噂される以前の彼女⑩
鳥の声と窓から入ってくる朝日で、レオナは目を覚ました。
滑らかなシーツの感覚で、自分は今ベッドの上にいるのだと認識する。
「………」
ベッド?
現状になんだか違和感を感じる。
昨日はベッドに入った記憶がないからだ。
そもそも昨日は………。
思い出して、レオナはっととする。
途端に体の芯が震え上がった。
反射的にレオナは両サイドに視線を走らせてみたが誰もいない。
安堵感にほっとしたのもつかの間、起きようと上掛けを捲ったレオナは、そのまま凍りついた。
太ももが接していた辺りのシーツに、零れた血の跡があったのだ。
すでに乾いているらしく、少し黒ずんでいる。
恐る恐る改めて自らの太ももに視線をやれば、やはり掠れたような血が付いていた。
もはや言葉は出なかった。
ただ目を見開き、不規則な呼吸を繰り返す。
…この血は、つまり。
神にささげたはずの純潔の証、なのだろう。
目の前が黒く塗り潰されていく気がする。
突きつけられた現実に眩暈さえ覚える。
息が詰まって吐き気がする。
いずれこうなると、無論レオナとて心のどこかでは思っていた。
側室のままで乙女を貫けるなどとは思ってもいなかった。
いつかは失うのだと、入城してからは毎晩脅えていたのだから。
けれどそう、あくまでも『いつか』。
実際は『いつか』は『いつか』だと思い、レオナはただ逃げていただけだった。
だから昨日国王が来ると聞いて、起こるであろう行為から目を背くために、レオナは眠り薬を飲んだ。
とても意識があっては受け入れられぬと、ただその場を逃げ出したくてのレオナの策は所詮浅知恵だった。
こうして目の前に現実を突きつけられれば、一時の逃避など意味はなかったのだとよく分かる。
ほろりと、一粒涙が零れた。
一度溢れてしまったら最後と、次から次へと零れてくる。
次第に嗚咽がひどくなって、呼吸が荒くなる。
誰もいないと分かっているのに、誰にも泣いているところを見られたくないと膝を抱えて声を押し殺す。
こみ上げてくる嗚咽が、必死に噛む唇の隙間から漏れる。
急に自分の存在がちっぽけなものになったのだと感じてしまった。
昨日までの自分が否定されたような、そんな絶望感。
生娘でいることが神との最後の繋がりであり、レオナにとっての自身に対する最後の価値だったのに。
膝を抱える腕に力がこもる。
神様、院長様…。
……おかあさん。
レオナの涙は増すばかりだった。
呼吸が上手く出来ない。
苦しい、苦しい、苦しい。
…誰か。
誰でもいいから、誰か。
「………助けて…」
誰にも届かぬ小さな言葉は、静かな朝の空気に吸い込まれていった。
まもなく起床の時間だと侍女のアリーチェがやってくるのだが、レオナの憔悴ぶりに驚くことは間違いないだろう。
そんな少し仲良くなりかけていたアリーチェが、レオナ付きの侍女を外されるのはこの2日後のことだった。
フォレスタ国の側室になったものは、国王のからの渡りが3年間なければ故郷に戻ることができる。
ならばとレオナは、手っ取り早く国王の興味を引かない女になればいいと思った。
寡黙な国王はやはり、大人しく貞淑な知性溢れる女性が好みだと噂されていたので、それに反する態度を取ればいいと思った。
必要以上に着飾って化粧をして、誰でも彼でもかまわずに無駄に愛想を振りまく。
少し政治の絡んだ話になれば、首を傾げる仕草で誤魔化した。
もう自分の価値が見出せなくなっていたことあって、王城の人間から向けられるどんな視線も気にならなかった。
他の側室から身を守るためにも、これは効果的だった。
もともとレオナは唯一直系の血を引く側室だったこともあり、その事実だけの推薦だったとはいえやはり大きかった。
入城当初は隠れた嫌がらせもあってうんざりしたが、やがてただの着飾り側室といわれる存在になれた。
もう味方などいらない。否、つくらない。
盾に取られて身動きが取れぬなどたくさんだ。
大事なものを傷つけたくないなら、初めから大事なものなど作らなければいい。
そもそも他者を巻き込んでまで逃げるほど、自分には価値はない。
けれど王族の伴侶として王城にいるのもまっぴらだった。
ここは自由などない牢獄だと思ったら、ほんの少しだけ気が楽になった。
こうしてレオナは【噂の側室】としての仮面を被ることになり果てる。
他者を傷つけられることを恐れ、なによりその行為で自らが傷つくことを恐れた愚かで哀れな女が選んだ道。
着飾る云々はないとして、おつむの弱いというのはあながち見当はずれではない噂だと、のちの彼女は笑うのだった。