episode2
坂下が微かに目を細める。
その雰囲気は誰かに似ていると、そうぼんやり思った。
坂下の侮蔑を込めた視線に射抜かれた俺は、はっとして視線をずらす。なんだか負けたような気になって顔が一層熱くなった。
「樹先輩の昔話、聞かせてくださいよ」
「昔話って」
「りさ先輩となにがあったのか、とか。俺断片的にしか聞いてないし。個人的には御影さんとの馴れ初めなんかも聞きたいんですけど」
「ああ……」
俺は目元を手で覆った。その行動に意味はない。俺は知らず知らずのうちに坂下から逃げてしまっていたようだ。
「お前には関係ないだろ」
「御影さんがあの女に狙われていたとしたら?」
体があからさまに硬直する。首から下をコンクリート漬けにされた気分だ。
あのとき、御影があの場に駆けつけ、嫌がらせの主犯が堂本江奈であることが発覚した。堂本とは1年のときに同じクラスで、りさとも仲がよかった。
信じられなくて、信じたくなくて、俺は今でも堂本とは目も合わせられない。怒りでも軽蔑でもない、形にならない感情が俺の喉を掴んで、問い詰めることさえできなかった。
「なんかあの堂本とかっていう女、まだ匂うんですよね。御影さんにもしものことがあったら」
俺は固まった体にいらつきながら、自由の利く首だけを動かして、
「先輩じゃいざってときに間に合わないでしょう?」
余裕の笑みを浮かべた後輩を見据えた。
「誰かをこんなに殴りたいと思ったのは初めてだ……お前の相手は疲れる」
俺はいくらか間を置き、ため息をついた。冷静になると周りのコンクリートはすっと溶けてゆく。
坂下は俺の肩から力が抜けたのを感じ、面白くなさそうな顔をした。
「拍子抜けしました」
こいつは俺に手を出させるつもりだったのか? このクソガキと心の内で悪態をつく。
「お前は、御影をりさの二の舞にするなって言いたいんだろ?」
「んー……っていうか、別れてほしいです!」
「ふざけんな」
今日になって何回ため息をついたんだろうか。数えるだけ無駄か。
「御影は大丈夫だ。堂本はもうなにもしてこない」
「どうしてそう言い切れるんですか」
「御影自身が、堂本に制裁をくだしたんだと、さ」
俺はわざと含んだ言い方をした。それだけで坂下には十分伝わったらしい。渇いた笑いをこぼしている。
「あの人のことだから、きっとトラウマに残るようなことしたんだろうなぁ……」
「そうか? 俺は1発ガツンと殴ったのかと思ってたけど」
御影は、あんな細い体からは想像もできないような運動神経の持ち主で、武道はひととおり経験済みらしい。
りさを助けに行ったとき、人払いをしていたらしい男子生徒を暴力で追い払ったのは何を隠そう御影なのだ。あいつが怒ることはそうないが、怒ったらそれこそ傷害事件沙汰だろう。
(でも返り血がつくほど人を殴るって、よく考えるとあいつ結構やばいな……)
「千花は女の子のことは殴らないと思いますけど」
さらっと、万引きは犯罪ですとでも言いたげな口調だった。さも当然のことのように御影のことを話す坂下に、またもや気分が尖った。軽々しく名前を呼んだことにもいちいち反応してしまう。
(ああだめだ、こいつと話しているとペースが乱れる)
坂下がなにか言う前に、俺は背を向けた。いらいらを隠すためだったが、結果的にはまた「逃げ」になってしまったのかもしれない。たしかに御影は女の子を殴ることはしないだろう。そう思ってしまったからこそ、俺は坂下に負けたような気がして顔を見ていられなかった。
「先輩はさ」
この軽い声音が、俺を煽る。神経を直接爪でなぞられているようだ。
もどかしい。
この男を力ずくで黙らせたらどんなにいいか。しかしそんなことを、手を出すようなことをしたらそれこそ逃げであり、負けだ。
なんとも醜い葛藤が渦巻き、一点集中していた。それは水風船のように薄い膜に包まれていて、そして、
「千花のなにを知ってるんですか?」
弾けた。
「お前こそなにを知ってるっていうんだよ!」
勢いよく立ち上がった反動で椅子は倒れて音を立てる。大袈裟な泣き声だと思ったが、俺専用の椅子は相応の怪我を負ったらしい。修理した手すりがまた外れていた。
坂下はようやくにやけ顏をしまった。引き締めるというよりは、無表情に見える。
「あんたよりは知ってる」
「でたらめ言うのも大概にしろよ。前々から思ってたんだよ、お前はなんかおかしいってな」
ここまで来てしまったらもう止まらない。舌はよく滑り、これまでにないくらいのスピードで言葉を吐き出していった。
「転校してきてすぐに御影に絡んできやがって好きだなんだとほざきやがる。変に馴れ馴れしいし、知ったような口ばかり叩く! 普通じゃねーよ!」
俺が今まで抱えていた、この坂下悠という男を嫌う根本の蟠りを曝け出していた。
「お前はなんで10月なんて半端な時期に転校してきた? こんな普通の私立に。御曹司のお前が。会ってすぐになんで御影を好きになった? お前の方が御影のこと知らないに決まってるだろ!」
止まらない。こんな俺はらしくない。俺は、もうひとりの俺に制止させられた気がした。明らかにこれは、負け犬の遠吠えだ。
「知らないはずなんだよ! なのに、なんで……お前はそんなに余裕なんだよ。どうしてそんなに知ったような口がきける? −−−−なんでそう千花なんて呼べるんだよ!」
こいつが来てから感じていた、敗北感。何度も何度もぶつけたかった感情が溢れ出てくる。
今までこいつが御影の話をする度に、謎の焦燥感に駆られていた。その口ぶりが、なんだかよく知っているようなものだったから。俺は正面から取り合わないふりをして、逃げていたんだ。
この男の自信はどこから来る? なんで御影なんだ? 可愛い子や愛想のいい子はたくさんいる。
「……どうして御影なんだ?」
座るところは自分で壊していたんだった。俺は自分の言動に激しい後悔を覚えて、窓際に寄りかかって額を押さえた。恥ずかしい。こんな年下相手にむきになっている自分が恥ずかしかった。
「……俺も俺でいろいろ考えちまうんだよ。お前は普通に転校してきただけなんだろうけど、もしかして御影を……追いかけてきたんじゃないかって。前から知っていたんじゃないかって……」
俺は花火のように言いたいことだけ言って、火薬がなくなったところで消えるように口を止めた。
坂下は、一度も口を開こうとしなかった。しかし俺が黙ると、静かに息を吐いた。
「鈍感な人だと思っていたけど、なんだ。なかなかいい勘してるじゃないですか。それならなんで、りさ先輩のときに気付いてあげられなかったんですかねー」
「嫌味ならきかないぞ」
ははっと渇いた笑いが耳たぶをなぞる。
「ご名答! 俺は御影さん−−−−千花を追いかけてきた。7月に彼女の居場所を突き止めて、ここにきた。だいぶ時間がかかっちゃいましたね。後悔しかしてないですよ。あんたみたいな、虫がついてるんですから」
もっと早くここに来ればよかった、と淡々と語った。悪態を吐くように、悪意が俺に向けられていたことは言うまでもない。
「昔話をしてあげてもいいんですが……そうですねぇ。……彼女のことどこまで知ってますか? それによっても俺の話せることが変わってきます」
この後に及んで、坂下はまだ飄々としている。
「どこまでって」
「そうだなぁ。例えば、彼女の出身とか?」
もちろん、知るはずがない。別段知ろうともしなかったし。第一、あいつは詮索を嫌う。
しかし、坂下は知っているということにショックを受け、それを必死で隠した。
「家族のこと……親とか、故郷のこと。あと−−−−弟のこと」
耳が痛い。聞こえない耳鳴りが、俺を責めた。
「おとうと?」
今、俺はどんな情けない顔を晒しているんだろうか。
「……なんだ、なーんにも知らないんですね」
坂下の口角は上がり、俺の肩は下がったままだ。
「そんなんじゃ、俺から話せることはなにもないです。あとは千花に任せます」
(また、名前……)
こいつは何者だ? という不信感が募る一方で、見苦しい嫉妬心がめきめきと膨張していく。
昔話? 千花に任せる?
(そうだ。御影はなにも言っていない。過去のことはともかく、この男については俺に隠していたことになる)
「でも、俺も彼女のことでふたつだけ分からないことがあったんです。そのひとつがやっと分かりました」
坂下の言葉をうまく噛み砕けない。御影。御影に無性に会いたくなった。
どうしてなんだと、問い詰めるよりもまず、顔を見たくなった。
「千花が樹先輩を好きになった理由がよく分かりました」
「は……」
聞き返すことはできずに、その意外な反応に追いつけない。
坂下は悔しそうに笑っていた。眉毛ははの字に歪み、口元はきゅっとしまり、今にも泣き出しそうな笑みだった。
「なにも知らなくてもいいのかもしれないですね。知らぬが仏ってやつですよ。……じゃあ、俺はこれで」
いつの間にか身支度をしていて、坂下はそのまま早足で生徒会室を出て行こうとした。
「ま、待てよ。まだ話は」
「あーでも、本当に、どう考えてもひとつ分からないことがあるんですよねー」
ドアノブに手をかけ、坂下は立ち止まる。その含んだ言い方に、俺は追いかけようとした足を止める。
「先輩は分かりますか?」
「……なにが」
坂下の肩が震え、自嘲の笑いがくぐもって聞こえた。坂下は首だけ動かして、俺を睨みつける。
獲物を品定めするような、そんな危険な眼光に、心臓が一際大きく波打った。
「なんで……俺じゃだめなんですかね」
そうとだけ言い残して、坂下は出て行った。




