愚者が夢見
その男は狂っているのかと問われれば、是とも否とも答えるだろう。
男は確かに現世で生きてはいるが、その意識は夢と現の間にあるからだ。そんな曖昧な境界線上に意識をおいている男だが、ものによっては冷静な判断を下せることも間違いない。無論すでにこの現状を狂っているというのであれば、男は狂っているのだといえよう。
男は基本的にあまり眠らない。眠ることが好きではないからだ。ひいては夢を見ることが好きではない。大概昔の夢を見るからだ。それが気にいらない。
けれど一切の睡眠をとらずにいることも無理な話で、男は数日おきに4、5時間ほど寝る。夢など見たくもないと無意識に強く思いつつ、逆にその思いが原因で夢を見るだなんてまったく因果なことだ。
その日も男は稀な睡眠をとった。まだ日が昇らぬ仄暗い闇が残る時間に目が覚め、時計を見れば寝入ってから4時間といったところ。たった4時間というべきか、それとも4時間もと思うべきか。
そして案の定夢を見た。無論過去の夢だ。まだ故郷の村にいた頃、己の生涯をもって愛し抜くと誓うべきだった女が出てきた。それはとてもとても美しい女、春の女神と謳われたほどの女。妻になるはずだった女。
けれどその望みは結局叶わず、いつだったかその女が死んだということを聞いた。
その訃報を聞いても、男は絶望などしなかった。むしろそれは喜びとなった。己を捨てた罰が当たったのだと、一度たりとも忠告を聞かずにいた罰なのだと。なにより、もう自分ではない男を想うことも出来ないのだと笑いが止まらなかった。
己の手に入らぬのならば、いっそ誰の手にも届かぬところに逝ってくれたほうがよっぽどいい。それほどに彼女の死は、これ以上ないほどの安堵を男にもたらしてくれた。
――――…なのに、
その彼女が、生きていたなんて―――…。
はじめてみたときは驚いた。彼女そのものの顔立ちをしていたからだ。まるで生き写し。否、彼女が還ってきたのだ、そう思った。そうして封じていた記憶が呼び起こされ、夢と現の堺が曖昧になっていくのを感じた。
ただ夢の中の彼女と現実の彼女は髪と瞳の色が違っていた。現実の彼女は、己にとって憎しみの象徴でもある黒髪と瑠璃色の瞳だった。
黒と瑠璃はあの男の色だ。
簡単に人の物に手を出し、あっさりと捨てた男。
蘇ったのはどうにもならなかった愛情だけではなかった。何度殺してやっても足りないほどの憎悪も腹の底から顔を出す。相反する感情が揺さぶり合い、それが意外にも心地がいいものだと知った。
なぜならば、この感情を理解できない彼女はいつだって脅えた視線を寄こすから。あの時は何をしても何を話しても見向きもされなかったのに、今は違うのだと実感できる。それが堪らないほど快感だった。
男は現実の彼女の中に、夢で垣間見る彼女を見出す。男は今なお、夢の中。