惑でなければ、登録しておいて下さい」


「迷惑だなんて。此方こそ宜しくお願いします」



にっこり微笑む遥は、夜道を心配する高橋に、



『ここらかはタクシーに乗るから大丈夫です』



と返しつつ



「……でも、高橋さんは?」



と眉を寄せる。


気が付けばそろそろ終電か、と言う時刻になっていた。


が、気取られぬように



「自分は何とでもなります」



と返す。実際、基地まで歩くくらいなんの問題もない。


遥はそんな高橋にふと笑みを漏らすも、敢えて突っ込まず。



『では、また』



と頭を下げ、踵を返すと待たせていたタクシーに乗り込み、早々に高橋を解放する。



* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *



結局、余裕で終電二本前の電車に滑り込むも、そのまま艦に戻るのも何だか憚られ。高橋は思い出したかのようにメールを打つ。



――悪い、もう寝てたか?――


――いや、起きてる――


メールの相手の村田は、同じ艦に勤務しているが


『俺は秘密基地が欲しいんだ~!』


と、誰に対してなのか分からない宣言をしたかと思うと基地の近場に賃貸マンションを借り、帰港の度にその部屋に帰っている。


――今から行っても構わないか――


――何を今更――



返事を確認した直後、もう一通届く。



――酒とつまみ頼む――



余計な事は聞かない同期の有り難みを染み染みと感じているところへ、また1通のメールが届く。



――高橋さま

無事帰宅しました。今日は色々と有難う御座いました。

三枝遥――



なんの変哲もないメールにすら高鳴る鼓動に



『全く、ガキみたいだな』



と苦笑い、逸 (はや)る気持ちをどうにか抑えて返信を済ませると、今度こそ気の置けない友人の元へ向かった。



* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *


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