動き始める噂―――…の少し前
王城の最上階、そこに現国王の執務室がある。
石作りの壁はそのままむき出しで、床には隙間なく真っ赤な絨毯が敷かれている。
国王が使う机は、黒曜石でわざわざ作られた特注品。
その机の上には束になった書類の山が、小さな山脈を作っていた。
「おーい、陛下。フォレスタ国王陛下。…聞いてんのか、クライスト」
処理をしても一向に減らない書類から、しばし現実逃避をして夕日を眺めていたら、砕けた口調で名前を呼ばれた。
声の方向に視線をやれば、毎日顔を合わせている男と目が合う。
自分と同じ亜麻色の髪の男、名はダリルという。
クライストの腹違いの弟であり、国務大臣であり、2年前まで王位継承権を持っていた王子。
『持っていた』と過去形なのは、ダリル自らが放棄したせいだ。
曰く、「人の上に立つより、他人を支えるほうが性に合っている」だそうだ。
国王のクライストを敬称なしで呼べるほど――無論2人のときだけだが――、彼ら兄弟の仲はいい。
「…ああ、すまない。なんの話だったか…」
「今日の夜会のことだ。例の話、そこで公にするんだろ?」
「例の話…?」
「ほら、王妃云々のあれだ」
「…ああ、その話か。そのつもりだ」
少しぼんやりとしたクライストの反応に、ダリルは大げさに溜息をつく。
「なんだよー、そんなんで大丈夫なのか? ずいぶん疲れてるんじゃねえの?」
「ここのところ書類整理が忙しくてな、一昨日からほとんど寝てない」
「うへえ…、さすが国を治める国王様。ハードなことで」
「多少の無理も国王の義務だ」
「ほんと根っからのクソ真面目だよなー、クライストは」
「真面目…か」
真面目、なのだろうか。
物心ついたときから国王になるのだと周囲に言われ、国王としてあるべき態度を叩きこまれ、国王としてのあるべき学を身につけさせられただけだ、と思う。
周囲の期待に黙って応えることが真面目だというのならば、自分は真面目なのかもしれない。
無論この生活に息苦しさを感じることもある。
無性に自由を渇望するときだってある。
だけどすべてを放り投げる覚悟もないだけだ。
ダリルは自分のなにを見て、真面目だといったのだろう。
うーん…といよいよ首をひねって考え始めたクライストに、「そういうとこが真面目だっていってんだ」とダリルが笑った。