噂される以前の彼女⑧
側室として城に上がって、4日目の朝。
大きな窓から差し込む朝日に、レオナはゆっくりと目を覚ます。
白いカーテンが、光を浴びて眩しく輝いていた。
起きてまもなく、のそりとレオナは体を起こしてみる。
まだまだ気だるさは残っているが、意識はかなりはっきりとしている。
昨日から続いていた、ひどい頭痛もないようだ。
実に4日ぶりのまともな睡眠は、連日の疲労をずいぶん取り払ってくれたようだった。
というのも城に上がってから、その生活に慣れず、無意識に緊張の糸をはり続けていたせいで、レオナは睡眠障害に悩まされていた。
食事もあまり喉を通らず、それでも毎日マナーやダンスレッスン、ドレスの採寸などに追われた続けたレオナは、いよいよ眠り薬を渡されるまでになっていた。
それを昨晩はじめて服用したわけなのだが、その効果は絶大だった。
飲んで30分もせずに眠りにつき、幾分陽が昇っても目が覚めなかったほどだ。
やはり朝の少し冷たい空気は気持ちがいいと、レオナは体を伸ばし満喫していた。
無論まだこのことが予期せぬ方向に転がるなど、彼女はまだ知らなかった。
それは夕食を終え、ひと段落していたときのこと。
片づけを済ませたアリーチェが、いつもより早く湯浴みの支度をしている。
浴槽にローズオイルを垂らしたようで、レオナのいる隣の居間にまでその匂いが届く。
時計を見ればいつもより2時間も早い。
首をかしげるばかりのレオナに、バスルームから戻ってきたアリーチェがやはり湯浴みを促してきた。
用意してもらった身としては逆らう必要などどこにもなく、レオナは素直にバスルームに続く脱衣所に向かった。
アリーチェによって手早くドレスを脱がされ、ローズオイルが染みている浴槽にレオナは体を沈める。
髪を洗われる心地よさに目を閉じていたが、しばらくして感じていた疑問を口に出した。
「今日の湯浴みは随分と時間が早いようですけれど、この後なにかあるのでしょうか」
「はい、今宵陛下がレオナ様のもとに足をお運びになるとの達しがございました」
「え?」
「ですから早めのお支度とさせていただいております」
アリーチェの言葉に、レオナは一気に血の気が引くのを感じた。
温かい浴槽にいるはずなのに、頭から冷水を浴びせられたかのように体が冷える。
「本日のレオナ様の体調は安定しているとお聞きなさった陛下がご希望されたそうです」
「………」
久方ぶりの睡眠は蓄積していた疲れを多少取り除いてくれたが、まさかそれ以上の苦痛が返ってくるなど誰が思うだろうか。
こんなことになるのならば、薬など飲まなければよかったとレオナは激しく後悔する。
けれどその一方で、側室と上がったからには逃れられないことなのだとも絶望していた。
いずれそのときは必ずくると、理解はしていたつもりだ。
神に捧げた純潔を、夫である国王に捧げなくてはならないときがくるのだと。
ただそれが予想以上に早過ぎた。
まだレオナの心は、神に捧げられたままだ。
他人を受け入れる余裕など、受け入れる場所などまだない。
動揺したままのレオナの支度は、それでもアリーチェによって手際良く済まされていった。
滑らかなシルクのネグリジェを着せられ、温かなカーディガンを肩にかけられる。
薄い化粧を施され、腰まで伸びている黒髪は軽く編み編み込まれた。
やがてその支度も済むと、アリーチェは部屋の入口まで行きレオナに頭を下げた。
「それでは、本日のところは下がります」
「え…っ」
「また明日の朝、起床のお時間に」
思わずレオナがドレッサーの椅子から立ち上がったが、アリーチェは早々に部屋を出て行ってしまった。
止める間もなく扉が閉まる音を、レオナは半ば呆然と聞いていた。
一人部屋に残されれば、沸き上がる不安や恐怖や脅えが、一気に彼女に襲いかかってくる。
未知の恐怖にすっかり飲み込まれてしまったレオナは、再び崩れるようにドレッサーの椅子に座り込んでしまった。
ふと鏡越しに飾棚が目に入る。
それは見事な細工が施された、アンティーク調の飾棚。
…そうだ。
あの棚には…。
レオナの脳裏をかすめたのは、馬鹿げた一つの策だった。
それでもこれにしか縋るものがないと、レオナは足を引きずるように飾棚まで移動する。
一番上の引き出しを引く。
そこには手のひらサイズの白い紙袋がしまわれていた。
部屋のノックにレオナは顔を上げ、手にしていた水の入ったグラスをテーブルに置く。
そういえば逆の手で握っていたものをまだ捨てていなかったと立ち上がり、慌てて傍のゴミ箱に投げ入れる。
それは丸めこまれた薄い紙だった。
その間にもう一度ドアをノックされて、レオナはようやく震える声で返事を返す。
やがて扉が開けられ、彼女は脅えた視線を開いた扉に走らせた。
頭を下げたメイド頭の隣にいる、背の高い男性と目が合う。
ランプの光を吸いこんだような、少し赤みを帯びた黄金の瞳だった。
少し不躾とも思われるレオナの視線に、とくに表情もなく淡々と見返している。
短めに切られた亜麻色の髪が、男性的な精悍な顔立ちにはよく似合っている。
品のいい衣服をまとっているこの男性が、これから自分が仕える国王なのだと思った。
途端ぞくりと、レオナの体が冷え込む。
それは彼から発せられる国王としての並みならぬ威厳なのか、それとも本能的に感じる純粋に異性に対する畏怖なのか、レオナにはよく分からない。
脅えるレオナをよそに、国王が部屋に一歩足を踏み込む。
誰もが一切話さないこの沈黙の中では、踏みしめられた絨毯の音すら鮮明に聞こえた。
「それでは陛下、ごゆるりとお過ごしください」
メイド頭によって扉が閉められる。
部屋に残ったのは立ち竦んだままのレオナと、そんな彼女を見る国王だけ。
膨らんでいく恐怖心を握りつぶすように、レオナは衣服の裾をきつく握りしめた。
「ようこそ…お越しくださいました、陛下。お待ち申しあげ、て…おりました」
あちこち震えた声は、そのままのレオナの心情を表わしているようだった。
国王に対する恐怖と、そんな情けない自分を叱咤する2つの感情が入り乱れている。
一度大きく息を吐いてから、レオナは再度唇に言葉を乗せる。
「先日陛下の側室として入城させていただきました、レオナ・フライトと申します。なにとぞ宜しくお願い申しあげます」
震える膝をなんとか抑え込んで、レオナはこの連日で仕込まれた優雅なお辞儀をしてみせた。