会合 ― 続々・側室と淑女 ―
はじめはそれとない違和感だった。向けられる言葉や視線が、ふとした瞬間に淀むような違和感。気のせいだと思えば、それ以上感じるものはなかった。
『母がおかしい』と思い始めたのは、それからそう月日が経っていない頃。
最初は外へ遊びにいくことを咎められる程度だった。それでも遊びにいきたいといえば、早く帰ってこいと言われるものの遊びに行かせてもらえた。
けれどそんなことがしばらく続いた後、今度は遊びに行くこと自体を許してくれなくなった。どうしてダメなのかと問うたら、帰って来なくなるとのこと。当時はその意味を何度も考えたが、結局良く分からなかった。
ようやくこの状況がおかしいと確信したときにはもう、家からも出させてもらえなくなっていた。外に出してもらえないストレスから泣き叫んでみたが、まったく取り合ってもらえない。それどころか逆に、『捨てないで』『どうして私を置いていくの』と泣きつれた。
ならばこっそり外に行こうと画策したが、常時目を向けられているので上手くいくはずもなく。脱走に何度も失敗し、いよいよ部屋にカギをつけられて一切の外との接触が断たれた。
当時のレオナは7歳。まだまだ親に守られねば生きていけない子供。弱い子供。親に逆らうことなど出来ることもなく、与えられることしか許されなかった。
いつからか母はレオナをレオと呼ぶようになった。なぜそう呼ぶのかと問えば、あなたの名前はレオナルドでしょう、と返ってくる。違うといったところで、冗談ばかりねと笑われる。
母の中にはもう『レオナ』はいないのだと思った。自分はレオナルドという人間の代わりなのだと、幼心に悟ってしまった。
そうしてたまに思い出したようにレオナを腕に抱きしめて、母は金切り声で叫ぶ。
『レオ、レオ…、どこにも行かないわよね?』
『レオナルドはわたしの傍にずっといるのよ、離れてはいけないの』
『レオナルド、愛しているわ。こんなにもこんなにも愛しているのに、どうして?』
母に回された腕が力強すぎて痛かった。つんざくような声が耳の中を反響する。この現状を誰も助けてはくれない。それどころか誰かに何かを期待するなど、この閉塞感ばかりが目立つ生活にとっくに諦めていた。
辛いとか悲しいとか、そういった感情はすべてシャットアウト。それが唯一の自己防衛だった。
そして緩やかに穏やかに、母が少しずつ壊れていくのをただ眺め、耐えるしかなかった。
結局母親が死ぬまでの5年間、レオナはそんな軟禁状態での生活を余儀なくされた。母は村の人間に「レオはかかった病の後遺症で水泡が顔に残って家から出たがらない」と言っていたようで、誰も不審がることもなかった。
その母が亡くなったのは12のとき。
村一の美女といわれた母は、その死顔すら美しかった。血の気がなくなり生物とはいえなくなっていたが、無機質な彫刻のような美しさだった。
涙は出なかった。それどころかほっとした。これで自由になったのだと。
母から。
『レオナルド』から。
そして母も、『レオナルド』という人物から。
母の葬儀を済ませ、家の整理をしていたときに母の日記を見つけた。そこでようやく『レオナルド』という人物が自分の父であり、この国の王だったことを知った。
日記には捨てられたと書いてあったが、父のほうに何か事情があってのことかもしれない。
確かに一度たりとも会いに来なかったとはいえ、母が言葉通り狂うほど愛した人だ。娘としても母が亡くなったことを伝えるべきだろうと思った。
この後のレオナは修道院に引き取られることが決まっていたが、それまで少し時間が合ったこと、建国祭と時期が被っていたこともあり、父に会いに行くことにした。
フォレスタ最大の行事でもある建国祭では、当代も含めた歴代の国王らが王城に集まり、そのバルコニーから国民に挨拶をするしきたりがあるという。この村を出たことがなく、その程度の知識しかレオナはないものの、つまりは王城にいけば会えるチャンスはあるということは分かった。
先代とはいえ国王だった父。上手く会い話すことできるのだろうかと思ったが、偶然が偶然を呼び、王都について間もなく話す機会が設けられた。
建国祭中、父は王城ではなく王都に構えた己の屋敷で過ごしているらしい。
屋敷を訪れたレオナは執事に案内されるまま、あまりの広い屋敷に少しばかり心細くなりつつも、父と対面を果たすことができた。
初めて見る父は御年58歳。けれど到底そこまで年をとっているようには見えない若々しい容姿だった。村の男性らとは違い、土いじりなど一切したことがないといわんばかりの洗礼された物腰。線が細く、優雅な気品が滲みでている。そして自分と同じ黒い髪と瑠璃色の瞳を持っていた。
ずっと父親というものを知らずに生きてきたレオナだったが、父親像というものがなかったわけではない。どんな瞳で、どんな声で、娘の自分を見たり呼んだりしてくれるのだろうかと。きっと腕は母よりも太くて、しっかり抱き上げてくれるのだろうかと、思ったりしたこともあった。
けれど実際は想像とは全く違う、むしろ生きている世界そのものが違うと思わせられるほどの人物だった。
なにをどう話そうかと、思わずこくりと喉を鳴らしたレオナに、父が口を開く。
その姿同様、威厳と深みがある声色だった。そして無遠慮に寄こしてくる、あまり居心地がよくない視線。どこか満足そうだと思えなくもない。
『なかなかに見事な、美しい花だな』
初めてかけらた言葉は、反応に困るもの。
褒められている、のだろうか。どう判断すべきか戸惑うレオナに追撃。
『あと3年……、いや2年もすれば、今以上に他者を圧倒する華やかな娘になろう。どうだ娘よ、私の屋敷に咲く花の一つにならんか?』
『……え?』
『大事に囲ってやろうぞ』
それはつまり、妾にならないかという誘い。実の娘だとも知らず、どこか誘うような視線を向けてくる父親には、さすがに言葉も色も失った。
どうやら父は、母のことをまったく覚えていないようだ。髪や瞳の色こそ、目の前の男のそれを受け継いではいるが、顔立ちは母と瓜二つなレオナになんの感慨も示さないのが証拠だろう。
これが母が想い続けていた男。
娘を身代りにしてまで、あらん限りの愛情を注ぎたかった相手。
5年間、あんなにも縛り上げられていた原因。
そして己の父親。
ぐらりと一気に足元が崩れ落ちていくような感覚に、眩暈さえ覚える。絶望にも似た怒りが、ふつふつと蓄積されていく。
それは今なおレオナの腹の奥深くに潜み、しこりとなった。
当時を鮮明に思い出せば、レオナは膝の上に置かれていた手が無意識に拳を作った。
父が寄こした視線も言葉も、思い出すだけで吐き気がする。こんなにも鮮明に覚えているあたり、まだ父を許す気はならないようだ。
「だから、お父様が嫌いだったのね」
「…はい」
「そのお父様が王族だったから、王族も嫌っているのね」
「………はい」
父が王族だったから、王族を嫌った。子供じみた分別の方法に、リリィは何も言わないでいてくれる。それだけ当時のレオナが切羽詰まっていたのだと、感じ取ってくれたのだろうか。
無論この気持ちが逆恨みだと、理解できていない訳ではない。ただそれはレオナの中でしっかりと芽吹き、6年という歳月で取り除けないほどの根を張られてしまっている。
どうにかしたいのに、どうにもできない。父を憎みながらずっと生きてきたレオナにとって、そうそう切り離せる感情でもなのだ。気持ちを吐き出すことも得意ではなく、どん詰まりの感情は蓄積されていくしかなかった。
「もちろんクライスト陛下とレオナルド陛下が別人だということは分かっています。きちんと、分かっているんです。………分かっている、はずなんです」
「人は理解できたとしても、そのまま納得できるでもないわ。それだけ許せないと思うほど、レオナは辛かったのでしょう? ずっとずっと苦しかったのよね」
言葉もなくゆっくりと頷くレオナの頬に、大粒の涙が滑り落ちた。