噂される以前の彼女①
すべてのはじまりはそう、間違いなく7ヶ月前。
何気ないダリルとの会話が、こうなる事態を予想できた最初で最後のことだったと思う。
あのとき、もう少し思慮すればよかったのだ。
後悔は止まらない。
けれど身勝手ながら今は、そうならなくてよかったと思う自分もどこかにいる。
クライストにとってレオナが、心のうちに潜むもう一人の自分なのだと気づいてしまったからだ。
それは渇望する自由を象徴するものであり、閉塞に苦しむ象徴であり。
宿命に打ちのめされるひ弱さでもあった。
――――――7ヶ月前。
まもなく日が落ちる。
熟れた果実のような夕日が、王城の最上階に位置する国王の執務室を赤く染め上げている。
室内には二つの人影。
国王であるクライストと、国務大臣のダリルだった。
本日の業務をすでに終了しているダリルとは違い、クライストはせっせと寄せられている報告書らと向かい合い、十分に考慮しつつサインと国印を繰り返している。
必要最低限の業務はクライストとて終わらせているが、よりよい国作りのためにはいくら時間があっても足りないのだ。
そんなクライストをよそに、ダリルは本来応接用の向かい合わせに置かれているソファーにどっかり座り、手にしていた書類に目をやっていた。
ところどころに美しい娘たちの写真が挟み込まれている。
「侯爵家のファルマ嬢とリディル嬢、お――…男爵家のセリア嬢もか。さすが国王陛下様、集まる女も一級品だ」
「何の話だ?」
クライストは確認している書類から目を離さず、淡々と問う。
「何のって…、おまえの側室候補」
「…ああ、宰相が勝手に話を進めているやつか」
「まるで他人事だな、淡白な反応なこって」
「私自ら望んだことではないしな」
相変わらずクライストは一瞥すら寄こさない。
側室のことより、手元の書類のほうが大事なようだ。
そんなんじゃ側室たちのほうから愛想尽かされるなと、容易い想像にダリルは静かに笑い、さらにページを進める。
さすがに側室候補とあり、どの娘たちも綺麗に着飾った写真ばかりだった。
鮮やかなドレスをまとい、品のいい宝石をつけて、それでいて淑やかそうな笑顔を貼り付けている。
そんな華のような候補に囲まれた、黒い娘が一人。
飾りっけのない黒い服を着込み、土いじりをしている写真が一枚だけの彼女。
「お、一人毛色の違う娘が混じってるな」
「…そうか」
「修道女だな、この娘」
「修道女?」
さすがに書類に走らせる手を止めて、クライストは視線を上げた。
この国で修道士や修道女とは、清貧・貞潔・服従を掲げた生活をしている者たちを指す。
また姻戚にしばられることはなく、彼らは異性と婚姻関係を結ばないのも特徴だ。
とくに婚姻については、『本人が望まねば、何人も穢すこと許さず』と法律でも定められている。
なのに国王の伴侶候補とはいえ、名が挙がっているという。
「なぜその修道女が選ばれた?」
「ん――…ああ、血筋だな」
「血筋?」
「先々代のじーさんが生ませた子らしい。母親は村娘らしいな」
「…なるほど」
けれどもとより無欲な彼らだ、向こうからこの話は蹴ってくるだろう。
法で守られていることもあり堂々と拒否しても問題ない、気にすることはないだろう。
そう思ってクライストは書類に視線を戻す。
その日も変わらない一日が終わろうとしていた。
その1ヶ月後、クライストの判断は外れ、その修道女は王城に上がることになる。
あっさりと修道の道を捨て、側室としてやってきたといわれた彼女が、あの噂まみれの【側室レオナ・フライト】になり果てるのはそう遠くない未来のこと。