噂の代償⑤
まもなく日が落ちる。
あちこちの大窓から入る夕陽で真っ赤に染め上げられた城内は、どこか切なさすら感じられる。
明るく楽しい時間は終わり、これから冷たく静かな夜がくるのだといわれているようだ。
夜は嫌いだ、暗いから。
暗いのは嫌いだ、幼い頃を思い出すから。
幼い頃は嫌いだ、誰にも愛してもらえなかったから。
誰もいない静かな空中廊下で対峙する、長く伸びた2人の影。レオナとゼルフだ。
浴びる夕陽でお互い頬を赤く染めているが、どうにも色っぽい雰囲気とはいえない。
むしろ漂う空気が硬すぎて、どこか異常にすら感じられる。
にこやかなゼルフとは対照的に、レオナの表情が脅えきっているのが原因か。
そのゼルフが口を開く。
「あの一件は私の独断でして、それを宰相殿に素直に報告したらお叱りを受けちゃったんですよね。罰と称して半年間地方に飛ばされていたわけなんですが、明後日からこっち勤めに復帰予定でして」
「………」
「宰相殿も可哀そうな方です。私などに頼んだばかりに、想定外の良心の呵責に苛まれているのですからねえ」
あの一件とは間違いなく修道院のことだ。
まるで悪戯がバレてしまったというくらいの軽さでゼルフは告白したが、ことの大きさはそんなものではない。
無論彼だって承知しているはずだろうに、なぜ笑えるのだろうか。
彼のやってのけた行為は、極刑は逃れられない大罪だ。
「なのでこれからまた顔を合わせることもあるでしょうけれど、そのときはどうぞよろしくお願いします」
「……よくも、そのようなことを言えますね」
「絶望にくれるレオナ様を見るためならば、私は何でもしますよ」
にこやかにゼルフはいってのけると、これから宰相殿と約束がありますからと立ち去って行った。
残されたレオナは、ただ愕然とする。
ずっと堪えていた震えが全身にまで回って、立っているのがやっとだ。
胸の前で腕を交差させて、自らの体を抱きしめる。
あのゼルフが王都勤務に戻るという。
つまりは前よりよっぽど、彼と遭遇する確率が高くなるということだ。
ただでさえ今は王妃問題が上がっていて心に余裕がない時期に、あろうことかゼルフの帰還と重なるなんて。
それにあの目とあの言葉。
なにを考えて愛を語ったのかは知らないが、その瞬間恐ろしいほど母親に似ていると感じた。
姿見はまったくの別人なのに、寄こす視線が同じなのだと気がついてしまった。
『レオ、レオ…、どこにも行かないわよね?』
『レオはわたしの傍にずっといるのよ、離れてはいけないの』
『レオ、愛しているわ。こんなにもこんなにも愛しているのに、どうして?』
レオナにたっぷりと愛情を注いだ母。
けれど一度たりとも本当の意味でレオナを愛してはくれなかった母。
母親の存在もまた、レオナの心の闇の一つなのだ。
その母にゼルフが似ているなど、まったく笑えない冗談だというのに。
「……最悪、ね」
一寸先も見えぬ不安にレオナは俯き唇を噛んだら、急に目元に熱が籠る。
握りしめた拳で目頭を強く抑えるが、零れた涙は止まらなかった。
こみ上げる嗚咽を必死に我慢するものの、どうにもうまくいかない。
泣きたくなどなかった。
あの男の思惑通りになるなど虫唾が走る。
けれどいつまでも止まらぬ涙はレオナの弱さそのもので、弱い自分に対して嘆いてしまう。
無論それこそゼルフの望み通りなどとは分かっても、だ。
彼に与えられた負の螺旋は、そうそうレオナを開放してなどくれないようだった。
「まあ、貴女どうしたの? 気分でもお悪い?」
嗚咽を堪えることに必死だったレオナは、背後に人が近寄ってきたことにも気がつかなかった。
柔らかいこの声色は間違いなく女性だろう。
失礼だとわかっていながらも、涙にぬれた顔など誰にも見せたくないレオナは俯いたまま答える。
「いいえ、大丈夫です。心配には及びません」
「そんな声で大丈夫だなんていうものじゃないわ。こっちにいらっしゃいな、ここは少し冷えるわ」
「いえ、本当に…」
渋るレオナの手を女性が柔らかく包み込む。
思いがけない温かさにレオナが顔を上げると、優しい雰囲気をまとわせた女性と目が合った。
品よくまとめられたプラチナブロンドに菫色の瞳、笑った顔がとても可愛らしい。
年のころは40過ぎたくらいだろうか。
「さ、いきましょう」
ぎゅうっと握られた手がなんとも温かくて、温かくて。
向けられた笑顔も太陽のように眩しくて。
どうにもこの手を振り払えそうにないと、すっかり心が弱っていたレオナは初対面の女性の申し出に素直に頷いてしまうのだった。