波頭(なみがしら)
眩しいきらめきを湛えた波面。初夏の日差しの下。
『……』
眼下の白波を見るに付けて詰まるような息苦しさを感じた遥は、周囲に悟られぬ程の小さな溜息を、呼吸の合間にそっと混ぜ込む。
数年前から徐々に海そのものから足が遠のいていた遥だったのだが、今日は
――折角だからぜひ参加を――
と熱心に誘われ、久しぶりに訪れた艦の上にいる。
「三枝さん、どうかなさいましたか?」
突如背後から掛けられた声に、遥は足を止め。笑みを湛えて振り返る。
「いえ。特に何も」
いつもなら気付かれる事がない、その微かな“動き”。それすら見落とさないのは、
『流石、お仕事柄と言うべきか』
その所作からも優秀な自衛官であろうことが伺える、そんな彼への身勝手な小さな苛立ちは胸の奥へそっと押し込め。遥は、招かれた研修会へと意識を戻す。
艦は違うが、同じタイプの研修に招かれたことが何度かある。その後、確かに一部システムの変更はあったものの、正直なところ今回なぜ急遽声が掛かったのか掴みかねていた。
何かのご褒美なのか、単なる頭数合わせなのか。
とはいえ。最近いろいろと行き詰まっていた遥を見兼ね声を掛けた感が拭えない、後援会の面々の手前もあり……その理由など問える訳もなく。もやもやとした、そんな遥の頬を、優しく流れるように誘うように。ふわりと波風が撫で去る。
ガイド役の隊員の説明を遠くに感じながら、遥は煌めく波のその向こうへと想いを馳せた。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
『そうか、今日は金曜だったっけね』
なんだかんだと言っても、強烈なその香りを容赦なく辺りに撒き散らし数多くの人々を魅了してやまない、提供されたその食事にはどうしても頬も心もゆるゆると緩む。
「三枝さん、お疲れではないですか?」
遥の隣に座った高橋二尉が、遠慮がちに伺う。
“この種族”が纏う特有の空気の重さは、当然この高橋も標準装備である。
先ほどまで参加者の殿を守っていたこの高橋は、この艦に勤務していると聞いた。
制服着れば二割り増しやら五割増やらと名高いこの職種の中でも、なかなかの高レベルと思われる背の高いこの彼とは、恐らく今回が初対面、な筈。
「いえ、大丈夫です……」
そう答えた遥だが、なんだか落ち着かない。盛り上がる旧知のメンバーを横目に、高橋にしか聞こえない程度の声で確認する。
「あの、私疲れているように見えるのでしょうか?」
確かに幼い時分から丈夫ではないし、今日は慣れない艦内を歩き回ってはいるが。ダダ漏れするほどに疲れていたという自覚がない遥としては、高橋の言葉に小さな動揺を隠し切れない。
「いえ、大変失礼しました。少しだけそんな気がしただけですが、私の思い違いでしょう。お元気なら問題ありません。さ、冷めてしまう前に頂きましょうか」
艦自慢のカレーを勧めながら、高橋は先ほど遥が一瞬見せたあの表情を思い浮かべていた。
『いや、実際には泣いてなかったんだよな』
古参者にお馴染みな感が拭えない、OBが多数在籍する自衛隊の某後援会向けの研修に珍しく若い女性が来るらしい、と少し前から艦でもかなり話題になっていたものの。
恋愛が苦手と自負のある自分としてはその話に特に興味があった訳でもなく、研修当日も久々の帰港で朝から陸に上がる予定だったのだが。そんな高橋の元へ
――若干参加者が増えた。悪いが頼めるか――
と急な助っ人要請がきた際も
『これも仕事だ』
と割り切り、今日は指示通りに担当のグループにつきっきりでサポートをしていた。
自分の直ぐ前を歩く彼女が場慣れしている様子は肌で感じられ、ふと気をそらすその様子に
『付き合いで来た程度か』
と、独りよがりな評価を下したその矢先。
ふわりと甲板を流れた風に、まるで誘われるように海原に視線を泳がせた彼女は、
『泣いている?』
高橋の目には、確かにそう映った。
ハッとして注視したものの、実際にはその痕跡を見つけられなかったのだが。気のせいかと思いつつも、その後もあの儚げな様子が脳裏に焼きついたまま離れない。
「三枝さんは、艦がお好きなのですか?」
纏りのない思考の中で、勝手に口をついて出た質問に高橋自身が驚き、まるで下手なナンパじゃないかとひとり心の中でゴチる。
「え?」
他のメンバーと歓談しながら美味しそうに好物だというカレーを頬張っていた遥は、その唐突な問い掛けに不思議そうに高橋の方へ向き直る。
「はは、遥ちゃんはそっち方面じゃないんですよ、高橋さん」
ちょうど向かい合って座っていた自衛隊OBである後援会メンバーのひとりが応じると、
「ああ、ええと。申し訳ありません。正直、艦の事は良く分かりません」
遥も実に申し訳なさそうに小さく頭を下げる。そのやりとりにやっぱり付き合いで来たクチかと判断を下しかけた高橋に構わず、遥は続ける。
「私は……その、装備品よりも“中の人たち”や皆さんのお仕事風景などを拝見する方が好きなので」
――勿論、“中の人たち”は尊敬できるお人柄の方限定ですけれど――
ふふっ、といたずらっ子のように笑う遥からなぜか目が離せない。
「ハルちゃんは艦の装備には目もくれないけど、カレーにはなかなか手厳しいんだよな~」
横槍を入れるOBたちと笑い合う遥は、何事も無かったかのようにまたカレーを口に運ぶ。
高橋は……ただ
「そうでしたか」
ただひとこと返し、自分もスプーンを握り直した。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
艦内見学を含めての研修後、施設の一室に設けられた会場での懇談会となり。サポート役として研修に出ていた隊員たちも全員参加していた。
高橋は他の隊員と共に後援会のメンバーの相手をしていたのだが、先ほどまで少し離れた席で談笑していた筈の遥の姿を見失い、無意識のうちに探していた。グループのサポート役である以上、その動向を気にするのは当然な事だと、浮つく自分の気持ちを落ち着かせる。
『トイレか?』
が、待てど暮らせど一向に姿を見せない。聞けば、少し外の空気を吸いたいとかで外に出たという。それにしては長い気がするが、他のメンバーに捕まりなかなか動けない。
『帰った、か?』
――確認してみるか――
そう考えが至ったところで、研修の間も常に彼女の側に寄り添っていた後援会メンバー2名の会話がちょうど耳に入ってきた。
「遙ちゃん、まだ外?」
「みたいだね。まあ、良くも悪くも横須賀だしなあ」
「少し長く無いか?……しかし、やっぱりまだ忘れられないのかね」
「頑固だからなぁ、ああ見えて」
「おいおい、そこは一途と言うものだろう」
そんな2人のため息混じりのやり取りを耳にした高橋は、同僚に客人の相手を任せ外へ出る。
勢いで外に出たのは良いが、居場所の見当がつかない。思いあぐねてとりあえず艦の方向へ足を向けるが、ふと真横に気配を感じた。
そちらへ目を向けると、施設の端っこにある出入り口付近の階段に腰掛け、壁に身を委ねる格好で海を眺めている様子の遥の姿があった。
高橋が立つ位置からは、その表情まで伺えない。
思わず近付くが、反射の様な己の行動に戸惑い、数歩離れたところで一旦足を止める。
が、通常なら人の気配を感じる程に近い距離であるにも関わらず、遥は微動だにしない。
まさか、と慌てて前に回り込むが、彼女は目を閉じたまま動かない。
やはり具合が悪かったのではないかと焦った高橋は、彼女の前に膝を付き、脅かさぬようにとそっと声をかける。
「三枝さん、どうかされましたか?」
が、彼女の反応はない。幾分顔も白いようにも見え気が逸る。
壊れ物を扱うかのように、遥の手に触れ脈をとる。
確かな脈とその柔らかい温もりにホッとするが、時折苦しそうな息が小さく紡ぎ出されており、それが高橋の胸を締め付ける。
静かに手を離すと、再度声をかけながら優しく肩を揺する。
「三枝さん、大丈夫ですか?」
「ん、」
ゆっくりと開く遥の瞼から、一筋の涙が零れ落ちた。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
その後。すっかり覚醒した遥から、米つきバッタの如く頭を下げられたのだが、膝をついた際にできたらしい高橋のズボンの汚れに気付くと途端、軽くパニック状態に陥った。が、皆に宥められつつ、また本当に体調は悪くない、とのことで、半ば引き摺られるように後援会のメンバーと帰って行った。
そしてその夜。
なんとなく街に出る気も失せた高橋は、研修後もそのまま艦に戻り自室で静かに過ごしていた。普段通りに消灯時間となり普段通りに横になるものの、どうしてもいつもの様には寝付けない。
右手に残った感触に、艦の上で一瞬見せた遥のあの表情 (かお)を思い浮かべながらそっと目を閉じる。
恋愛は愚か、女性にもあまりいい思い出も大した経験値もない高橋は、自分の中に生まれた小さな変化を持て余す。
波の囁きに耳を傾けどのくらい時間が経ったのだろう。その感触を残したまま、漸く眠りについた。
予定通り2日後に出港すれば、また暫くは海の上だ。
いつも通りの“日常”が待ち構えている。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
『気にしなくて良い』
あの日あの後。隊側からも後援会からも、そして当の高橋本人からも重ねるように言われてしまうと、クリーニング代すら受けとって貰えない遥はもうそれ以上何も言えず。ただひたすら頭を下げて帰って来たものの。
それでも。うっかり寝落ちした上、高橋の、“あの真っ白な制服”を汚す原因を作った事実が重くのし掛かり、自業自得とは言え未だに胃がキリキリしている。
『改めてお詫びはしないと……』
今回の研修では、何かと高橋の手を煩わせた感が否めない遥としては、持ち前の生真面目さも相俟って居ても立っても居られない状態に陥っていた。
その反面、何故かしら面と向かって会いたくない気持ちが心の奥底で燻っている遙は、
『どうせ次の入港も分からないし』
と、後日基地に高橋宛ての手紙を送る事で折り合いをつけると、丁寧に洗った高橋のハンカチにアイロンを掛ける。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *
「お。珍しいな。お~い高橋~、お前にも来てるぞ~」
寄港地で基地から転送されてきた小さな包みを受け取った高橋は、その差出人に戸惑うも右手には忘れかけていたあの感触が蘇る。
零れ落ちる涙。
その瞬間、右手が勝手に動いた。
温かい涙だった。
その涙の理由は知らない。
が、漏れ聞こえたあの後援会の2人の会話からは、元々この職業に縁が深かったのだろうと推察される。
「良くも悪くも横須賀、か」
そしてその相手は、恐らく横須賀に所属の、若しかしたら自分同様にクルーかも知れない、という事も。
だが、自分は聞く立場になく、また問い質す理由もない。
その筈なのに、なにかが引っ掛かるというか、心の奥に小さな重みのようなものを感じる。
――なんだ、いい人でもできたか?――
冷やかす同僚達を適当にあしらい、小さな包みをそっと抱え直すと、高橋は自室へ向かった。
* ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ * ・・・ *