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彼女  作者: 長門 郁
第一章
11/17

番外編〜お引越し〜

 これは坂下悠くん杉村和くん櫻井リコちゃんたちのお引越しのエピソードになります。以前ツイッターにあげたものです。

 時系列でいうと、episode1よりも前になります。



「よっこいしょ!」

 とあるマンションの一室。坂下悠は最後の一つとなった段ボール箱を運び入れた。部屋には同じような箱が幾つも並んでいる。

「ふぅ。やっぱり引っ越し業者に頼めば良かったかな……ケチんなきゃよかった」

 いくらエレベーターがあるからといって、13階の部屋まで何往復したことが堪えているようだ。

 坂下は癖っ毛の髪をがしがしと掻き毟り、首に提げているタオルで額の汗を拭き 取りながら部屋を見渡した。面積の半分が段ボール箱で埋め尽くされているが、それでも尚広いことには変わらない。

 世に言う高級マンションの一室を独り占めとなると、返って虚しい空気が漂っている。

「ここに一人は、ちょっと広すぎるなぁ」

 苦笑を秘めた独り言をポツリと漏らす。それに応える者はいない。

「……そうだ!」

 坂下は何か思いついたように一つの段ボール箱を開け始めた。その側面には大きく『お菓子』と乱暴な文字が書かれている。

 スナック菓子の袋や飴の袋を右手で持てるだけ持ち、最後に炭酸ジュースを左手で取り出した。

 そして足で器用にドアを開け、外に出る。そのまま隣のドアの前に立ち、インターホンを押した。勿論足で。

 はーい、と女性の声が中から聞こえ、足音が近付いてくる。そして間もないうちにドアが開けられた。

「あ、悠坊ちゃん! お部屋の掃除は終わりましたか?」

 坂下の顔を見るなり、ぱぁっと花が咲いたように笑顔を見せる女性は、櫻井リコ。イタリア出身であるが故の金髪は彼女が動くたびにふわふわと揺れ、丸々とした青い瞳は坂下の手の内にあるお菓子を捕らえた。

「お菓子ですね! 食べるんですか?」

 坂下の答えを聞くよりも先に、櫻井は炭酸ジュースを坂下から奪うようにして手に取り、抱き締めた。

「コップ出しますね!」

 そうして玄関を後にし、部屋の奥へと姿を消した。

「櫻井さん元気だなー」

 正直腰が痛い坂下は渇いた笑みを浮かべる。

「あれー? コップどこでしたっけ……」

 キッチンの段ボール箱を手当たり次第開けてコップを探している櫻井の横を通り、坂下は寝室へと足を進める。

「かーずー、休憩に……って寝てるし」

 寝室に設置されたダブルベッドのど真ん中で、杉村和は大きな体を大の字にして寝転んでいた。

 年の割りには幼く見える童顔の彼だが、顔にはタオルが被せており表情は見えない。端からは真っ黒な短髪が確認できる。

「いや、起きてる……流石に疲れた」

 声音からして相当疲れていることは分かる。そんな杉村の手には煙草が握られていた。

「和、寝煙草なんてしたら禁煙させるからね」

「おー……」

 坂下の忠告に対する気のない返事は、白すぎる壁へと吸い込まれていった。

「俺も疲れたなー」

 坂下は伸びをして、杉村の隣に横たわった。その衝撃によって埃が舞う。



 御曹司である坂下は一部屋丸々使い、そのボディーガードの杉村と櫻井は二人で隣の部屋に住むことになっている。

 しかし改めて部屋に入ると、三人で住む方が丁度いいと坂下は思った。

(俺広すぎて逆に寝れない……)

 今は隣に兄のような存在の杉村がいる。それだけで安心感が舞い降り、睡魔が坂下の精神を犯し始める。

(もう和や櫻井さんとも、家族だよなぁ……)



「お疲れ様です、坊ちゃん」

 寝室にコップを3つ持って櫻井が入ってきた。

「はーい杉村さん。起きてください。飲み物ですよー」

 櫻井はもう片方の手に持っていた炭酸ジュースの底を、杉村の額にグリグリと押し当てる。

「おいリコ、誰がお前の分まで荷物運んでやったと思ってんだ……」

 ドスの効いた声がタオル越しに聞こえてくる。しかし起き上がる気力はないようだ。櫻井はそんな杉村の煙草を取り上げて、代わりにコップを握らせる。

「はい坊ちゃんのコップです。どうぞ」

 櫻井はずいっとコップを差し出す。それを受け取ると、坂下は唇を突き出しながら言った。

「ねー櫻井さん。その坊ちゃんてやめようよ。悠でいいからさ」

「ええ!」

 坂下の唐突な一言に櫻井は驚きを隠せない。あからさまにあたふたしながら、しどろもどろになっている。

「わ、わたしは坂下家に雇われた身でありまして、ふ、普通のボディーガードっていうかドライバーなのでして、坊ちゃんをそんな呼び捨てになんか……」

 櫻井は側にある段ボール箱の上に自分の分のコップを置いて、何故かフローリングに正座になっている。

「和は呼び捨てだよ?それに俺は気にしないし。坊ちゃんの方がちょっと恥ずかしいし」

「で、でも……」

 坂下は上体を起こし、櫻井の青い瞳を見つめた。

「もう俺たち家族なんだからさ、まずは肩書き取っ払っちゃおうよ!」

 そうして、櫻井に負けないくらいの笑顔を見せた。

「坊ちゃん……」

 櫻井が感極まっているところで、坂下に杉村の気怠そうな声が掛けられる。

「お前も下の名前で呼んでやれよ。リコって名前は俺とは違って本名でもあるんだから、尚更な」

 ノロノロと体を起こし、ん、と言って櫻井にコップを向けた。注げという意味だろう。

 櫻井は素直にそれに従う。プシュッという勢いのある音が響いた。

「和だって本名あればそれで呼ぶよ。教えてくんなきゃ分かんないし」

「俺に名前なんざねーんだよ。……この名前でいい」

 櫻井は次に坂下へペットボトルの口を向けた。坂下のコップに静かに気泡を含んだ透明の液体が注がれていく。


「お前がくれたこの名前でいいんだ」


 杉村の微笑みを込めたその一言で、場の空気が和やかになる。

「じゃあ、わたしは悠くんと呼びますね」

 櫻井は自分のコップを満たし、気恥ずかしそうに笑った。

坂下もはにかみながら、

「えーっと、じゃ、リコ……さん」

 もごもごと口ごもる。

「呼び捨てで構いませんよ?」

 恥ずかしがる坂下を、まるで弟を見る姉のような眼差しで覗き込んだ。

「り、リコ……ちゃん」

 坂下なりの譲歩は、杉村の笑いを誘った。

「中学生かよ」

「和うるさい!」

 櫻井もつられて笑みをこぼす。そしてコップを高らかに掲げて立ち上がった。

「もう乾杯しましょうよ! 新しい生活万歳!」

 坂下も立ち上がり叫んだ。

「本家脱出万歳! 俺やっと自由だ!」

「杉村さんも21歳にして高校生デビューおめでとうございます!」

「それを言うな!」

 杉村のチョップが櫻井の額にヒットした。




 その一室から聞こえる賑やかな声は、当分止まなかった。

 杉村くんの名前についてはまた後ほど。

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