薔薇の棘
館への道を戻っていると先に行ったローズが道の真ん中に立っていた。
木々や茂みの向こうに建つ洋館はまるで切り取られた現実感のない背景にしか見えなかった。
そんな背景の中、薄く俯くローズの表情は見えない。柔らかなワンピース。さらりと風に揺れる黒髪。それはどこまでも現実じゃないようなシーン。
壊すのは怖かった。
だけど壊さなくても壊れるなら自分からと、壊した。
「ローズ?」
「だめなの。だめなの。だめなの。どうして私じゃダメなの?」
呼びかけに返る声と体が小刻みに震えている様はどこか焦燥感、だろうか、僕の心を揺らす。
「ろーず?」
再度呼びかける声も上擦る。
「ねぇ、やり直したら見てくれる? だめなの。だめなの。私じゃなきゃだめなの。だから……」
ローズの追い詰められた様子に言葉が出ない。危機感だけが募る。
涙に潤んだ若葉の瞳はなぜだか慈愛を帯びていて、僕は混乱する。脳裏に響く危険警報。
――トウボウセヨトウボウセヨイノチヲマモレ――
そんな思考が脳裏を占めているのに僕はローズから目が放せない。
強気で強引。それでも優しい心を持つ少女。居場所をくれた。
僕は彼女に何をしたんだろう?
「やりなおそ?」
どこか、甘く優しい声音で囁きながらローズが迷いなく振り上げるの刃物は包丁より大きく、握りもしっかりしていた。たぶん、鉈?
「ローズ?」
やり直す?
振り下ろされる刃物は迷いがない。
がつりと背後の木に刺さる。
横薙ぎに刃が流れた。
衝撃に時間が止まったような錯覚を覚える。ぎこちなくローズを見る。僕ではなく勢いをつけて木に刺さった鉈を抜く作業中だった。
かなり深く刺さった鉈。かけられた力を思うと血の気が引くように感じた。
ぎっっと木の悲鳴が聞こえる。
僕は息を呑んで駆け出す。どこに逃れればいいのかもわからない。それでも館が、彼女が遠ざかる。
やり直す?
何をどうやってやり直すって言うんだ?
気がつけば追いつかれ、避け、逃げる。時折り避けそびれ血がしぶく。同じような背景風景。駆けてる視界に映るのは青空と木々の緑、そして潮の香り。海の青が空の青に混ざり始める。
「ね?」
いろんなものを斬りつけて薄汚れた鉈。微笑むローズ。
「ローズ」
「大丈夫。少しだけ。すぐまた忘れられるから。最初から、やり直そう」
ふわりと微笑むローズには悪意は見えない。それが怖くて仕方がない。
潮騒が、唄う海鳥がローズの言葉を所々かき消してゆく。
あれ?
ローズはいま、なんて、言った?
また?
またってなんのことだ?
砂に足が取られる。
振り下ろされる鉈。
必死に転がる。死にたくなんかない。痛いのは嫌いだ。
遠くに見える館は遠く小さい。
君が遠い。
立ち上がろうと腕に、手のひらに力を入れた。砂が動く。波に引かれる。視界が暗転し目を開ければ、水中。痛いより苦しいより、困惑。海底が見えない。沖に出ていた?
上下がわからない。溺れる?
死ぬ、のか?
きらめきが視界を掠める。
人魚?
白い手が僕に伸ばされる。