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彼女  作者: 長門 郁
第一章
10/17

episode9

穂高は宝来の病室を後にし、病院を出ようとした。

外は真っ黒に染まり、窓から見えるものは何もない。心なしか雪が強くなった気がする。

「あら、樹くん?今帰るの?」

薄暗い廊下から麻由美がやってきた。

「麻由美さん。そっちは……まだ帰れないんだ」

「まあ、ね。夜勤は肌に悪いからあんまりしたくないんだけど」

スーツではなく仕事着である白衣を羽織っていることから、今も仕事中であることが分かる。

「今日はありがとう。来てもらえてよかったわ。海斗くんも元気でたと思うし」

「俺より許嫁が来た方がいい気がするけど」

「許嫁?」

穂高の皮肉めいた一言に、麻由美は眉間にしわを寄せた。

「海斗くんの許嫁、会ったことあるの?」

「逆に聞いちゃって悪いけど、主治医なのに会ったことないの?」

しばしの間が、問いの答えになった。麻由美は気を取り直すかのように咳払いをする。どうやら突っ込んではいけないところを刺激してしまったようだ。

「……もしも会えたら教えてちょうだい」

「え」

「主治医なのに何も知らないのは、メンタルケアすべきところで何もできないのよ。親御さんにも任されてるし……なのに彼は秘密主義な面が多いから、参ってるのよね……」

珍しく麻由美の口から弱音を聞いた気がした。

「だからって患者のプライバシーを調べあげるのもいい気分じゃないし、話してくれること以外は無理に聞かないようにしてるの。……拓美もこの頃扱いづらいし、お年頃は難しくって」

そのお年頃に自分も入っているのだがとは、穂高は口にしないようにする。

「ま、そういうこと。私はまだ仕事があるから。気をつけて帰ってね。それじゃあね!」

手をひらひらと振って、麻由美は穂高に背を向けた。

穂高もそれじゃあと会釈をして廊下を歩く。

しかし思い出したように、

「麻由美さん!」

踵を返した麻由美を引き止めた。

「医者になるのって、やっぱり、その……大変、ですか」

電灯の僅かな明かりを反射させた白衣が、何故か元より白く綺麗に見える。医学を志し、認められたものが纏える白衣だ。穂高は、今日ばかりは緒方麻由美という女医が特別に思えた。

いつも人をからかうような人だが、穂高の知らないところで努力や苦労を重ねて来たからこそ、今ここにいるのだろう。

「あら、樹くんは医者を目指しているの?」

麻由美は少し嬉しそうな表情で穂高を覗き込む。

「い、いや。俺の……か、彼女が目指してて……それで」

口籠った様子を見て、真由美は茶化すような声音になった。

「へぇ……樹くんの彼女がねぇ」

「からかわねーでほしいんだけど……」

「あら?そんなつもりはなかったけど?」

くすくすと笑う彼女は心底楽しそうだ。穂高は言わなきゃよかったと内心後悔する。

「ごめん忘れて、もう帰るわ」

「応援してあげなさいよ」

麻由美は何かを思い出しているように、目を伏せた。

「私には家族がいたわ。両親と、拓美が。彼女にも家族はいるんだろうけど、あなたなら別の支えになれるはずよ」

家族。その言葉が魚の骨のような違和感を感じさせた。

(そうだ、あいつの家族の話を聞いたことがない)

付き合って2ヶ月。その割には何も知らないということを突きつけられた気がした。

(確か両親は故郷にいるって……でも仕送りは貰ってないはずだ、てゆーか故郷ってどこだ……)


『故郷にはいますよ。もう会いませんが』


ふと、御影の言葉が頭を過ぎった。


「あなたにしか、できないことをしなさい」

麻由美はそう告げ、諭すような笑顔を見せた。





終業式の日がやってきた。

穂高たちの街にあれ以来雪は降らず、この日も元気に太陽が働いている。

穂高は終業式が終わって、やっと肩の荷が下りたというように大きく伸びをした。会長の特等席である上等の椅子ーー本来は校長室から壊れた椅子を持ち出して修理したものーーが大袈裟にギィと鳴いた。

「お疲れ様です、会長」

御影は窓からの風景を飽きもせず見下ろしている。これもいつものことだ。

「委員会総会も終業式も終わったし、やっと冬休みだ……部活に専念できる。あとはドラムか」

「相変わらずやることが多いようで」

相変わらずはお前だこの無愛想めと、頬をつねりたくなる衝動を抑える。

生徒会室は穂高と御影だけになり、久方振りの2人きりとなった。

元々広くない生徒会室だが、2人だけとなると狭く感じられない。窓からの日差しが埃を照らし、視覚的にも鼻がくすぐったくなる。

「会長はこれから部活でしょう?行かなくていいんですか」

御影は生徒会室にいるときや、生徒会として仕事をしているときは決まって穂高を「会長」と呼ぶ。

「おい、今誰もいないだろ」

御影は窓に張り付いたまま首だけを動かした。

少し拗ねたような彼氏の顔を見て、彼女はからかうように目を細めた。


「樹」


冬の日差しが穂高の目を刺す。くらりと頭が揺れるような感覚はきっとそのせいだと、麻痺した脳に言い聞かせた。

そう、言い聞かせたはずなのに。


光の合間から彼女の影が見える。その影を無理やり引っ張った。穂高も立ち上がり、御影を抱擁する。

彼女からは、少し甘い香りがした。

「どうしたんですか」

「いや、なんとなく」

相変わらず淡白な奴だなと、穂高は内心ため息を吐く。こちらは心臓が準備体操なしで100メートル疾走を始めたように落ち着きがないというのに。

「部活は」

「あのさ、俺ずっと考えてたんだ」

穂高は御影の言葉の端を遮り、腕の力を込める。

「俺な、医者なんて辛い道を行くお前に軽々しく頑張れなんて言いたくなかったんだ。だけど、お前の夢を応援したい。だから俺にしかできないことをしようって」

知り合いの受け売りも入ってるんだけどなと、穂高は笑いながら一旦御影から身を離し、自分の鞄を漁った。

そして、

「ん。これやる」

前にも貸した数学の教科書を御影に渡した。

「これ……」

「俺は1番近くの私立狙いだし、文系だから数学とは来学期からおさらばなんだよ。だから、お前にやる。有効活用してくれ」

御影はさすがに驚いたように目を見開き、教科書と穂高の顔を交互に見た。

「……ありがとうございます」

「おう。今度は坂下なんかに負けんなよ?」

それは地雷だった。今までの雰囲気とは一転して、棘の生えたオーラが目に見えてくる。

「この前のは油断してただけです。次は絶対に負けませんから」

「……おー」

とにかく負けず嫌いらしい。明らかに不機嫌になった彼女は人間味が溢れていて、なんだか微笑ましかった。

尖らせた唇に視線が集中する。穂高は自分の喉が渇いていたことに気づいた。

「最後にキスしたのっていつだっけか」

御影が惚けたようにえ? と言った、その刹那。穂高は彼女の口を塞ぐ。

口と口を合わせただけの軽いキスに、御影はぽかんとしていたが、すぐにまた無表情に戻り、

「この助平」

「はいはい」

お約束の言葉を穂高に投げた。




外は風が淡く吹いているが、冬にしては暖かい気候だ。甘い果実が弾けたような香りを風が運び、日差しには柔らかな優しさと肌を刺すような眩しさがあった。

「冬休みさ、空いてる日あったら連絡くれ」

穂高はグランドへ、御影は校門へと向かう。

「いや、開けた日ありませんから」

その言葉に穂高は足取りを止めた。

「え」

「バイトですから」

「く、クリスマスとか」

「バイトです」

「初詣は!?」

「バイトです、巫女の」

「巫女? まじかよ! ってそうじゃねーよ!」

思わず食いついちまったと独り言をこぼす。もっとも御影はその煩悩を察してため息を吐いていた。

「こっちも生活がかかっているので、短期ですけど新しいバイトも始めますし」

「生活か……」

そうだこいつには仕送りがなかったと、舌打ちしてしまいそうな口を叱る。

「お前さ、親御さんに連絡取ってみたらどうだ?さすがに大変なんじゃねーの?」

穂高は言ってから後悔する。これでは自分が遊びたいがために彼女を責めているようだ。

「別に俺との予定を無理やり作れって言ってるんじゃなくて、勉強もあるだろうし、第一女子高生が1人で暮らすのには限界があるんじゃないのか?」

必死に取り繕っては見たものの、御影の表情は依然として変わらない。

「……前に、もう会わないって言ってたけど、家族なんだろ?どんな事情があったって、まだ甘えてもいいんじゃーー」

「家族はもういません」

御影はか細くも圧のある言の葉で彼を制した。そして、



「少し喧しいです」

御影は穂高のネクタイを引っ張り、強引に口を塞いだ。

穂高の目の前には、黒々しい彼女の瞳に映る、なんとも情けない顔をした自分がいる。あいた口が塞がらない、とは言っても口は彼女の口で閉ざされているが。

「……千花さん、随分大胆な」

「名前で呼ばないでください」

彼女が身を離しても、唇に残る生々しい感触が穂高の体の芯を煽る。

「それでは、良いお年を」

そんな彼を知ってか知らずか、御影はあっさりと帰ってしまった。

1人残された穂高は、唇をなぞる。

御影からキスをされたことはなかった。初めてのことだった。

だからこそ、違和感を拭えない。穂高の眉間にしわがよる。

(素直に喜べよ俺。なんだってこう、悪い方に考えちまうんだよ……)


今のキスは、追求から逃げるために、穂高を黙らせたような行為にも取れた。


そんなはずないと思いつつも、ショックを受けたことは変えられなかった。彼女からの初めてのキスは、愛情表現ではなく自己防衛だったのではと。

「嫌な奴だな、俺」

そんな風にしか考えられなかった自分に、1番腹を立てる。

そして無性に、別れたばかりの彼女に会いたくなった。




思えば、この時からだろう。

俺の中の「彼女」が、崩れていったのは。


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