episode5
月曜日。穂高と野崎と尾形は朝練を終え、各々の教室へと向かっていた。3人とも鼻頭がや頬が赤く染まっている。
「あれ? 御影ちゃんだよ」
尾形が指差した前方には、穂高の教室の前に御影が待ち構えていた。
穂高たちが通うこの高等学校の制服は、ネクタイやリボンの色で学年が分かるようになっている。ここは2年生の教室のため、周りにいる生徒は穂高たちと同じく青色のそれを身につけている。1年生である御影は赤色だ。それだけでも浮いているというのに、胸まで下げた三つ編み、膝が隠れる長さの丈のスカート、そして無愛想な表情は人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。
本人は普段通りでも、近寄り難いオーラを感じざるを得ない。しかし、穂高はそれを御影らしいと思った。
孤島に1人座り込んでいる。誰の力も借りず、ただただ無表情で生きている少女。それが穂高が描く御影千花という人間だった。
その独特な雰囲気が彼女の魅力であり、逆に穂高が放っておけない要因にもなっていた。
「樹、ラッキーだな。朝一番に愛しの彼女に会えるなんてよ!」
野崎が穂高の肩を叩き、茶々を入れる。しかし穂高はそれに構わず、御影の元へ走った。
「御影! どうしたんだ。俺に用か?」
「穂高先輩、おはようございます」
いつもの調子で、礼儀正しい挨拶とお辞儀が穂高を迎えた。
「これお返しにきました」
そう言って御影が差し出したものは、数学の教科書だった。以前に穂高が貸したものだ。
「昨日は返しそびれてしまったので」
「わー! それ2年のじゃん。もしかして、今のうちから予習とかしてるの?」
穂高の後ろから尾形が感嘆のため息を漏らす。野崎も感心したように御影の顔と教科書を交互に見返した。
「流石、学年首位は違うなぁ」
御影は相変わらず無表情だが、学年首位という言葉に反応し、眉間にしわを寄せた。
「……前回は、2番でしたけど……」
搾り出したような苦々しい声に、穂高を含めた3人が彼女を見つめた。皆がまるで交通事故を間近で見たような表情だった。
「み、御影ちゃんよりも頭のいい子っているの……?」
尾形が恐る恐る口を開く。御影は暫し間を置き、
「……あの、転校生の男に……負けました……」
坂下悠だということを告げた。さぞ悔しかったのだろうことが伺える。御影はむすっとした顔を自分の足元に向け、黙ってしまった。
「へー! あの転校生頭いいんだな!」
「人は見かけによらないもんだねぇ」
ぴくりと御影の肩が揺れる。野崎と尾形の呑気な会話が御影に火を付けたようだ。キッと堅い表情を2人に見せ、
「次は負けませんから」
ときっぱり言い放った。少し唇を尖らせている。そこでやっと、野崎と尾形は御影の放つただならぬオーラに気がついた。
「おいお前ら、あんまり坂下のこと話に出すなよ。御影が不機嫌になるだろ」
「だって樹ー。今のは不可抗力じゃんかー」
尾形が可愛らしく頬を膨らませて反抗する。
(御影よりも板についているのはなぜなんだ……)
そんな穂高の心情を読み取ったのか、御影は更に眉間にしわを寄せて、
「では、要件は済んだので失礼します」
と踵を返した。
残された3人は呆然と彼女の背中を見つめていた。
別教室の野崎と別れ、穂高と尾形は自分たちの教室へと入る。外や廊下とは比べ物にならない気温の高さに、自然と顔が緩んだ。
「御影ちゃんさ、確か特待生だったよね? 学費免除って言ってたから相当きつい条件クリアしてなきゃ特待生落ちちゃうよね?」
「……ああ、確か上位3位以内はキープなんだとさ。ここの学校一応進学校名乗ってるし、変に厳しいんだよな」
御影は学費免除の代わりに常に上位の成績を修めていなければならない。しかし仕送りが皆無のため、アルバイトをかけもちして生計を立てている。
それを言い訳に今回のように成績が下がることは許されない。彼女の負担は、穂高だけでなく尾形にも明白なものだった。
「うわぁ……そりゃ予習も必要か」
「それに、医者になりたいんだとさ。大層なこった」
医者という一言に、尾形が分かりやすく反応を示す。顔に似合わず、気難しい表情を穂高に見せた。
「医者に?」
「らしいぜ。だから、俺もできるだけ応援してやりたいんだ……」
穂高は数学の教科書をじっと見つめる。何気無く表紙を捲ると、付箋が貼ってあった。そこには『ありがとうございました』といういかにも堅苦しい文字が綴ってある。
(御影らしいな)
ふっと穂高の顔が緩む。
「……御影ちゃんが優秀なのは知ってるけど、女の人で医者は辛いよ」
席に座りながら尾形の暗い声音が、穂高の表情を引き締めさせる。
「あ、そっか。拓美の姉さん女医だもんな」
「毎日くたくたで帰ってきてさ、見てられないよ……」
尾形の姉は隣町の総合病院で女医を勤めている。若いながらその腕が認められ、今では出世コース真っしぐららしい。
「御影ちゃんには、生半可な気持ちじゃ出来ないよって言っておいて。彼女のためにもね」
尾形の的を射た忠告が耳に刺さる。
「……分かった」
「それに! 絶対お姉ちゃん嫁に行けないって! 御影ちゃんには樹がいるからいいかもしれないけど、でも結婚してから相手してもらえないよ! 今よりも更にね!」
「おい最後のいらないだろ!」
尾形の失礼な発言をあしらい、穂高も席に着く。
御影を応援したい気持ちはあるが、その道が茨の道だと知ってて背中を押せるのか、そう穂高は悶々とする。
(それに、俺に何かできるのか)
思い悩む穂高に、
「お姉ちゃんで思い出した。お姉ちゃんがそろそろ会いに来て欲しいって言ってたよ」
尾形がそう告げた。穂高は暫し間を起き目を瞬かせる。
はい? と、咄嗟に出た言葉は、なんとも間抜けなものだった。