第三話 モノクロームな風景 二
ついに秋子と母が対面をする。母の過去と秋子の旅の秘密が明らかになる。
あの夏の出来事が過ぎてから半年が経った。季節は冬真只中。京都独特の底冷えに、幸一はうんざりとする毎日を過ごしていた。
彼の部屋は賀茂川沿いにあるので、夏は涼しいが冬は極寒の川風が窓を冷やし、部屋は冷蔵庫に近い状態になる。だが、今はカーテンを付けたお陰で随分ましになった。カーテンに断熱効果があることを知らなかった幸一は、秋子に笑われて初めてそのことを知った。
二月の初旬に秋子から連絡があり、母と話す場を設けて欲しいと頼まれた。早速段取りをつけて、母が川端三条辺りの旅館に部屋をとり、そこで話すことになった。
幸一が秋子を連れて旅館の部屋に入った。まず秋子が謝り、母が健康のことを尋ねて話が始まった。互いの近況報告が終わった後、しばらくの沈黙があった。
三人ともが予測していたことだが、秋子が元どおりの生活に戻るには、どうしても母の若い頃の出来事を明確にする以外に解決策は無さそうだ。そしてそのことを母も覚悟し、秋子も期待している。
「本当のことを話して欲しいの」
思い切ったように秋子が口火を切る。このタイミングで幸一は席を外そうとした。しかし、秋子が引き止めた。幸一は他人である自分が聞く内容ではないと断ったが、なぜだか秋子が切望し、母も許諾したため、彼は秋子と一緒に母の過去を聞くことになった。
今から約二十年前、真理と秋子の母、旧姓西原佐和子は当時祇園にあった『クラブすみれ』と言う高級クラブで働いていた。秋子の部屋で見つけた古いマッチに記されていた店の名である。
森修二は、当時小さな建設会社を経営していた。ある夜、接待で『クラブすみれ』を訪れ、接客に付いた佐和子に一目惚れした。森はこの頃経済的に余裕があった。佐和子は二十一歳、森は三十三歳で独身。年齢的にも十分恋愛関係を望める範疇だった。
佐和子には多額の借金があった。佐和子の父親は小さな機械製作工場を営んでいたが、佐和子が中学生三年の頃、大手得意先の不渡り手形が原因で、会社の清算を余儀なくされた。そして多額の負債が残る中、無責任にも父親は失踪してしまった。会社の資産はすべて処分したが、それでも足りない分は、長い取引関係のあった信用金庫の温情的な措置で、自宅を抵当に入れて何とか借り受けることができた。しかしその返済計画はかなり厳しいものだった。
まだ中学生だった佐和子は、卒業とともに昔からの情景も手伝って芸妓になる道を選んだ。置屋に住込みで修行し、わずかな収入の中から家に仕送りをしながら働いた。が、負債は簡単には減らない。
佐和子が二十歳になった頃、もう舞妓から芸妓になっていたのだが、花柳界を離れて高級クラブのホステスとして働くことになった。理由は収入の高さだ。芸妓としても人気があったが、それでも借金を返済していくには余程財力のある旦那でも付かなければ無理だった。
実際には彼女を貰い受けたいと言う申し出が置屋の御かみには来ていたそうだが、佐和子の抱える負債をも引き受けられる旦那はいなかった。
佐和子の母親代わりのような御かみは、佐和子がこのまま花柳界に残るよりもより早く高収入を得られるように、知り合いの高級クラブを紹介した。
顔立ちもよく、若い上に芸妓仕込みの接客技術で佐和子はたちまちトップのホステスに上り詰めた。その頃には実家に父親が戻り住んでいたが、彼女は父親を許すことが出来ず、顔すら合わせていなかった。だから、芸妓を辞めてからも実家には戻らず、二条辺りのアパートでひとり暮らしをしていた。
クラブに勤めて一年ほど経った頃に森に出会った。佐和子に言い寄る男はたくさんいたが、店柄のため客層は年齢層が高く、ほとんどが既婚者だった。
森などはこの店に出入りするには随分若い年齢だった。佐和子も何となく親しみを覚えた。何年も働き詰めで全うな恋愛などしたことが無い。
親の借金を返済するために数年間働き続けてきた若い女にとって、十歳年上で抱擁力も経済力もある森は魅力的だった。いつしか佐和子は森とプライベートでも会うようになり、森のマンションへもしばしば訪れるようになった。
森は、佐和子のために小さなマンションを借りた。安アパートで暮らしていた彼女にとっては、人生そのものが変わってしまったと勘違いするほど大きな衝撃だった。
ほとんど毎晩のように森はやってきたが、決して同棲はしなかった。このまま森と一緒になることへの漠然とした不満、自分の将来に対する期待感があったからだ。今の延長線上の人生ではない、全く違った人生を求める気持ちが彼女のどこかにくすぶっていた。
一年ばかりそんな生活が続いた。佐和子は二十二歳になった。その時分になると森への気持ちが客観的に見えてきた。森とは、恋愛というよりは今まで体験出来なかった恋愛そのものに憧れて接していたことに気づいたのだ。
そうなると、必然的に森への気持ちは冷めてきて、彼の存在が疎ましくさえなってきた。甘えやで嫉妬深く独占欲が強い。惰性からか、すべてが自分の思いどおりにならないと気が済まない性格が顕著に現れてきたからでもあった。
そんな不安定な気持ちでいる頃に、穂積裕幸、つまり真理たちの父親と出会った。佐和子がクラブの先輩たちに連れられて、仕事の後に寄ったバーで知り合った。
裕幸は佐和子より三歳年上で、大学を出たものの就職が出来ずに、学生時代のアルバイト先である先斗町のバーで働いていた。
彼もまた経済的には恵まれない家庭だった。実家は島根にあり、両親とはとっくに死別し、叔父夫婦に育てられてきた。だから真面目に勉強をした。
京都の公立大学に合格したので叔父夫婦も進学を許してくれた。生活援助まで申し出てくれたが断った。裕幸は奨学金をもらってアルバイトをしながら勉強し、何とか大学を卒業することが出来た。
一般企業になら就職することも出来たが、裕幸は税理士に成りたかったので、税理士事務所などを訪れてみたがどこも受け入れてくれなかった。それで、資格を取るまではアルバイトをしながら勉強を続けることにした。
佐和子と裕幸は、同じ水商売の世界で働いているため昼間に会うことが出来た。知り合って三ヶ月ほどで恋人関係に陥った。
佐和子にとっては、今度は恋愛への憧れではなく本物の恋だった。裕幸となら一緒に苦労しても良いと思った。森の援助のお陰で楽をさせてもらったが、それを捨てても良いと思った。
森との生活は、借金返済の苦しい生活の中にあるオアシスのような安全地帯だったが、裕幸との生活は、借金返済の苦しさをも含めた人生を楽しむことが出来る生活だった。まだ若い佐和子は生活の安定よりも、辛くても愛のある人生を選んだのだ。
とうとう佐和子は、森に全てを打明けて別れ話を持ち出した。今まで世話になったことに対しては心底礼を述べた。当然、森はすぐには受け入れられなかったが、佐和子は、彼が受け入れてくれるまで根気強く、時間を掛けて懇願した。
打明けてから二ヶ月も経った頃、ようやく森も承諾して佐和子はマンションを出た。クラブも辞めた。祇園から離れて木屋町の小さなラウンジで働き始めた。収入は少し減ることになるが、森や、森の仕事仲間が出入りする『クラブすみれ』には居られなかった。
若い二人の生活が始まった。佐和子は裕幸の狭いアパートに移り住んだ。裕幸は昼間に税理士の勉強をして夜はバーで働いた。佐和子の稼ぎの大部分は返済に充てるので、裕幸一人の稼ぎで暮らしていかなければならなかった。それでも、若い二人は、未来という漠然とした希望を糧にして、質素であるが幸福に満たされた生活を送っていた。
そんな生活が半年も続いた頃のある蒸し暑い夏の夜、月に一度の贅沢で、二人は休日に外食をした。繁華街へは仕事で通っているので、アパートの近所にある居酒屋で飲んだ。
ビールを飲みながら二人の時間を楽しんでいた。こういう時、佐和子は余り食べなかった。佐和子は店のお客に食事などを良くご馳走になるから、食に関しては贅沢な物もよく口にしていた。
だが、裕幸にはそんな機会が無いので、彼に出来るだけ好きな物をお腹一杯に食べてもらいたかった。
佐和子が仕事帰りにお客に誘われた時には、成るだけお土産を買ってもらって裕幸に食べさせた。持って帰ったお寿司などを美味そうに食べている裕幸を見ている時が、彼女には幸福な時間だった。
幸一はその話を聞きながら、真理もまた、幸一が一生懸命に食べている姿を見て、嬉しそうに微笑んでいたことを思い出した。
佐和子と裕幸がそろそろ店を出ようとした時、泥酔した男が店に入って来た。そしてその男が二人のテーブルに近寄ってきた。森だった。
佐和子の横に座って、呂律の回らないままひとりで語り始めた。誰に語るでもなく、ひとり言を止め処もなく零し続けた。時々聞き取れる言葉をつなぎ合わせると、どうやら森の会社が倒産したらしい。
理由は良くわからないが、佐和子と別れてから不運続きで、何もかもが上手くいかないと零していた。だから佐和子に帰ってきて欲しいと懇願した。
二人とも、仕事柄酔っ払いの相手には慣れているから、出来るだけ刺激しないように話を聞きながら森をなだめていた。やがて言葉が少なくなり沈黙を守って眠りに落ちそうになった。
と、思った瞬間、突然狂人のような目に変じた森は、テーブルを挟んで座っている裕幸に飛び掛ってきた。驚いた裕幸が立ち上がった時には、森は隠し持っていた包丁で裕幸の脚部を傷つけた。
そのまま二人は乱闘になったが、周囲の男性たちが森を取り押さえてくれた。取り押さえた人の中にも傷を負った人がいた。幸い、どの傷も浅くて大事には至らなかった。
森に実刑判決が出て入所したのは翌年の二月。懲役二年という刑だった。泥酔していたとは言え、判断能力はあったとみなされた。そして何よりも、事前に二人のアパートを捜し当て、外出する二人を追って包丁まで準備していたという計画性が動機を決定付けた。
その頃、裕幸の新たな働き口が見つかった。バーの客が税理士事所に勤めていて、ちょうど庶務係りに欠員が出来たので、税務のことを知る者を募集しているところだった。
裕幸に定職が出来たことから、二人は少し広くて新しいアパートに移り四月に結婚した。佐和子は、母親には裕幸を紹介したが父親にはしなかった。相変わらず父親とは顔も合わさなかった。
結婚二年目の四月に佐和子は真理を出産した。あと数年で借金を完済出来るので、それまで子供をつくる積りはなかったが、折角授かった子供であるから二人は何の迷いもなく生むことを決めた。
佐和子が働けなくなる分実家に送る金額も減ったが、その頃には、父親も知り合いの会社に務めていたから何とか暮らしていけた。
母親は元々心臓が弱い上に、父親が定職につけるまで無理を重ねて働いたため、体調を崩して自宅にこもりきりだった。
幸一は母の話を聞きながら、いつも部屋に伏して、一度も見たことがない真理の祖母のことを思い出して、ずっと病弱な身体で過ごしていたのだろうと想像した。そして、真理の口から祖父の話を聞いたことが無いのは、母親との不仲が関連しているように感じた。
佐和子は、子煩悩な裕幸と真理との三人で幸福な生活を過ごしていた。しかし、人生の転機は必ずやってくるもので、不幸にも、裕幸が喧嘩に巻き込まれて全治十か月の重体となってしまった。
職場関係の歓送迎会があった夜の帰り、昔、通いなれた京都の繁華街の細い路地を歩いていると、ひとりの女性が酔った男性三人に絡まれていた。裕幸が声を掛けたところ、急に男たちが襲い掛かってきた。
女性には怪我は無かったが、裕幸は棒切れのようなもので頭を殴られて病院に運ばれた。犯人はその女性の知り合いでも無く、深夜で目撃者も少なかったため犯人が逮捕されることはなかった。
裕幸は多少の保険は入っていたが、今の生活を維持できるほどでは無かった。勤め先の事務所も色々援助をしてくれたが、所詮は個人経営の小さな事務所である。裕幸が完治して社会復帰するまでの間は佐和子が生活を支えなければならない。佐和子は再び水商売に戻ることを余儀なくされた。
まだ一歳に満たない真理を実家に預けて佐和子は毎晩働いた。佐和子は質素な暮らしで生活費を切り詰め、給料の大部分を借金の返済と真理の養育費、それに裕幸の入院に必要な諸費用に充てた。
父親が働きに出ている昼間に実家へ戻って真理を抱き、二日に一度は裕幸の入院している病院を訪れ、夜は店に出て働いた。
佐和子は以前働いていた店には戻れなかった。店を辞める時には、結婚、出産と、女性としての幸福をつかんだことを祝福されて出て行ったのに、再び生活に困窮して店に戻ることは出来ない。
佐和子は昔の伝は使わずに自分で店を探した。祇園や木屋町ではすぐに昔の仲間に出会いそうだった。また、プロのホステスが多い世界では、佐和子が復帰したことなどすぐに知れ渡ってしまう。だから素人の多い店でしか働くことは出来なかった。
結局、佐和子は四条を少し下った宮川町辺りにある、庶民的なラウンジに勤めることになった。以前とは違って客層は若く、色欲でギラギラした客が多かった。年配でも紳士的な人は少なく品格の低そうな客が多かった。
しかし、そんな店でも彼女は次第に慣れてゆき、品は悪いが露骨で正直な客たちの良さもだんだんと理解できるようになった。そんな客層の接客も器用にこなせるようになってきた頃には、佐和子は店での一番人気となっていた。
半年が過ぎて佐和子贔屓の客も多くなってきたが、彼女も次第に疲労が溜まってきた。クラブ時代の客と違って、若い客たちは酒も強いし深酒もする。店が終わっても執拗に誘ってくるし露骨に性欲を露にしてくる。
それらの誘惑を上手く交わしながら自分を失わないように努めるのだが、昼間の疲れも重なり、次第に体力も衰えてきた。そして体力が落ちると精神的にも弱ってゆくのが常で、彼女もだんだんと精神の柱が朽ち始めていた。
佐和子は一度過ちを犯してしまった。ある夜、常連の客と何故か盛り上がってしまった。佐和子に会う度に、幾ら出せば抱かせてくれるのかと、挨拶代わりに口にするような軽い男だったが、その軽薄さに合わせているうちに、今のストイックな生活が馬鹿馬鹿しくて弾けたくなってきた。
仕事の後にも誘われて、他の店でもつい飲み過ぎた。身体、精神共に疲労しきっていた佐和子は、男の明るさと優しさについ心を許してしまった。
右も左もわからないほどに泥酔した彼女は男がなすがままとなり、二人は男女の関係を持ってしまった。そして男は、佐和子がホテルのベッドで寝ている間に金を置いて帰っていった。
やがて常連客の間に噂は広まっていった。金で抱けるという噂だ。毎晩のように、佐和子は仕事の後に飲みにいくことを誘われた。断り切れずに付き合うとどんどん酒を勧められる。最初はコントロールしていても、酔いが回るとつい飲み過ぎてしまった。後は泥酔の中での出来事である。朝、目を覚ますと現金が置いてあった。
実際に関係を持ったのは三人だった。しかも決してお金が目当てではなく、優しい男にほんの数時間甘えたいだけだった。そんな誘惑に勝てずに身を任せてしまったのだ。しかし、三度目の過ちの後、佐和子は心を入れ替えた。このままでは堕ちる所まで堕ちてしまうと自分自身に危機を感じたからである。
佐和子は仕事後の付き合いはきっぱり断ることを断行し続けた。しかし、客の間に広がった噂はなかなか鎮火せず、佐和子が誘いを断って凛とした姿勢を見せれば見せるほど、裏があるように勘繰られて、却って噂は広まっていった。
ある夜、クラブすみれ時代に森とよく一緒に来ていた客が佐和子の店を訪れた。全くの偶然だ。彼はもう、森とはほとんど交流は無いそうだが、嫌な予感を覚えたのは当然だ。
佐和子の予感は的中した。一ヶ月ほど後に森がひとりで来店した。森は模範囚となって刑期よりも半年早く出所していた。そして友人が経営する、従業員百人足らずの小規模の建設会社に勤めて安定した収入を得ていた。
森は経営者としての器量は別として、仕事はできる男だ。だから友人の会社では率なく業務をこなして、瞬く間に部長職に任じられていた。
佐和子は森に会った瞬間、羞恥心と共に心安らぐ思いを実感したのも確かだった。今の佐和子は、全くの他人に安らぎを求めて夜を共にしてしまったほどの精神的惨状である。
その昔、結果的にはオアシスでしかなかったとしても、心も身体も許して安住していた男が自分の窮地に忽然と現れた偶然を、自分自身のプライドや意地などと、小さな世界でこだわりを持つ男という生き物とは違って、現実の世界をいかに幸福に生き抜くかということが最優先の命題である女としては、本能的に絶好の機会として捕らえていた。
森が店に通い始めて三回目の夜、佐和子は自分自身に禁止していた仕事後の付き合いを解禁した。そして、森に現状の苦しい状況をさりげなく伝えた。
案の上、森は全身全霊で佐和子を救おうとした。佐和子は、裕幸が退院するまでの間だけ森の好意に甘えることにした。森もその条件を素直に受け入れてくれた。森の好意に甘えるとは言っても、実質的には援助交際だった。
佐和子は夜の勤めを半分に減らすことが出来た。そのお陰で、極限まで追い詰められていた精神状態も、体調も、正常に戻ることが出来た。真理や裕幸に会う時にも、時間的な余裕が出来たし必然的に精神的にも余裕が出来た。
だが、週に二度は森の誘いを受けて彼のマンションで夜を過ごさなければならない。森のことは嫌いではないが、当然のことながら抱かれることには嫌悪感を覚えた。
更にそれよりも大きな不安があった。裕幸が退院して、約束どおりに今の関係を清算しようとした時に、果たして森が素直に応じるかどうかと言う不安だった。事実、二年前には未練を絶てなかった森は裕幸に襲い掛かったのだ。
だが、今は背に腹は代えられない。例え、森との関係が裕幸に発覚して夫婦仲が崩壊したとしても、今は真理を育て、裕幸の治療とリハビリを行い、実家の借金を返済しなければならない。佐和子は最悪の状態を想定して覚悟を決めた。
数ヶ月間、そんな不本意な生活が続いた頃、裕幸の退院の目処がついた。十月早々に退院出来る。森は悲しんだ。また佐和子と別れなければならないのだ。
森は、佐和子を殺して自分も死んでしまう想像を幾度か繰り返したが、あくまでも想像の世界だった。刑務所で自分の犯した罪を償ってきた彼は、もう社会のルールを破る衝動すら起きないほど、心に罪人の烙印を押されていた。
森は最後の願いを佐和子に打ち明けた。二人で京都巡りの旅をしたいと願った。もっと遠方に出掛けても良かったが、別れた後、いつでも思い出に浸れるように地元を回ることにした。
佐和子も、それくらいの願いには感謝の意味で応じることにした。但し、旅中も男女の関係は持たないこと。そのために宿は別の部屋を取ること。旅の後は決して彼女の前に現われず、連絡も取らないという条件付だった。森もその条件で承諾した。
二人は円山公園で待ち合わせた。昭和四十八年九月二十七日のことだ。清水寺、平安神宮、銀閣寺、翌日は下鴨神社、大原へ移って三千院、寂光院。二十九日は金閣寺、竜安寺、清滝、高山寺と巡った。そして最終日は松尾大社と大覚寺を参拝した後、夕方に嵐山を訪れて、そこで永遠の別れを告げた。
一週間程して佐和子の元へ旅行の写真とネガが届けられた。旅行中、二人は一緒に写すことはなく、常に別々に撮影した。
佐和子はすべてを燃そうと思ったが森の誠実さが心に残り、森の写真とネガを燃し、それ以外の物は取っておいた。小さなメモが同封されており、一枚だけ佐和子の写真を頂くと記されていた。
裕幸が退院して再び幸福な生活が始まった。忙しい生活の中で、森のことやら辛苦な生活の記憶は忘却の一途を辿っていった。
だが、一月も経たないうちに佐和子は懐妊していることに気づいた。その子が森の子であるという可能性もあった。しかし、そのことは決して言うべきでないと彼女は決心した。裕幸とも退院以来何度も愛し合っている。
そんな不安を心の隅に抱きながら翌年の七月に秋子を出産した。だが運命は皮肉なもので、秋子は最も確率の少ないAB型だった。佐和子はA型で裕幸は○型。森はB型だ。
佐和子はすべてを話し、裕幸の前に両手をついて謝罪した。許してもらえるなどとは思ってもみなかった。裕幸や真理との別れも覚悟していた。
しかし、裕幸は意味のわからぬ言葉を一度だけ大声で発しただけですべてを許した。元はと言えば、自分が事件に巻き込まれたことが原因である。彼は佐和子の手を握り締めて、辛苦を嘗めさせたことを涙ながらに詫びた。そして秋子を二人の娘として育てることを誓い合った。
激動の年も暮れて数年が経った頃、裕幸は資格試験に合格して、長年努めた税理士事務所の紹介で兵庫県にある大手企業の経理部に就職した。佐和子の実家の長年にわたる借金も返済を終え、家と土地に懸かった抵当も抹消された。
裕幸は十年近く大企業の実務を経験した後に独立するのだが、一方の森は、友人の会社に勤めながら何ら楽しみも目標も無い人生をただ平凡に過ごしていった。佐和子との別れから何年経てもその傷は癒えず、生気を失った森は次第に仕事でも業績を落とし、同僚の信頼をも逸していった。
やがて会社の業績も下がり始めた頃、森は自ら職を辞した。その後は、気が向いた時に日雇いのバイトをしながら質素で気ままな生活を続けていた。時々佐和子の写真を見つめて、自分が生きる意味をそれなりに見出していた時代のことを思い浮かべながら、酒など飲んで懐古に浸ったりしていた。
更に十数年の時が流れ、相変わらずの生活を続けていた森は、賀茂川堤防の改修工事に日雇いで参加していた。
ある初夏の夕方、森は堤防を歩く佐和子の姿を見た。勿論、それは秋子だ。驚いた森は佐和子に似た若い女性が出入りする表札を確認した。そして、ここが佐和子の実家であることを悟った。
そして、秋子のことを第一子の真理であろうと想像した。しかし、だからと言って何か行動を起こそうとは思わなかった。もうそんな気力も湧いてこない。時々見かける愛らしい女性を見つめて、昔の感情や佐和子と暮らしていた頃の香りを懐かしく思い出すだけだった。
そんなある日、森は体調を崩して診察を受けた。数日間の検査入院の後、残り短い命を約された。末期のすい臓がんだった。後、半年も生きられないと診断された。
だが、そんな残酷な宣告を聞いても、森は大してショックを受けなかった。何となく生命力の限界を感じていたのだ。そろそろこんな状態になるであろうと予感もしていた。ショックを受けるどころか、ちょうど良いとも思った。生きていても、目標も楽しみも無い男である。森は治療を拒んで病院を出た。
森は死ぬ前にもう一度だけ佐和子に会いたいと思った。しかし、今まで固く守り通してきた約束である。ここで会ってしまったら、今まで我慢してきた努力が徒労に帰してしまう。彼はそう考えて佐和子に連絡することは思い留まった。
その代わりに、若い頃の佐和子にそっくりの秋子と、思い出の旅路を旅することを思い立った。手紙と写真で秋子を誘い出し、自分の余命のこと、昔佐和子と付き合っていたこと、そして人生最後の希望として、秋子と旅をしたいことを告げて一心に頼み込んだのだ。
「この先はあなたが話す番よ」
秋子の母がここまで話し尽くすと、秋子の瞳をじっと見つめた。幸一も秋子も、母親たちの激動の人生を聞いて、衝撃で心に大きな空洞が出来たかのようにぼんやりと沈黙を保っていた。どう反応すれば良いのかわからない。特に、他人である幸一にとっては呼吸することすら憚られるような緊迫した空気だ。
「話してくれてありがとう」
秋子はやっとのことで声を搾り出した。
「森さんは、昔お母さんと付き合っていたことを話してくれただけよ。最初はお母さんの浮気相手だったことをほのめかして、私が一緒に旅をすればもっと色々話してくれるようなことを言っていたけど、実際に旅を始めてからは、お母さんとのことはほとんど話してくれなかった。私がいろいろ聞いてもはぐらかせるだけで事実は話してくれなかった。ほとんどは森さんの子供の頃の話や、私の家族の話をしていたの。後は、観光地を回った時にお母さんがあの時ここでどうしたとか、どう言ったとか、かなり細かいことを覚えてはったわ。作り話かと疑ったこともあったけど、お母さんならそんな言動や行動をしはるなあて納得していた。と、まあそんな話題ばかりで……。だから、お母さんが正直に話してくれはって本当のところ驚いたけど、お母さんが若い時に頑張ってくれはったことに感謝します。この話は私の胸に留めて、お姉ちゃんには一切話さへんし、何も知らないことにします」
そう言って秋子は、いつ溜まったのかわからない目尻の涙をそっと手拭で拭った。
「わかった。おおきに」
母は一息置いてから、お湯を急須に注いでお茶を入れ直した。
「森さんからはいつ連絡があったのですか?」
幸一は、急須から茶が注がれる音が終わってから母に尋ねた。
「秋子が嵐山から戻る途中で、真理を喫茶店に置き去りにしていた頃やと思います」
母は、秋子の瞳を覗いて微笑を浮かべた。幸一はその微笑に、真理の微笑から受け取るのと同じ安心感と愛情を感じ取った。
「森さんも、お母さんに会うことはさすがに諦めきれなかったのですね」
幸一は、秋子と旅することで満たされると思っていた森の欲望が更に膨らんで、佐和子に会う欲望を抑えきれなかったものと察していた。
「いいえ。彼は会うことを望まなかった。彼は最後のお別れを言うために電話してきただけです。私が強引に会うことを進めました。私たちがこうして幸せに暮らせているのも、彼の愛情があったからやと思うてます。関係の性質上、細く長くお付き合いするなんて無理ですけど、人生の最期を迎えようとしている時に、一度くらいお会いしてお別れを言うのが人の道やと思います。そやさかい、私の方から会いたいと申し出ました」
幸一は母の眼差しをしっかり受け止めながら、真理もこんな大人に成るのだろうなと、全く違う次元のことが脳裏をかすめた。
「うちも実家の電話番号を教えて、最期に声くらい聞いたらええのにと言って勧めました」
秋子が湯飲みを両手で包んで言葉を零した。母は微かに頷いただけで、湯飲みを静かに口に運ぶ。
「秋子さんのことも森さんに打ち明けられたのですか?」
母は湯飲みをじっと見つめながら、
「ええ」
と、ため息のような声を流した。その声の色気にどきりとした幸一は、真理が酒に酔った時の紅潮した吐息を思い出した。幸一が言葉を継げない間にたたずんだ沈黙に、ことり、と秋子が湯飲みを置く音が響いた。
「森さんは驚いたでしょうね」
幸一が熱いお茶をひと口飲んでから、自然に浮かんだ感想を口にする。
「とても……。当たり前のことやけど」
そう呟いた母の言葉になぜか秋子が俯いた。そうしてしばらくの間、暖房の効いた静かな和室に穏やかな沈黙が佇んだ。窓の曇りが露となってゆっくりと幾つかの線を描いては流れ落ちてゆく。幸一は座椅子の背もたれに寄りかかって天井を見上げ、そろそろ自分は席を立つべき頃合かと考えていた。
「そやから、森さんは自殺しはったんやわ」
突然、部屋中が凍りつきそうな冷たい語気で秋子が呟いた。その冷たさに、幸一の心は再び熾烈な緊迫感の中へと引き戻されてしまった。秋子の言葉にはっとした母が彼女をじっと見つめて、
「秋子……」
とだけ呟いて、俯いたままの秋子を見つめ続ける。やがて秋子は母に瞳を向けて静かに言葉を吐いた。
秋子は衝撃的な言葉を淡々と吐き続けた。幸一も、じっと秋子の瞳を見つめて言葉を聞くことしか出来なかった。
旅の最後の夜、食事の後も旅館のバーで飲みながら二人は話し込んだ。バーを出てからも森の部屋で語った。森も、最後の夜が寂しかったのか饒舌になっていた。酔ってもいた。秋子も酔っていたが、今までの森の真摯な態度に油断もしていた。いつの間にか秋子は酔いつぶれて眠ってしまった。
気づいた時には、秋子は森の腕の中にいた。そして状況を認識した時には、既に森は彼女の中にいた。頭も心も錯綜したまま抵抗の意思を示す暇もなく、彼の行為は終わった。
幸一が想像したとおり、秋子は父親の健康診断書を取り込んでいた。彼女は診断書の紛失した騒ぎを全く覚えていないと言ったが嘘だった。やはり血液型のことを知って、自分の父親が他にいることを悟っていた。
だから今までの経緯上、もしかしたら森が本当の父親ではないかと秋子は疑い始めていた。それ故、その精神的なショックは大変なものだった。だから、渡月橋で幸一と真理に出会った時には抜け殻のようになっていた。家族の誰とも一緒に居られず、話も出来ず、友人を頼った。
それから約半年後、心の整理が付いて、否、覚悟を決めて真実を知ろうとした。そして今、秋子にとっては最悪の事実を明確に知らされたのだ。
幸一は凛とした秋子の今の態度に、高校時代、真理が失踪して不安の最中にある時、まだ高校一年生であった秋子が気丈に振舞っていた時の風景を思い出した。
森も同様にショックを受けたはずだ。知らなかったとは言え、自分の血がつながった娘と交わってしまったのだから……。それ故、佐和子が部屋を出てすぐに自らの命を絶った。人生の終焉において、人間として決して許されない行為をしてしまった自分を、到底許すことなど出来なかったに違いない。
母との話を終えて旅館を出た秋子は幸一の部屋に来た。外で軽く食事をしてから幸一の寒い部屋にやって来た。やはりひとりにはなりたくないのだろう。或いは事情がわかっている幸一に労わって欲しかったのかも知れない。
「カーテン付けはったら少しは暖かいのに」
露が付着した窓枠を見ながら秋子が明るく笑った。
「カーテン付けると暖かいの?」
幸一は素直に驚いた。そんな彼を見て秋子も驚いた。面倒だから付けていないのではなく、本当に断熱効果を知らなかったことに驚いてもう一度秋子は笑った。
電気ストーブに温まりながら、二人は幸一のベッドに腰掛けて話していた。やがて、秋子は幸一の胸に顔を埋めて泣き始めた。幸一はそのまま秋子を抱えてベッドに横たえた。二人で布団を被って温まった。秋子は幸一の腕の中で静かに泣いていた。
幸一はただじっとして秋子が眠りにつくのを待った。慰める言葉もなく、彼女の苦悩を解決する手段も持ち得ない。彼女が風邪を引かないように温めてあげることしか出来なかった。この状況では、秋子を抱きたいという本能的な欲も湧かない。まるで腫れ物にでも触るかのように、彼女が泣き疲れて眠るまで優しく暖かい思いで包み込んだ。やがて秋子は静かな寝息をたてて眠りについた。
幸一は身支度を整えてからカーテンを閉めて部屋を出た。秋子がこの部屋で涙を枯らしてから約二週間。今夜はゼミの飲み会があるので木屋町へ向かった。
三条大橋を渡って木屋町へ向かう歩道で、やや派手に着飾ったホステス風の女性に声を掛けられて振り向くと、秋子が微笑んでいた。三月に入ったもののまだ寒さは厳しい中、彼女は短いタイトスカートを穿いている。
「やあ、元気そうやね」
幸一は自分でも不思議なほどに自然な声が出た。メイクのためか短いスカートのためか、秋子が妙に色っぽくて、この前、腕に抱きながら何もしなかったことが悔まれる。
「この前はありがとうございました」
きれいに笑った秋子は、化粧に不釣合いな無邪気な笑顔を浮かべる。秋子は仕事へ向かう中途であったが、少しの時間を都合して近くの喫茶店に入った。
「少しは落着いたか?」
秋子はあの朝目覚めると、ひと言お礼を言っただけでひとり部屋を出て行った。
「幸一さんのお陰でとても楽になりました」
じっと幸一の瞳を見つめながら真心を込めて言葉を吐く幼顔を見ていると、高校二年の春に桜吹雪に巻かれながら消えて行った、秋子と同じ年の美紀のことが思い浮かんできた。つかず離れずの関係で、やっと最後に心が通じ合ったが、その時には既に別れなければならなかった。幸一は、このまま秋子を抱きしめてしまいそうな衝動を覚える。
「俺には何も出来なかった……」
「そんなことあらへん。とても温かかったわ。ほんまおおきに」
秋子は少し羞恥を漏らしてから、レモンの香りを楽しむように紅茶をゆっくりと口に運ぶ。
「何か……。大人になったね」
幸一もコーヒを口にした。
「そう?まあ、これでも適当に苦労しましたから……」
だが、秋子の笑顔には苦労など全く知らないような明るさが漂っている。
「仕事はしんどい?」
コーヒの香りを鼻から抜けてゆく。
「ええ、とっても。辛いことばかりです」
幸一の目にはまるで辛そうには映らない。
「なんの仕事かわからはるの?」
幸一はにこりと笑ってから、
「こんな場所で、そんな色っぽい格好していたら子供でもわかるよ」
と言った。
「色っぽいと思うてくれはるの?」
「鼻血が出そう」
秋子はにこりと笑う。そしてひと呼吸おいて、
「でも、母も大変やったと思うわ」
と、あの旅館での張り詰めた空気を思い出すかのように遠い目をしてうっすらと瞳を潤ませた。そんな彼女を、幸一は可憐だと感じた。
「私ね、旅館で母の昔のことを聞いた時には、絶対に許したくないと感じました。恨みもしました。だらしない人やと思いました。そやけど同時に、生きていくことがとても大変なことやて共感もしていました。うちもたった半年程やけど、自分で働いてみて感じていました。こんな生活が何年も続いたら、まして母みたいな環境になったら、私かて同じようになっていたかも知れへんわ。」
幸一には、彼女の言葉が温かく心に沁みこんできた。そして、秋子の方が真理よりもずっと大人のように思えてきた。
「大学へは行ってるの?」
幸一が話題を変えた。
「ええ、一応」
「ちゃんと行きや。夜に働きながらやと大変かと思うけど」
「へえ、ちゃんと学校行きやなんて、幸一さんが言わはるんやわ」
と、悪戯な笑みを浮かべながら、ちらりと時計を見た。そんな表情はやはり真理を連想させて、恋しい思いが幸一の胸を締め付けた。
「うちね、もうすぐ祖母の家に帰ろうと思うの。この仕事も辞めるわ。今は働くこと以外にやりたいことが一杯あるし、やるべき時やと最近感じ始めました」
俄かに素直な微笑みを浮かべた秋子は、幸一が二年前に初めて見た時の可憐さを思い起こさせ、美紀の快活な笑顔をも、彼の脳裏に呼び戻してくれた。
「それが良い。みんなも安心しはるわ」
幸一の言葉が終わらぬうちに、秋子はすらりと立上った。
「幸一さんはS大でしょ?またコンパしましょうね。私、お酒に強うなったさかい。それから、来月には上賀茂の家に戻っていますし、いつでも遊びに来てくださいね」
そう言い残した秋子は、快活な美少女の余韻を残して盛り場の雑踏へと消えていった……。
幸一は、数奇な運命を受け止めた秋子の魅力に心を満たされていた。飲み会まで時間があったので、秋子の余韻を心に秘めながらぶらりと歩いてみた。四条大橋の真中で立ち止まり、欄干に身を寄せて川上の方を遠望する。
日が暮れ始めて周囲は薄暮に包まれている。橋の上は勤め帰りの人たちで混んでいた。川面には数多の灯かりが輝いているが、天の川と表現するにはあまりに世俗的な灯かりだ。
川の堤防に腰掛けたたくさんのカップルたちを見下ろすと、真理の素顔が自然と思い浮かんできた。そしてあのカップルの中のいくつかが結ばれ、別れ、或いは隣のカップルの男と関わるのかも知れないなどと、つまらないことを想像してみた。
また、真理とはいつまで続くのだろうかという不安も一瞬頭をもたげたが、どうでも良いと思い直した。この鴨川のように、高い所から低い所へ時の流れに身を委ねようと思った。
堤に降りて川上に向かって歩き始める。川辺の冷気を胸深く吸い込みながら時折夕空を見上げた。世間は賑やかだが、彼ひとりは孤独な静けさに満ちている。
真理の両親も、森も、きっと二十年前にここを歩いたに違いない。幸一も、京都に来てから幾人かの女性とここを歩いた。そんなたくさんの人間の想い出や、悲しみ、喜び、絶望、希望がこの鴨川に流されて行ったのではないだろうか……。
かつて幸一と交わった女の想い出もきれいに流してしまいたいと思った。そして、やがては真理もここから流れて行くのだろう。そんな漠とした影のない寂しさに襲われながら、しかし脅えることなく、ぽつりぽつりと歩を進めて行った。
ふと、真理がきれいに笑い掛けてきたような気がしてふいと夕空を見上げたが、宵の明星らしき星が精一杯輝いているだけだ。
「穂積真理か……」
幸一は小さく呟いてから大きく伸びをして、溜息に似た深呼吸をした。その一瞬間に、あの八月の出来事が記憶の映像を早送りしたように彼の脳裏を駆け巡った。
そして真理の母が語った、真理の両親や森たちが描いた二十年前の青春物語は、母の写真がモノクロであったためか、まるでモノクロ映画のように幸一の脳裏に映し出され、ノスタルジックな余韻を伴って深く心に沈殿していた。
ちょっぴり春の気配を乗せた清涼な微風が、幸一の前髪とノスタルジーに染まった夏の思い出を、心地よく揺らしてから流れていった……。
二年後、大学四回生になった幸一の物語は次作「秋の終りに」に続きます。