噂される以前の彼女⑨
どうしよう、どうしよう。
背中に冷や汗が何度も走るのをレオナは感じていた。
彼女の視線の先にいるのは、突っ立ったままの国王クライストだ。
少し赤みがかった黄金の瞳が、淡々とレオナを見定めている。
「……あの」
「体調はいかがか?」
絞り出すようなレオナの言葉を奪うかのように、クライストが口を開いた。
静かな雰囲気そのままの、呟くように問われた言葉。
低い深みのある声は、しかしよく通る。
「あ、はい。まだ本調子とはいかないまでも、少しずつ回復しております」
「…そうか」
「ご心配いただき、ありがとうございます」
やはり寡黙な国王という噂は、間違いではないらしい。
実際クライストが返した返事では、会話が続くわけもない。
けれど会話の主導権を握られている気がするのはやはり、人の上に立ちまとめ上げることに慣れているせいなのだろう。
ゼルフとはまったく違う独特の静かな雰囲気を纏っているというのに、どうにもレオナは緊張の糸が解けないでいた。
すでに正式な側室になってしまっていて拒むことなど出来るはずもないが、その心だけはまだ異性を受け入れたくないと思ってしまうのだ。
本心を明かせば、今すぐ逃げ出してしまいたいと思っている。
けれどそれは許されないとしっているから、せめてクライストが来る前に考えた浅知恵の効果を今か今かと願うだけだ。
震えが止まらぬ体を叱咤して、レオナはいまだに突っ立ったままのクライストに笑顔を向けた。
「陛下、よろしければお座りになってください。お茶をお淹れします」
「……ああ」
飾棚の隣に置いてあるワゴンには、ティーセットが乗せられた盆が置いてある。
紅茶好きのレオナにと、常時アリーチェが用意してくれているものだ。
その盆を持ち上げた瞬間、レオナは軽い眩暈にも似た眠気に襲われた。
手から盆が滑り落ち、乗っていたティーセットが派手に音を立てた。
幸いワゴンの上に落ちてくれたおかげで、なにも割れずに済む。
音に反応したらしいクライストの視線を感じて振り返れば、やはり彼と目が合った。
立ち上がったクライストを見て、レオナは慌てて頭を下げる。
「大変失礼いたしました」
「……」
「どうぞお座りになってください」
一際大きな眠気の波がレオナを飲み込む。
一瞬意識が飛んだレオナの体が傾いた。膝をつき、揺らぐ視線に顔をしかめる。
思いのほか浅知恵の効果が早かったようだ。
直後伸びてきた腕にレオナの体は掬い上げられ、思わず小さな悲鳴を上げた。
「ひぃっ…」
顔を上げれば、目の前にクライストの顔。
異性にここまで近づかれたことなどないレオナは、あからさまに脅えた表情を貼り付ける。
けれどそんなレオナなどお構いなしだといわんばかりのクライストは、そのまま彼女を横抱きにしてしまった。
レオナは全身を硬直させるが、その反面強い眠気に襲われて体から力が抜けていくのも感じている。
耐えがたい眠気に閉じかけた目が最後に写したものは、寝室へと続くドアを開けるクライストだった。
一人ベッドで眠っているレオナを前に、クライストは腕を組んで考える。
眠る彼女は4日前にやってきた、自分の6人目の側室だ。
もともと修道女だったらしいが、城からの使者の熱い説得に納得しやってきたのだと報告を受けている。
他の5人の側室らとは違い、レオナは当初まったく乗る気ではなかったらしい。
正式に顔を合わせたのは今日がはじめてで、緩く波打つ黒髪と瑠璃色の瞳が印象的な女性だった。
自分を見て非常に脅えた顔をして迎え入れた彼女は、男慣れをしていない修道女そのもの。
規律の強い中生きてきた彼女だからこそ、育った環境から早々に抜けだすことは困難なのだろう。
けれど今目の前で眠っている彼女はどうだろうか。
穏やかそうな寝息を立てて、緩く結われた黒髪をベッドに散らす姿などずいぶん扇情的だ。
堪らずレオナの細い首に、クライストが唇を寄せる。
鮮やかなローズオイルと、一瞬感じられた対象的なカモミールの落ち着いた香りが鼻をくすぐる。
ぐっすり眠っているようで、舌先で舐めてみてもレオナはぴくりとも動かなかった。
その無防備過ぎる姿に、クライストの理性が少しだけ緩んでしまう。
まもなくレオナの柔らかい首筋に小さな赤い花が咲いた。
意識のない相手にやる行為ではないと良心が諌めるが、もう一度だけ味わいたくて今度は胸元に唇を落とした。
「ッ……」
くすぐったかったのか、さすがにレオナが身じろぎをする。
けれどまだ目は覚ましていないらしい。
まもなく彼女はまた静かな寝息をたて始めた。
ふつふつと沸き上がる本能に逆らうべきか否か。
さて、一体どうしたものか。