運命の日
「大丈夫なのか?」
「大丈夫よ!」
心配する僕に彼女はあっけらかんと笑う。
以前倒れたことなんか嘘のように。
「ごめんね。心配かけて……。でも、嬉しかった。手を、握って『大丈夫』って言い続けてくれて」
そっと上目遣いに言ってからぽぅっと頬を赤らめた彼女は僕から少し離れる。
はじめて会ったのは幼稚園の頃。半端に年上の彼女。倒れてしまった前回、僕は小学生。それ以来の再会で、僕は高校受験に向けて図書館通いの真っ只中。
彼女の姿は変わらない。
見下ろせば、不満そうに睨んで、それでも笑ってくれる。
「こわい?」
こわくないと断言できるかと言われればできない。それでも、僕は彼女は彼女だと思えていた。
だから、笑ってた。「なにがおかしいの!」と怒鳴る君が可愛くて、「かわいい」と伝えれば、真っ赤になって顔を背ける姿が可愛くて仕方なかった。
「だって怖がってどうするんだよ。こんなに小さい女の子をさ」
君は照れ臭そうに笑った。次第に晴れやかな笑いを経て、思えば笑いの発作のように止まらなくなりとうとう疲れ果てるまで二人で笑った。
プルタブを開けて渡した缶ジュース。慣れない動きの彼女を僕は見守る。
「ありがと」
君の声は小さくてそれでもちゃんと僕に届いた。
「ありがとう」
僕の返した言葉に君は微妙な表情。
「なにが?」
「久しぶりにココまで笑ったんだ。笑うことを忘れかけてたかも」
「ダメよ。笑うことも泣くことも怒ることも喜ぶことも、迷うことだって人が感じることのできる感情に不必要なものはないんだから、忘れちゃダメなの!」
必死にも見える言葉に僕は驚く。
何気ない言葉に反応する君がどういうわけか儚く思えて、名前を呼んで軽く抱きしめた。
「大丈夫。思い出させてくれたから」
その後は進路の話をしたり、将来の夢とか僕の話ばかり。君は自分のことをほとんど話さない。
「ミステリアスな女だわ」そういう口元にジュースの痕跡。また、髪に広げる気かな?
迎えに来たビーに彼女が駆け寄る。
「またね」と別れた。
次に会ったのは受験を終えたまだ寒い頃。
場所は病院。
姉さんの出産だった。
普段はそばにいないキャリアウーマン。
産まれた子供は泣かない子供。
未熟で産まれて誰かの力で生かされている。
小さくておもちゃのようだった。
「二人をとらず、一人を、あの子をとるの?」
姉の病室の前で、僕は動きを止める。
部屋から聞こえてきたのは彼女の声。
「……私が、選ぶことができる子はあの子だけよ。あの子を生かして……」
「そぅ。じゃあ、二人は私が連れていくわ」
「あの子が助かるならそっちはイラナイの」
会話は静かで、それでも、僕の心が冷え込むには充分で。立ち去るべきなのに足がすくんだ。
「盗み聞きは感心しませんね」
ビーに見咎められた。
僕は知らない。聞いていないフリで過ごした。姉の息子は泣かずに産まれたことが嘘のように元気に育っていく。仕事の忙しい姉は週末にこそ帰ってくるが育児は母任せだった。憂いなどないと言わんばかりに明るかった。
とあるニュースが世界に流れた。
噂だと信じない人が多かった。
真実は誰も知らない。
小さかった綻びは徐々に拡大していったのだ。
誰もが、綻びを知っていた。でも誰も真実を突き詰めなかった。もしくは、突き詰めなかった。突き止めた者は沈黙を守った。
だから、世間には恐慌だけが訪れた。
姉さんが笑っていた。
「私が選ぶのは、あの子なの。ごめんね。あの子に生きて、生き延びてほしいの」
姉さんのふりかざす刃物のむこうで彼女の表情が凍てついたのが見えた。