約束 ~ギターと譜~
私がとある人に会ったのは、学校帰りのことだった。
その日は学校で勉強を済ませ、久しぶりに遠回りをして家に帰るところだった。私は土手を自転車で走っていた。普段とは違う道を、徐行しながら走っている時だ。私はふと音を耳にした。アコースティックギターの音。どこから聞こえてきたのか、私の耳にギターの音は心地よく入ってきた。私は極必然的に音の出処を知りたくなった。
私は音のするであろう方向へ自転車の向きを変えた。そして、数分掛けて、私は音の主を見つけ出した。在来線の高架橋。その下の僅かばかりの空間。音はそこから外へ出ていた。
私は自転車を止めると、土手の斜面を下って高架の下へ入り込んだ。そこは、人が立つには少しばかり難儀なところだった。少しばかり腰を折って入った先に、彼女は居た。
ギターを鳴らしながら川面の揺れを見つめる姿は、美しくもあり、儚げでもあった。しばしの間、私はその場に立ちすくんでその音に耳を傾けていた。繊細で、美しい旋律。触れれば壊れてしまいそうなその音たちは、高架下の空間に反響し、広がっていった。
ちょうど良い塩梅で曲が終わったところで、高架を電車が通過した。その途端に、私は夢心地の世界から現実の世界へと連れ戻された。大量のリアルの中にある、小さな憩いの場。そんな様相を呈した空間から、私は弾き出されていた。そうやって弾き出された後だと、妙に生活音が耳を叩いた。
「私に何か用?」
気付けば、目の前にギターケースを提げた女子が立っていた。容姿から察するに、歳は私と同じくらいであろう。
「いや、用という訳じゃないんだけど……」
私は咄嗟に言葉をつなぐことが出来なかった。彼女は軽く溜息をすると私の来た道を戻って高架下から土手に上がっていった。私の頭は、この数分の間に起こったことに追いついていなかった。しばらくの間、私はその場に立ち尽くしていた。
その後三日間、私は回り道をして帰宅するようになっていた。土手を通った帰り道。私はあの音を聞きたくて、いつの間にか土手を走っていた。あの日から三日間土手を通ったが、その全てでギターが鳴りやむ日はなかった。私は土手と高架の接続部に自転車を止め、旋律に耳を傾けていた。
不思議なもので、四日目にして、私は彼女と話をしてみたいと思っていた。いったい自分でも何を考えているのか分からなかったが、あの音をすぐ近くで聞きたいと思った。
その日の帰り道、私はそれまで同様、土手を走っていた。心なしか、いつもより急いでいる自分がいることに気づく。しかしそれはどうすることも出来なかった。結局いつもよりも数十分早く高架との接続部に着いてしまった。ギターの音は聞こえない。私は自転車のスタンドを下ろした。私の横を、電車が対岸へ向け走って行った。私は見るともなしにそんな電車を見送った。
「また、あんたか」
後ろからした声に、私は身を翻した。そこにはギターケースを背負った女子高生が立っていた。
「あんたも物好きだね。五日間連続でこんなところに来るなんて」
「あ、いや……」
私はまたしても言葉を見失っていた。素直に言えば良いものを、どうしたわけか、口がそれをさせてくれない。
「今日も聞いてくの?」
「あ、うん。そのつもりだったけど……」
「けど?」
「迷惑なら……」
私は俯き加減に口を動かしていた。こんな風にして言うつもりなどなかった、そう思いながらも、それを脱却できない私がいた。
「別に構わないよ。何なら一緒に来なよ」
そう言って彼女は高架下へ降りていった。少しばかり考えた後、私も彼女について高架下へと降りた。実際のところ、私の頭は既に限界状態で、まともなことなど考えられなかった。そのため、下に降りるという選択肢しか選べなかったのだ。
彼女はあの日と同じ場所にギターを出して座ると、チューニングを始めた。弦を弾いた音が高架下の空間に反響する。それだけでも、現実世界と隔絶された空間のように私には思われた。
「そんなところに立ってないで、こっち来て座ったら?」
彼女は私の方を振り向くと言葉少なに言った。
「そこよりも、ここの方が音は良いよ?」
「あ、うん……」
私は彼女に言われた通り、彼女のすぐ横まで歩いていった。彼女は無言でチューニングを続けている。私はそんな彼女の隣に腰を下ろした。
「そう言えば、あんたなんて言うの?」
「え……?」
「名前」
「あー、俺は久木彰悟。えーと……」
「私は澤村逢」
私は何故だか不思議な気分だった。初対面であると言っても過言ではないのに、彼女、澤村は自然と私に声を掛けてくれた。
澤村がギターのネックを持ち直し、和音を響かせた。心地よい音が私の耳に入ってくる。そして反響した音が、優しく身に染みるように私を包んだ。接続部や、あの日聞いたところよりも、音はダイレクトに私を包んでくれた。そのまま澤村は曲を弾き始めた。静かな空間に、ギターの音が浸透していく。私は目を閉じてその音を聞いていた。まるで別世界にでも行ったかのような、そんな特別な世界観が私を支配していた。
どれ程の時間が流れたのか、あまり実感がなかった。ほんの数分だったのか、はたまた数時間だったのか。不思議なもので、音を聞いている間の時間の流れは未知数だ。澤村が弾いていた曲が終わった時、ちょうど高架を電車が走った。まるで計ったかのように、終わってぴったりに。澤村はギターを抱えたまま、じっと川面を見つめていた。空はすっかり赤く染まっている。
「何で久木はここに来たの?」
「俺は単純にそのギターの音を聞きたかったから」
「四日前までは誰も来なかったのに」
「俺が来ちゃまずかったか?」
私はそれとなく聞いていた。
「いや、別にそういう訳じゃないんだけど、ただ、何となくね」
「ふーん」
私は川面を見つめる澤村を見つめていた。しばしの沈黙が訪れる。その沈黙を破るように高架上を電車が通り過ぎていく。電車が通るたびに一定のリズムが刻まれていく。私はそのリズムを落ち着いて聞いていることが出来なかった。
「澤村はいつからここで弾いてるんだ?」
「だいたい二ヶ月前からかな。それまではもっと音の広がりの良い、人の来ないと ころでやってたんだけどね」
「そうか。でも良いよな、そうやって好きなことが出来る空間があって」
私はそれまでの自分が偽りであるかのように、ごく自然に澤村と話していた。
「まあね。だけど、それもあと少ししかないから……」
「え……? 何?」
後半部がうまく聞き取れなかった私は、澤村に聞き返したが、何を言ったのか彼女は答えてくれなかった。そのかわり、私たちはお互いの連絡先を交換した。私にしてみれば、何とも不思議な体験をしたものだ。
それからしばらく、私は彼女のギターの音を聞きに、高架下へ出かけた。回数を重ねるにつれ、彼女とも難なく話をするまでになった。そんなある日だった。
「明日の日曜日、今まで私が行ってたところに行くんだけど、久木も来る?」
「良いのか?」
「私は別に構わないけど」
「それじゃあ、お邪魔させてもらおうかな」
「了解」
私は彼女と約束をした。この時の彼女は、何とも嬉しそうな顔だったことを今でも覚えている。しかし、何故彼女が私を誘ったのかは、この時分からなかった。
日曜日、私は彼女と高架橋のところで待ち合わせをし、彼女のかつて通っていた場所へ向かった。ギターケースを背負った澤村の背中を見ながら、私は自転車を走らせた。彼女の小さな背中のギターケースは、見た目以上に大きく感じられた。
彼女の後を追って、川を越え、山裾を走り、坂道を上った。そして着いたのは公園のようなところだった。眼下に川や町の様子を見渡すそこは、小さなベンチが数個並ぶだけの開けた空間だった。
「ここか?」
「そう。私のお気に入りの場所」
自転車で二十分程のところにこんな場所があることに、私は驚いていた。しかし、私には一つの疑問が湧いていた。
「なあ、澤村。お前、人の来ないとこだって言ってたけど、こんな公園なら人は来るんじゃないのか?」
「まあ、そう考えるのがフツーなんだけど、何故か誰も来ないんだよね。ここ」
澤村は微かに笑いながら答えた。話によると、この場所で数ヶ月間弾いていたけれど、その間誰も人は来なかったという。本当に誰も来なかったのか、ただ単に澤村が気付かなかっただけなのかは分からない。けれども、ここが彼女のお気に入りの場所であることに変わりがない。私は彼女が座ったベンチに並んで腰かけた。
「今日は何の曲を弾くんだ?」
私は、いつもは決して言うことのない言葉を言っている自分に気が付いた。今までであれば、曲に関することで私が口を出したことはなかった。しかしそんな私のことなど気にせず、澤村は話を続けた。
「今日はね、私が中学生の時に書いたやつなんだけど、それに少し手を入れた曲」
「中学の時ねぇ……。お前そんな時からギターやってたのか」
「ギター始めたのは小学生の時。親戚のお兄さんがやってるの見てね」
そう言って、澤村はケースからギターを取り出し、チューニングを始めた。慣れた手つきで弦をいじる澤村は、何となく楽しそうに見えた。私はそんな彼女をじっと見つめていた。これまでに数回見てきた光景のはずが、この日は少し違って映っていた。
弦を弾けば、音は空へと舞い上がっていく。その澄んだ音はどこまでも広がっていった。高架下にはない音の広がり。あそこでの音ばかり聞いていた私には、何とも新鮮な音に思えた。
「不思議だな」
「ん?」
「だって、何度も来てるとこなのに、なんだか初めて来たみたいなかんじがする」
澤村はネックを持ち直しながら、独り言のように呟いた。私はついその言葉に反応してしまう。
「俺は初めて来たからな」
「久木はそうかもしれないけど、私はそうじゃない」
「誰かと来るのは初めてだろ?」
「まあそうだけど……」
「そのせいだよ」
私は笑って言った。心なしか澤村の顔が少し赤くなって見えた気がしたが、あまり気に留めなかった。
澤村は少しの間眼下の景色を眺めていたが、ギターを構え直すと、静かに弦を弾き始めた。その曲は今まで聞いたことのない、一度も私の聞いたことのない曲だった。
「この曲って」
「だから言ったでしょ、中学の時に作った曲だって。今までの私だったら絶対そんな曲今弾かないよ」
そう言って澤村はギターを鳴らした。その曲は、今まで聞いた曲よりも力強く、まるで熱いものが迫ってくるようだった。しかし私は、大きな思い違いをしていた。澤村のこの曲は、単なるギターソロの曲ではなかったのだ。
*
この青い空 白い雲は僕を見下ろし
僕はここに立ち 空を見上げた
やるせない気持ち 押し殺した感情
それら全てをぶつけるように
僕はどうしたら良い? 僕はどうすれば良い?
答えは雲の上にあるように
僕には見えていた 世界のすべてが
僕にはわかっていた この世のすべてが
だけど僕には この気持ちがわからない
僕にはわからない 君への気持ちが
こうしている間に君は僕を忘れる
僕はどうしたら良いのか
君は旅立った 僕一人を残して
君は言った 必ず帰ると
答えのない問い 僕は何も言えなかった
僕はどうするべきだったのか
追いかけるのか 君の帰りをただ待つのか
僕には勇気がなかった
僕には見えていた 世界のすべてが
僕にはわかっていた この世のすべてが
だけど僕には 君への気持ちがわからない
自分がどうすべきなのか わからない
こうしている間に君は僕の元から去っていく
僕はどうすれば良い?
思いのやり場も 感情の受け皿も
今の僕には存在しない
僕はまるで人形のように
その場に崩れた
僕には見えていた 世界のすべてが
僕にはわかっていた この世のすべてが
僕には見えていた 君との終わりが
僕はわかっていた 君との別れがあることを
こうして去った君を 僕は忘れられない
君の面影が 僕を苦しめる
僕は待っている 君の姿を
僕は待っている 君の帰りを
*
澤村は、私の前で曲を歌い切った。その曲は、儚くも、どこかしっかりとした意思を感じることのできる曲だと、私は思った。言葉が出てこなかった。
「何だか、変な感じ。中学の時の曲なのに、こんなに感情移入しちゃって」
「この曲って」
「仲のいい友達で、いつも二人でバカ騒ぎしてるような、そんな明るい友達がいた。だけど、そいつ病気持ちでね。三年になる前に亡くなったの。二年の冬だったな。病院行ったら、もうすっかり痩せちゃって。それで言われたの、『ごめんね、もうお別れだね』って」
「それじゃあ……」
「そう。その帰りにここに来て作ったの。勢いで詞を書き殴って。変な話だよね、まったく。歌詞も滅茶苦茶だし」
澤村は笑いながらも、どこか悲しそうな眼をして言った。私は彼女がそんなにつらい人生を歩んできたことを知らなかった。私は澤村のことを、何か決定的なことを、知らなかったような気がしてならなかった。
「そんな神妙な顔するな、久木」
「俺、そんな顔してるか……?」
私はどう言ったら良いのか、その言葉が見つからなかった。
「どうせ、私の過去のこと考えてんでしょ?」
「…………」
「私が勝手に歌ったんだから、久木が気分を悪くする必要はないよ」
澤村は私に笑いかけてくれた。しかし私は彼女に笑い返すことが出来なかった。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、今になってこの曲を歌おうって思ったんだ……?」
私は俯いて言った。澤村が何もなくこの曲を歌うようには思えなかった。
「まあね。私だって迷ったよ。こんな曲歌って良いのかって。だけどね、私にはこの曲しかなかったんだよ。久木、いや、彰悟、私はあんたに言いたいことがあったんだけど」
「言いたいこと……?」
「うん」
「何だよ、言いたいことって」
「私さ、今日でギター弾くの、終わりにするんだ……」
「え……」
私は言葉を失った。
「今、何て……」
「私ね、実は病気持ちなんだよ」
澤村はできる限りの笑顔を作って私に言ったようだったが、その顔は、どこか悲しそうな笑顔だった。
「病気って……」
「実はね、私、前から頭に腫瘍があってね。たいしたことないんだけど。そいつのせいで、手がうまく使えなくなってきたんだよ。それで、せめて好きなギターを嫌ってほどやって、もう悔いがないくらいまでにしたかったんだよ。だけど、そんな時に彰悟に会って、私の音好きって言ってくれて」
「澤村……」
「私、嬉しかったんだ。自分の音を誰かに認めてもらって」
「そんなこと言うために、ここまで来たのかよ……」
「いや……」
そこまで言って澤村は言葉を詰まらせた。私は彼女の目に涙が溜まっていることに気付いた。
「私ね、明日から県外の大きい病院へ行くことになって……」
「…………」
「そこで手術して、何とかするって……」
澤村は涙を流しながら、その顔を私には見せようとせずに言った。
「また、ギター弾けるようにするって……」
私は彼女へかけてやる言葉が見つからなかった。先程からそうだ。私は澤村の発信に対して、何の返答も出来ないでいた。そんな自分がやるせなくて、自分を殴ってやりたかった。
そのまま、数分の間澤村は泣き続けた。私は彼女の肩に腕を回すことしかできなかった。それ以上は何も出来なかった。知り合って数日の人間にこれだけのことを言える澤村と、何も言えない私。私はどうしたら良いのか分からなかった。
日もすっかり傾き、空は赤く染まっていた。私と澤村はまだあの場所に居た。
「ごめんね、すっかり泣き崩れちゃって」
「いや、俺のほうも……」
私が言葉を続けようとした時、彼女は私の口に人差し指を当てた。
「その先は言わない」
彼女は優しく笑うと、ギターケースを背負い、自転車の元へ歩き出した。
「帰ろっか」
笑う彼女の顔には、先程までの暗い影は感じられなかった。いつもの彼女に戻っていた。
私たちは高架橋のところまで戻ってきた。空はすっかり暗くなっている。
「ここでいいのか?」
「うん、ここからはすぐだから」
「もしあれなら、送るけど」
「大丈夫。ここまでで十分だよ」
彼女は笑いながら言った。
「そうか」
「あ、そうだった」
そう言って彼女はギターケースのポケットを開け、中から紙の束を取り出した。それは、見たところでは楽譜のように見えた。
「これ、彰悟に預けとく」
「これって……」
「あそこで歌った曲。今度私に会ったら、返してね。これは約束」
そう言うと、彼女は自転車を走らせた。
「それじゃあね。再会するときはあの場所だから、忘れないこと!」
彼女の声が暗闇の中に響き渡り、そして消えていった。
「再会……か……」
私は楽譜を鞄に入れ、家の方へ自転車を向けた。
次の日、彼女の言った通り、高架下から聞こえていた音が消えた。私はわかっていたはずなのに、とても大きな喪失感に襲われていた。しかし、彼女との約束がある。私はそう自分に言い聞かせた。それが本当になるかもわからないのに、私は自分に言い聞かせた。
その半年後、私は進学で自宅を離れた。故郷へ別れを告げ、私ははるか遠くの地で勉学に勤しんだ。そして、数年後、私は故郷の地へ戻ってきた。
私がいた頃と、帰ってきてからの故郷の風景は大きく変わっていた。それでも、私は故郷へ帰って来られたことが嬉しかった。約束の地。彼女がどうなったかはわからなくなってしまったが、彼女の手術が成功し、元のようにギターを弾けるようになっていれば、彼女は必ずあの場所に来る。そんな気がしていた。彼女は忘れてしまったかもしれない。そんな不安も時に過った。しかし、私は無意識のうちに彼女を信じていた。
帰ってきて三日目。引っ越し荷物の片付けが一通り済んだところで、私はあの場所へ出かけた。鞄にあの楽譜を入れて。あの場所が残っているのか、といった不安が頭を過る。それでも、自分の目で見ない限りは、その変化は分からない。私は約束の地へ自転車を走らせた。
あの日聞いた曲を、詞を、まるで自分のことのように思っていた日々。そして、私はその約束の地へ走っていた。待つのは私なのか。それとも彼女なのか。私は再会出来ることを切に願っていた。永遠に待つかもしれない。一生会えないかもしれない。それでも私は待とう。それが彼女との約束だ。例え今日会えなくとも、明日には会えるかもしれない。その会える日を、私は待つだろう。
私がそこに辿り着いたのは、正午を少し回った頃だった。この場所、約束の場所は、あの頃とさほど変わらずに残っていた。変わっていたのは、自転車で頂上の広場まで行けなくなっていたことくらいだ。頂上までは階段とスロープが続いている。私は自転車を入り口の隅に置き、階段を上った。
そして、私は階段を中ほどまで上った辺りで、聞き慣れたギターの音を耳にした。