噂される以前の彼女④
生活必要品しか持ち合わせていなかったレオナの荷造りは、話が決まってからほんの1時間もせぬうちに済んでしまった。
たったトランク2個分の手荷物しかない修道女が、これから側室として王城に上がるというのだから世の中わからない。
一応着替えとしてドレスもお持ちしてますが?とゼルフに問われたが、もちろんレオナは突っぱねた。
今着ている服はいつもと同じ、修道衣として支給されいる黒のワンピースだ。
頭から被ったベールは、腰辺りまで滑らかに垂れている。
修道女でいることが、買われることを受け入れるしかなかったレオナの最後の誇りだった。
ゼルフによって、修道院の外に止まっている馬車にレオナのトランクが運び込まれる。
けれどたった2つだけだ、それこそ瞬く間に終わった。
そして他の修道女たちに挨拶をする時間もなく、レオナも馬車に乗せられる。
院長にはすでに話を済ませてあるから心配はいらないと、ゼルフは言った。
向かいの席に彼が座ると、馬車は緩やかに走り出した。
そういえば、出迎えたときゼルフの背後にいた2人の男はどうしたのだろう。
そうレオナは思ったものの、いちいちゼルフに問うのも躊躇われる。
…まあ、気にかけるほどでもないだろうと思い直すことにした。
レオナがぼんやりと窓の外を眺めて始めてから、さほど時間は経っていなかったと思う。
揺れる馬車の中、ふと感じる違和感にレオナは眉根を寄せる。
焦げくさい、そう思った。
それから火のはぜるような、そんな音。
同乗しているゼルフは何の反応を示さないところから、最初は気のせいだと思った。
けれどいつまで経っても音は止まず、むしろ大きくなっているとレオナは気がついた。
そして突然、閃いてしまった悪い予感。
途端にレオナの手が、震えだした。
それは全身に広がって、止まらない震えに歯が鳴る。
もう一度、レオナはゼルフを見た。
今度は少しばかり口の端が持ち上がっているようだ。
その様子にレオナは確信してしまった。
しっかりと閉じられていた窓を開け、身を乗り出す。
走ってきた方向に目をやれば、レオナの呼吸が止まった。
当たってしまった予感に眩暈を覚える。
それは、空を焼きつくさんばかりの炎だった。
黒煙が立ち上り、業火の中で揺らめく建物の影。
はぜる合間に聞こえてくる、女たちのか細い悲鳴。
「どうして…」
レオナは眼前の光景が信じられない。
まさしく唯一の居場所だった修道院が、中にいたであろう修道女もろとも、燃え盛る炎に飲み込まれていた。
窓枠を掴む両の手に力が入り、やがて爪にひびが入って出血したが、痛みなど感じなかった。
……よくも。
レオナは溢れていた涙を拭い、車内に視線を戻した。
のうのうと向かいに座った仇であろう男に、一矢報いようと左手を大きく振りかざす。
そのまま勢いを乗せて振り下げたが、寸前に手首を掴まれてしまった。
ゼルフと目が合う。
やはり穏やかな笑顔を貼り付けている。
それがどれほど相手の怒りに油を注ぐ行為だと、彼は知っているのだろうか。
「すみません、痛いのは苦手なんです」
「城に上がりさえすれば、よかったのではありませんか! なぜ修道院を!」
「心残りは少ないほうが良いかと、配慮したのがだいたいの理由ですかね」
「ぬけぬけと…!」
激しいレオナの怒りなどなんのその。
ゼルフにとって憤ったレオナなど、子猫が爪を立てているのと同じくらいなのだろう。
実際、「ああ、そうそう」と続けたゼルフの口調は軽い。
「城につくまでの6日間、逃げ出そうだなんて思わないでくださいね。もし逃げようものなら、今度は村を焼き払います。修道院の一件で脅しではないと、ご理解いただけているかと思います。お優しい修道女様には耐えきれぬ所業でしょう?」
「……このっ、人でなし!」
「なんとでも。まあ、円滑に貴女を城に届けるための布石と思ってくだされば。私はただ楽に仕事をしたいタイプなんです」
「信用しろと!? 現に修道院に火を放ったのはどなたです!」
「レオナ様はまだ、ご自分の立場を分かっていらっしゃらないようだ。受け身になる他、許されていないのですよ」
ゼルフがようやくレオナの手を離す。
思いのほか強く握られていたようで、レオナの手首にはくっきりと手形が残っていた。
無能で力もない手だと、レオナはただ腹が立つ。
この体には本当に、誰かに望まれるほどの優秀な王族の血が流れているのだろうか。
先々代の王はとくに、秀でた才能で国をまとめ上げていたと聞く。
けれど実際は男一人にも抗えぬ、役に立たぬ血ではないか。
誰にぶつけたらいいか分からない怒りは、レオナを修道院から連れ出す原因となった己の血に向けられた。