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焚火のあと  作者: 夢追人
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第三話 モノクロームな風景 一

渡月橋で秋子と謎の男を待ち受ける幸一と真理。秋子は無事戻ってくるのか?秋子の冷たい表情の理由は……。

 陽が西に傾いて、あちらこちらが夏の夕方の雰囲気に包まれる頃、幸一と真理の二人はバイクで西の方向に向かって疾走している。夏の風ではあるが、バイクで走っていると風が心地良く感じる。背中だけが、真理の身体で異様な熱さを感じていた。

 御池通を堀川まで進んで南下。四条通を嵯峨野に向かって風を切る。自動車の往来も多いが、バイクの特性を生かして渋滞をすり抜ける。道路標識に嵐山の案内が出始めた頃には、長い夕影が濃い色を落とし始めていた。

 幸一の背中にしがみついている真理とは、声が届き辛くて話せないのに、身体が触れ合っているだけで、心が通底しているような安堵感を覚えている。そんな甘い旅程も、僅か三十分程で嵐山の渡月橋付近に到着して終えた。

「さすがに人は少ないわね」

 真理は片手でヘルメットを幸一に差し出し、もう一方の手で髪を掻き撫でながら爽やかに言葉を風に流す。

「お店はまだ開いているなあ」

 どこの土産屋も、忙しいピークを過ぎて一段落しているような雰囲気だ。

「お腹空いたんでしょ?帰りに三人で何か食べましょうよ。そやさかい、もう少しだけ我慢してね」

 真理の言葉は、悲しいほど美しく夕風に流されてゆく。

 二人は、駐車場から川に沿って渡月橋まで歩いた。川べりのさわさわとした空気の中で、水がぶつかり合って生じる激しい音の脈が、峡谷の空間を絶え間なく駈け抜けてゆく。二人は橋の中ほどで、どちらからとも無く立ち止まった。

「ほんまに通るのかしら?」

 ちょっぴり不安気に真理は幸一を盗み見る。

「間違いない」

 実のところ自信が無い。にも拘わらず堂々と答えてしまった。秋子たちがここへ来ることには自信があったが、何時に来るのかはわからない。夕方と言っても幅が広い。もうとっくに通り過ぎているのかも知れなかった。

「秋子さんも綺麗にならはったやろうなあ。あの時に会ったきりやけど」

 澄んだ川の流れを目で追いながら、昨日見た秋子の表情は敢えて思い出さずに、二年前の記憶の映像にだけ視線を向けた。

「ええ。でも、あの娘も去年の数ヶ月間、非行に走ってしもうてね。随分心配させられたわ」

「へえ。あんなに真面目そうな娘がねえ。信じられへんなあ」

 とても意外だと言った表情を浮かべて真理の横顔をちらりと覗く。幸一は橋の欄干にお腹を当てて川を見下ろすようにしていたが、真理は欄干に背中を預けて、橋を通る人々に目を配っている。

「お酒は飲むわ、煙草は吸うわ、夜遊びして帰って来ないわ。随分やったわ」

「ごく普通の高校生やないか、そんなことくらい」

 真理はふっと笑いを零してから、

「幸一さんならね。でも我が家では大騒動の連続やったんやから」

と、人通りを見つめたままで懐かしそうに言葉を零した。

「そう、それは大変やったね」

「ほんまにそう思てはる?」          

 幸一をちらりと斜めに見上げて、疑わしそうな視線を送る。

 幸一が初めて秋子に出会ったのは、真理が蒸発騒ぎを起こした寒い夜だった。秋子は目元が真理にそっくりだ。いや、二人とも母親にとても似ている。心底真理を心配しながら、緊張と不安に耐えている健気な秋子を、幸一はとても愛らしく感じた。

 あの夜、真理を連れ戻した後、幸一が真理の実家から帰る際に、最後まで見送ってくれたのも秋子だった。その時の秋子の清純な印象は、その後も彼女の面影の記憶として、漠然と幸一の脳裏に焼き付いている。

「何で非行に走ったの?まあ、非行に走るのに明らかな理由なんてないと思うけど……」

「ええ、そのとおりやわ。半年もしたら元どおりに戻ったしね。でも関係はないと思うけど、今から思うとひとつだけ、なんや妙にタイミングが一致する騒ぎがあったの」

「騒ぎ?」

 幸一の表情が突然興味を深める。

「確か去年の春頃かなあ、父の健康診断の結果が病院から郵送されてくるはずやったのに、なかなか来なかったの。父が病院に問い合わせたら、病院側は既に送ったと回答したそうやの。その時の父の慌てようは、何や恐いくらいやったわ。家中を捜し回らはったけど結局見つからなかった。その頃から秋子の様子が変になったの」

「お父さんは何かの病気?」

「いいえ、元気よ。持病なんてひとつもあらへんわ」

「不治の病であることを秋子さんが知ってしまったとか……」

「生憎、まだ元気に生きてはるわ」

 真理はそう言って幸一の横腹を人差指で突いた。幸一はふっと空を見上げて、少しずつ寂寥の感を呈し始めている夕空を寂しい風景として心に刻んだ。

 そんな会話を続けているうちに一時間が経過した。次第に人通りも少なくなり、観光バスの姿も数台に減ってしまった。幸一の腕時計が十七時前を表示している。

「そろそろ、やなあ」

 まだかなあ、と言う言葉の代わりに彼は呟いた。俄かに真理の緊張が伝わってくる。

「何でわかるの?」

「もう、夕食時やから」

 幸一は身体の向きを変えて、橋を往来する人々の顔に視線を走らせた。真理は少し怪訝な瞳を浮かべて、不満気に幸一をにらみつけてから、

「お腹が空いただけでしょ」

と、やや膨れ面で彼の反応を待った。すると、唐突に幸一の表情が硬くなったことに気がついて、彼女もその視線を追う。真理の視線は、渡月橋の北詰から近づいてくる五六人の群れに辿り着き、その後にいる二人の男女を捉えた。女は俯いているが、真理には、それが秋子だとすぐに感じ取ることが出来た。

 幸一の瞳が緊張の輝きを放ち、目立たぬようにそっと歩き始める。彼我の距離は約三十メートル。が、その刹那、

「秋子!」

と、思わず叫んだ真理の声が夕闇に静かに沈んで行こうとする周囲の空気をぴんと緊迫させた。

(バカ!)

 幸一は心で叫ぶや否や反射的に駆け出している。二人との距離が見る見る縮まる。秋子の驚いた表情が寂寞の気にぼんやりと浮かんでいる。男は驚いて逃げ出す。男は秋子を残したまま、周囲の人を押し退けて走り去ってゆく。

 小柄な男で、薄い茶系のシャツを着ていた。白髪まじりではあったが童顔だった。高雄で見た時よりも更に小さく感じた。

 男は一度振り向いたきり全力で走り続け、タクシーに飛び乗って去って行った。反射的に幸一も停車しているタクシーを視線に捉えたが、男を捕まえることに何の意味も無いことに気づいて、ゆっくりと呼吸を整えながら引き返した。

 大きな息をしながら幸一が戻ってくると、真理が悲しそうな表情を浮かべて、秋子の手をしっかり握って立っていた。だが、秋子は微かに表情を緩めただけでほとんど無表情だ。

「ごめんなさい。私、つい興奮して……」

 真理は心持ち紅潮して幸一に詫びる。

「かまへん。秋子さんも無事やったことやし」

 そんな風に明るく笑いながら答える幸一を、秋子はしばらく無言で見つめてから、

「三浦さんでしたね?お久しぶりです。ありがとうございました。おかげさまで助かりました」

と、礼を述べると深く頭を下げた。幸一は、秋子の言葉の含みを色々と推測してみたが、真意は量りかねる。それは、今の秋子の表情が昨日の秋子のそれとあまりに差があること原因だ。

 昨日は男との旅を楽しんでいるかのようにも捉えることが出来たのに、先ほど二人で歩いていた時の様子や今の表情は、昨日とは全く別人のように感じる。血が通っていないと言うか、気持ちがここに無いと言うか……。やけに冷静とも取れる秋子の態度に彼は気味の悪いものを感じ取った。

 その後の秋子は、全く口を開こうともせずにその場に突っ立っている。通行人が怪訝そうに三人を盗み見ては、そしらぬ風に通り過ぎて行く。

「ほんなら、どうしましょう?うちらはタクシーで帰るさかい。気の毒やけど、幸一さんはバイクで帰ってくれはる?」

(ごはんは?)

と思わず心で呟いた幸一だが、

「ああ、そうする。気を付けてね」

と、さらりと答えた。真理はちょっと笑みを浮かべてから、通りかかった空車タクシーに秋子と乗り込んだ。

「アパートに居たはるでしょ?また電話するさかい遊びに来て頂戴」

 ドアの閉まる間際に真理が明るく言い放った。彼女はいつまでも後ろを向いて幸一に手を振っているが、秋子はまっすぐ前を向いたまま人形のように身動きひとつしなかった。

(またって、いつ?)

 さっきは、帰りに三人で食事をしようと言った。この夕食前の微妙なタイミングでまた連絡すると言われても困惑してしまう。だが、次の瞬間にはそんなことは忘れ去って、彼はバイクに向かって歩き始めた。


 幸一は、電気ポットのコンセントを差し込んで湯を沸かし始めた。オーディオデッキの再生ボタンを押すと、この前聞いていた曲の途中から再生される。彼は買ってきた弁当を開いてカップラーメンの下準備をした。ビールを冷蔵庫にしまってからお湯が沸くのを心待ちにする。   

 とにかく、秋子が無事に戻って来たことで一段落した。後は他人が口を出す事ではない。彼は満足感と充実感を覚えている。やや疲労感も覚えていたが、それ分美味いビールを飲めそうだ。

 いよいよ湯が沸き始めて沸騰を示すランプが点くのをじっと待つ。そうしてそのランプが点灯した瞬間、突然電話の呼出音が響いて幸一の幸福な心を打ち砕いた。いかにも憎らしい音だ。仕方なく、座ったままで上体を目一杯伸ばして受話器を取る。

「幸一さん?」

 張り詰めた真理の声が飛び出して来た。幸一のささやかな至福の時は一気に冷え込んでゆく。

「どうした?」

「秋子が、秋子がおらへんの……。あの娘がお茶を飲みたいて言うさかい喫茶店に入ったの。そしたら、私がちょっと席を外している間におらへんようになってしもうて。辺りを捜してもおらへんし、家に帰ってみてもおらへんの」

 真理の声は不安に震えている。

「わかった。すぐに行くさかい、じっとしときや。ええなあ」

 幸一は、弁当を冷蔵庫に仕舞い込み、ビールを眺めてため息を吐いた。

「と言うことで、また後ほど……」

 ビールに語りかけた幸一は、疲労感を覚えながらもやはり行かずにはおられない。彼は再び冷蔵庫を開けると、弁当のおにぎりを一つ頬張ってヘルメットを小脇に抱えた。


「秋子は、何でおらんようになるのよ……」

 真理は溜息交じりに言葉をこぼした。彼女の吐息が部屋中に拡がって、幸一の肩にも覆い被さってくる。幸一は彼女の電話を受けて馳せ参じたものの、真理の部屋でこうして時間を費やすだけで何らなす術はない。

 真理の部屋は秋子の部屋の隣にあって、広さも作りも同様だ。真理の部屋の方が階段から遠いが、窓から見える賀茂川の風景に変わりは無い。

「母にもさっき電話したの。もう、隠していられへんさかい」

「そうやな。帰るって言うてはった秋子さんがいなくなったんや。状況は変わっているしな」

「そやけど、母はもう事情を知ってはった。今から京都へ来はるけど、うちに来る前に、知り合いと会うて言わはったわ」

 真理は不安げに幸一を見つめて、彼の口から出て来るであろう冷たい現実に耐える覚悟をしている様子だ。恐らく、秋子から聞き出した実家の連絡先に男が連絡をして、母と話をしたのだろう。秋子と旅をすることが目的だったのか、実は実家の連絡先を聞き出して母に会うことが真の目的だったのか……。

「そう」

 幸一は、思うところを胸に仕舞ったままで口を閉じた。秋子の居場所をつかむ手掛かりも無いし、電話も掛かってこない。何の手も打てずに、真理と二人して焦燥の念に駆られながら無為に時を過ごす。真理が時々思い付いたままのことをロにするが、何も結論を出せないまま沈黙が訪れる。そして何も考えが浮かばなくなると、

「何でやの……」

と言っては、頬杖を突いてため息を吐く。

 幸一はいつのまにか真理のベッドに身体を横たえたまま眠ってしまった。ほんの少し居眠りしたつもりだったが、彼が目覚めた時には窓の外はどっぷりと闇に染まっていた。

「ごめん、眠ってしもた。もう九時か」

 そう言いながら真理のベッドから離れて、畳の上に置かれた三人掛けのローソファーに腰を移して真理と並ぶ。

「いいえ、うちの方こそごめんなさい。こんなことに幸一さんまで巻き込んでしもて。でも、今は他に頼れる人がいないの」

「俺のことはかまへんから、気にするなって」

 真理は小さく頷く。

「お母さん、遅いね?」

 何の意図もなくぽつりと零す。

「帰って来はらへんわ、きっと……」

 真理は投げやりに言い捨てる。

「そんなことあらへん、もうすぐ帰って来はるよ。昔の友達に会うてはるから話が弾んでいるんやろ」

 幸一は彼女の横顔を見つめる。

「そうね、今頃あの男と会うてはるわ」

 真理は自分の吐いた言葉に表情を硬くしてゆく。一番恐れていたことを思わずロにしてしまった様子だ。幸一も想像していたことだが、彼女の気持ちを案じて口にはしていない。

「会うて何してはるのかしら?」

 真理は、恐れながらも幸一の意見を聞き出そうとする。

「お話ししてはる」

「何の話?」

「昔話に、現在のこと。それから男が現在の苦悩を打ち明けて、お母さんにお金を無心しているかもなあ、昔の秘密をねたにして……」

 真理の瞳を直視できなくて、窓から伺える夜景に視線を外す。

「いったい、どんな秘密があるのかしら」

「それは知らん方がいい。もし知ったら、家族と一緒にいられなくなるさかい。秋子さんみたいに……」

 真理は幸一を凝視し、幸一も彼女の視線をしっかりと受けとめた。

「俺は他人やからこんなこと平気で言えるけど、事実は事実として認めなあかん。誰にでも他人に知られたくない秘密ぐらいあるし、その秘密を子供が知ったら、親と顔を合わせられなくなるのも当然やろう。秋子さんは心配ない。時間が経てば元どおりに戻るよ。何と言っても血のつながった親子なんやから……」

 そう言った刹那、幸一は胸の中を木枯らしが吹き抜けたような冷たい痛みを覚えた。だが、実際に吹いているのは、扇風機と、賀茂川から流れてくる涼やかな風だ。

 真理は硬い表情で幸一を見つめていたが、彼の情念の一瞬の燃焼と優しさに溶けるように、次第に表情を和らげていった。

「渡月橋で話してくれたよね、秋子さんが非行に走ってしまったこと。確かお父さんの健康診断書が無くなったタイミングと関係するとか」

 幸一が何かを思い立ったように、語気を変えて尋ねる。

「ええ。それが?」

「健康診断書くらい再発行してもらえば済むことやのに、何で必死に捜さはったんやろう、病気でも無いのに……」

 真理も先ほどの幸一の言葉を思い出して、虚ろな瞳を不安げに揺らしながら、

「もしかして、血液型?」

と、誰に言うとでもなく心細く呟いた。

「君の血液型は何型?」

「私はA型よ」

「お母さんは?」

「母もA型で父はB型よ」

「秋子さんは?」

 幸一は、身を乗り出して真理の返答を促す。

「秋子はAB型よ」

 幸一は大きく息を吸いながら、両足を投げ出して背もたれに倒れ掛かった後天井を見上げる。真理はゆっくりと瞬きをして、潤みかけた瞳で彼を見つめる。幸一は、その瞬間の彼女の表情がこの上なく美しいと感じた。

「診断書には本当の血液型が書いてあった。当然やけど……」

「もしも父がB型でなかったら?」

「A型かO型。秋子さんが疑問を感じたとしたらそう言うことになる」

 幸一は自分の推論が間違いであることを祈りながら言葉にした。

「もし、ほんまにそうやとしたら、秋子は自分が父と血が繋がってないことを察して、ひとりで辛い思いをしてはったことになる」

 真理の目尻に涙が静かに溜まってゆく。そして、

「もしかしたら、私も偶然A型やっただけなのかも知れへんわ」

と、床に目を伏せた。

「さあ、そこまではわからへん。自分で言っておいて悪いけど、何の証拠も無い推測やから、あまり気にしたらあかん」

 幸一は、無理に微笑む彼女が愛らしくてそっと頭を撫でた。と、その時、階下で電話の呼出音が大きく響いて、やや落ち着きかけた真理の心臓を再び激しく刺激した。二人は足早に階段を下りて真理が受話器を上げる。

「もしもし、秋子?今どこにいるの?」

 真理は張り詰めた声を廊下に響かせた後、静かに言葉を飲み込んで幸一に受話器を手渡した。

「秋子が替わって欲しいって」

 幸一も怪訝な気持ちで受話器の向こうの秋子に思いを馳せる。

「もしもし……」

 秋子の声は静かで落ち着いており、言葉もしっかりしていた。真理と声が似ているので、まるで真理と話しているような錯覚を覚え、目の前にいる真理を見ながら不思議な体験をした。

「わかった。必ずな、約束やで」

 幸一は最後に念を押してから受話器を置いた。そして、早く情報を求める真理の瞳に向かって、

「秋子さんは、同級生のマンションでしばらく世話になるそうや。学校もちゃんと行くし、今までのことを話せる時が来たら必ず話すし、気持ちが落ち着いたら必ず家に戻るから、今は心配しないで待っていて欲しいて言うてはった」

と報告して部屋に戻ろうとした。

「何で幸一さんやの?そんな話、うちにしたらええやないの」

 やや怒気を含んだ声が幸一の背中に突き刺さる。

「そんなこと、俺に言われてもなあ」

 幸一は早く戻ろうと目で真理を促す。だが、彼女はじっと突っ立ったままで、

「何か隠してはるでしょ。幸一さんの嘘がわからへんとでも思うてはるの?」

 頑なに食い下がってくる。

「相変わらず鋭いなあ」

「幸一さんがわかりやすいのよ」

「とにかく部屋で話そう」

 そう言って幸一は時間を稼ぎながら、どこまで話すべきかを考えている。

「何で幸一さんの住所や電話番号を教えてはったの?」

 部屋に戻るなり真理が質問を始めたが、彼女の言葉からは怒気が抜けていて、いつもの口調に戻っていた。

「秋子さんは、しばらくの間家族と直接話したくないそうや。そやから、何か用事が出来た際には俺が仲介する。そのために連絡先を教えただけや」

 幸一はそう言ってからメモを走らせた。

「それから、これが秋子さんの連絡先。本当は家族にも教えるなと言われたけど、これは俺の責任で君とお母さんに教える。そやから、ほんまに緊急の時だけ使ってくれ。ええなあ、約束やで」

「わかった。おおきに」

 真理は優しい表情に戻って幸一を見つめた。幸一は真理の視線を受け止めながら、これ以上隠していることを追求されないかと内心怯えつつも、彼女に見抜かれないように明るく笑った。だが、まっすぐに見つめる彼女の視線にさらされていると、すべてを見透かされているような気がしてならなかった。


 翌日、真理の母が戻って来たのは昼前だった。幸一と真理は、一晩中、一睡もしないで待っていた。空が白んで、元気な太陽が強い陽射しを射し始めた頃に、二人は居間に下りてテレビを見始めた。

 幸一は、テレビを見ながらうとうととしていたが、真理に眠れと言われると余計に意地になって眠らなかった。真理が台所で遅い朝食の準備をしている頃に玄関の扉が開いた。廊下を小走りする真理の足音が聞こえてきて、彼女の挙動が手に取るようにわかる。

「どこ行ってはったの?心配したんよ」

 泣き声のような真理の声が小さく震えていた。

「堪忍な。古い友達と会ってたの。そしたら他にも懐かしい友達が訪ねて来たりして、楽しく話し込んでるうちに遅うなってしもうて。それで泊めてもらったの。電話すれば良かったんやけど、気がついた時にはもう夜も更けていたし……。ほんまに堪忍え」

 真理はそれ以上は追及せずに、幸一の方へやって来た。

「母が帰って来はったわ。心配掛けてごめんね」

 真理は疲れた笑顔を幸一に送った。

「まあ、三浦君、久しぶりやねえ。一緒に居てくれはったの。堪忍へ、心配掛けてしもうて」

 幸一は、母の疲労を感じ取って、昨夜の出来事が言葉のように楽しいものではなかったことを読み取った。そもそも、秋子が失踪したという連絡を受けて京都へ来たはずなのに、旧友と話し込んでいたなど、全く言い訳になっていない。

「じゃあ、俺は帰るよ」

 幸一はそう言って立上った。二人の女から、少しでも食事をして仮眠してから帰るように説得されたが、バイクでわずか十分ほどの距離であるからと強引に辞した。

 自分の部屋に戻った幸一は、冷蔵庫を開けて昨夜の弁当とビールに再会した。

「ただいま」

 そう言って、冷たいおかずを口に入れて冷たいビールを流し込む。

「美味い」

 ビールのアルコールが脳に回ると、さっきまでの色々な出来事がまるで夢の中の出来事のように感じられて、瞼が重くなってくる。 

 瞬きをするとすぐに瞼が開いてこない。力を込めないと目が開かなかった。ビールだけは残してはならないと、早いペースで飲み干した。瞬きの度に目に集中して瞼を開け続けたが、そんな努力を続けているうちに、いつの間にか弁当を残したまま深い眠りに落ちてしまった。


 翌朝、幸一は早くに目が覚めた。さすがに昨日の昼から眠り続けただけあって、朝の五時頃には目が開いた。久しぶりに部屋を片付けて洗濯もした。それからトーストを焼いて質素な朝食を取った。 

 コーヒを飲んで雑誌を眺めていると、また眠くなってこくりこくりとし始める。そして、いつの間にか浅い眠りに入り夢を見た。

 バイクで真理と旅している夢を見たが、渋滞に捉まってあちこちで車のクラクションが鳴っている。とても不快な音だった。それが次第に現実の音となって幸一は覚醒した。電話が鳴っている。

「今度はお婆さんでも失踪したのかな?」

 幸一はそうひとり言を言いながら受話器に手を伸ばした。案の定、真理の緊迫した声が受話器から飛び出してきたが、そんな声にも慣れてしまったのか、彼は動揺しなくなっている。

「どうした?」

 幸一は、真理を落ち着かせるように優しく尋ねる。

「母が警察に連れて行かれたの。森っていう人が自殺したらしいの。その自殺に母が関与している可能性があるさかい事情を聞きたいって……。さっき刑事さんに連れて行かれたの」

「わかった。すぐに行く」

 さすがに、幸一も心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。もう自分の力など遥かに及ばない世界に入ってしまった。自分にはもう何も出来ないように感じた。自殺に関与とはどういうことか。真理の母が原因で自殺したのか?母が自殺を幇助したのか?それとも自殺に見せかけて……。テレビドラマでよく演じられるような場面が次々と脳裏に浮かんできたが、一方では冷静にそれを否定したり、その可能性を探ったりしていた。

「幸一さん」

 幸一が玄関を入るなり、真理が心細い声で彼の名を呼んだ。

「うち、どうしたらええの?もうわからへん」

 幸一はにこりと笑ってから、

「大丈夫や。自殺やろ?その森とかいう男との関係なんかを確認するだけや。お母さんは何て言うてはった?」

と、ゆっくり尋ねた。

「心配しないでいいて。お母さんは何も疚しいことしてへんさかい、お父さんにもまだ連絡しなくて良い。て」

「警察の人は?」

「あくまで、参考までに話を聞きたいて言うてはった」

 幸一はまだ不安が拭えない。自殺と明言している以上、事件性は無いと判断しているのだろうが、警察が全く母を疑っていないとも言い切れない。

「まず心配ない。恐らくその森という男が、秋子さんを連れ回して、一昨日はお母さんと会っていた男やろう。そやから、自殺する森が最後に会ったのがお母さんと言うことになる。遺書があるのかどうか知らんけど、きっとお母さんのことなんかが書いてあったのかも知れへんな」

 真理は幸一の言葉を静かに聞いている。

「新聞見せて」

 幸一は、やや緊張気味な指先で、受取った紙面をめくりながら目で走査した。

「これや」

 幸一は紙面に掲載された顔写真を指差した。例の男だ。地方紙なので割に大きく事件を取り上げている。

 男の名前は森修二。そして、太い字で首吊り自殺という文字が事務的に並んでいた。幸一は、激しい動悸を覚えながらも新聞の文字を目で追った。文字以外の周囲の物体すべてがゆっくりと回転している。心臓が大きく響いてその鼓動音が口から出て来そうだ。

 自殺の動機についてはまだ明らかではないが、すい臓ガンで限られた命であったことが第一の原因であろうと報じられている。年齢は五十五歳。職業は竹原建設に勤務。

 幸一は、はっと窓の外の賀茂川の方を振り向いた。確か堤防工事をしているのは竹原建設だったはず。彼は玄関を飛び出す。真理もついて来た。そして、そこで働いている人たちに森修二のことを尋ねて回った。

 彼らの話しによると、森は六月からここの堤防工事に加わったが、七月末には体調不良で辞めてしまったという。前科があって、ずっとひとり暮らしだったこともわかった。そして、森に対する印象は、総じて大人しく真面目だった。

 また、森は二十年も前に惚れた女の写真を今でも大切に持ち歩いていたという事実もわかった。恐らく、その写真は秋子に送ってきた母親の古い写真であろう。

「恐らく森は、この堤防で働いている間に、このうちに出入りしている秋子さんを偶然見つけて、二十年前のお母さんを思い出した。そして表札を確認したんやろ。西原というお母さんの旧姓を確認して、秋子さんがその娘であることを知った」

 部屋に戻った幸一は、ドラマの台詞でも読むような口調で呟いた。すると真理がその言葉を引き継いで、

「そして二十年間大事に持っていた写真を同封した手紙を秋子に送って呼び出した。でも、何のために?」

と、幸一の瞳をじっと見つめた。

  

 夏の日没は遅いが、それでもうっすらと静かな闇が幸一の周囲を包み始めた。東の空には、一番星がもう夜だとばかりにちらちらと輝き始めている。西の空を振り向けば、半紙の上に赤とグレーの絵の具を同時に垂らしたような、複雑なにじみ模様が空に描かれていた。普段の光景と違わず、賀茂川の堤には若いカップルたちが所々で熱い空気を漂わせている。

 秋子が嵐山からの帰宅途中で消え、母親が警察に任意同行した頃からもう二週間ほどが経過している。

 真理の母は警察から即日戻ってきた。母が戻るとすぐに幸一は真理の宅を辞したが、その後、母は詳しい話はしなかったらしい。森とは昔からの知り合いで、余命わずかであるという連絡を受けて会いにいった。森の部屋で朝まで語ったが、やや衰弱している印象は受けたものの、自殺をするような素振りは一切無かった。ただそれだけのことしか真理には話さなかったようだ。

 真理もそれ以上は追及せず、もうこの話題は封印しようと母に提案した。逆に、真理は母に対して、秋子の状況と緊急連絡先、それから幸一が仲介役になっていることを説明したらしい。

 母は一晩だけ京都の実家で過ごしてから姫路に戻った。真理も、祖母の容態が安定してきたのでそろそろ姫路へ戻ろうとしている。そんな連絡を受けて、幸一は北山の炉ばた焼き店で真理と会う約束をした。

 夏の終わりを感じさせる夕暮れの風景を横目に見ながら、足早に約束の店に向かう。真理の祖母の宅から十分強。幸一のアパートからでも歩いていける距離だ。北山橋を東に渡ってすぐの、堤防沿いにある店だ。幸一が店に入ると、既に真理が席に着いていた。カウンターの端で、窓から賀茂川の風景を見渡せる。

「こんばんは」

 真理がにこやかに幸一を迎える。

「よお」

 幸一はいつものように振舞おうとしているが、どこかぎこちない。

「瓶ビール一本」

 席に着くや、大将に飲み物を注文する。

「何を慌ててはるの?」

 真理の落ち着いた瞳が彼の心底にある隠し事を射抜いた。

「別に慌てている積りはないけど。でも真理ちゃんが地元に戻るって言うから、何かいつものように振舞えなくて」

「そう、おおきに。でも電車で二時間ほどの所やし、いつでも会えるやないの」

 実のところ、幸一は先週秋子と会って森との旅の話を聞いたのだが、真理には何も言っていない。この店に来るまでの間、真理に話すべきかどうか迷っていた。

 真理はもう、今回の事件について封印しようとしている。秋子の旅の話で全容がわかるのであればまだしも、肝心なことは何ひとつわからなかった。そんな話をしたところで、却って真理に不安を与えるだけのような気がする。

「何食べはる?」

 真理が小さな両手でビール瓶を支えて幸一のグラスに傾けた。

「そうやな。ハモの天婦羅と鶏皮に豆腐ステーキ」

「珍しいわね、お造りと枝豆は頼まはらへんの?」

 真理が瓶を戻しながら彼の瞳を覗く。幸一はビールを一口飲んでから、

「さんまの造りでも貰おうか」

と言ったが、はっと気づいて、慌てて真理のグラスにビールを注ぐ。真理はにこりと笑みを浮かべた。

「乾杯。いろいろお世話になりました。幸一さんにちゃんとお礼を言わなあかんと思いながら、なかなか気持ちが落ち着かなくて……。今晩はうちのおごりやさかい、好きなだけ飲んで食べて頂戴。あ、実は母にお小遣いもろたの。幸一さんにお礼しなさいって。そやさかい遠慮しなくていいわよ」

 彼女は静かにグラスを口に運んだ。

「おおきに。そう言うことなら遠慮なしに頂くよ」

 幸一はやや高価な肴を二三追加して冷酒も頼んだ。真理もサラダや煮物を頼んで冷酒も少し飲んだ。酒が進んで幸一の心が柔らかくなってきた頃、

「秋子と話したんでしょ?どんな話をしはったのか、うちにも聞かせて頂戴」

と、真理が彼の心を鋭く突き刺す言葉を吐いた。しかし、言葉の割にはほろ酔い気分の朗らかな表情で幸一を見つめている。彼は一瞬躊躇して枝豆を手に取る。

「秋子から電話があったのよ。幸一さんと話したからって」

 とろんとした瞳で幸一を優しく覗き込みながら囁いた。

「何や。君にも連絡があったんか」

 安堵した幸一は、枝豆を口に運んでから玉光(たまひかり)を口に含む。

「うちも、気持ちは落ち着いたさかい大丈夫よ。何を聞かされても驚かへん」

「そんな驚くような話やあらへん。ただ、秋子さんがどんな状況で森という男と一緒に旅していたのか話してもらっただけや」

「どんな風?」

 真理が身を寄せて肩が触れ合う。ほんのりと酔った仕草がこの上無く可憐だ。

「まず、秋子さんは高校時代にお父さんの健康診断書は見ていなかった。というより、そんな騒ぎがあったことすら忘れかけていた。当然、秋子さんは自分の出生に関して何の疑問も持っていなかった。この件は俺たちの思い過ごしやったな」

 幸一はちらりと真理を見てから、すぐに露の付いたグラスに視線を落とした。確かに秋子はそう言ったが、言葉どおりには受け取っていない。秋子の表情に動揺が浮かんでいた。だが真理には秋子の発言どおりに伝えた。

「そうやったの。幸一さんの推理が外れたわね」

 真理はからかう風に横顔を覗き込む。

「ある日郵便ボックスにあの封筒が入っていた。中にはお母さんが写った渡月橋の写真と手紙が入っていた。手紙の内容は、森の氏名と住所、電話番号。それから、森がお母さんの古い友人であることと、娘である秋子にどうしても伝えたいことがあるから、指定日時に指定場所に来て欲しいという旨やった。また、話したい内容の性質上、家族の方にも内密で来て欲しいと書いてあった。

 秋子さんも最初は疑っていたらしいけど、調べてみたら、住所も電話番号も正しいものやった。指定された場所も八坂神社近くにあるホテルのロビーで、昼前の時間やったさかい、話くらい聞いても良いと思って会ってみた」

 幸一は刺身をひと切れ口に入れてしばらく味わった後、酒を運んだ。真理もサラダに箸を伸ばす。

「森の話によると、お母さんが祇園の『クラブすみれ』で働いている時に森と知り合った。秋子さんの部屋にあった例のマッチがその店の物や。森は当時、小さな建設会社を経営していて結構羽振りが良かった。お母さんとはしばらくの間恋人関係やったけど、お母さんに新しい恋人が出来て別れた。そしてその恋人、つまり君たちのお父さんと結婚する前に、森が頼み込んで最後の京都旅行をした。その条件は、どこの宿でも部屋は別にすること、二人一緒の写真は撮らないこと、旅が終わったら今後二度と連絡を取らないこと」

「それであの写真のルートで旅をしはったわけか。何で母はそんな旅行しはったんかな。うちなら絶対嫌やわ、別れた人と旅行するなんて」

 幸一はハモの天婦羅を口に運びながら、笑いがこみ上げてくるのを抑えた。真理は幸一と別れたはずなのに、こうして一緒に食事をしている。

「二人の間にどんな事情があったのかまでは、森は話してくれなかったみたいや。森は秋子さんに、一緒に旅して、二十年前のお母さんとの旅を再現させて欲しいと頼み込んだ。森はすい臓ガンで、あと半年も命が持たないと告白した。本当はお母さんと旅したいが、他人の妻を誘うわけにもいかず、第一、二度と会わないと約束をしている。これは俺の想像やけど、森は秋子さんを見て、二十年前のお母さんを見ているように感じた。まるでタイムスリップでもしたかのような錯覚を覚えたんやないやろか。ある意味、秋子さんや真理ちゃんやから二十年前の旅を再現できる」

「何か微妙やわ。要するに、おばさんになった母より、若い時の母と旅したいってことでしょ。母が聞いたら怒らはるわ。幸一さんの発想やって付け加えとくけど」

 酒のせいか、真理はやや大きな笑い声をたてた。

「森は一枚きりのお母さんの写真を見て過ごしてきたんやで、その後のお母さんを一度も見たことがない。会いたい気持ちもあったやろうけど、いきなり二十年後の最愛の女に会うのは怖いという気持ちもあったやろう」

「男は女に比べて、過去の恋愛に引きずられやすいそうよ、本に書いてあったとおりやわ、おもしろいなあ」

「おもしろい……か。心理学の本か?」

 幸一はビールグラスに残っているビールを飲み干して、溜息混じりに零した。

「それで秋子はその再現旅行に協力したんやね。親子そろってお人好しやなあ」

 真理は呆れ顔で冷酒に口をつける。

「優しい親子やないか。君もちらりと見たと思うけど、白髪混じりの病弱そうな男が、余命半年の人生を懸けて頼み込んだ。君が秋子さんの立場やったら、きっと同じことをしたと思うよ。森は二十年前と同じように、秋子さんと約束を交わした。どこの宿でも部屋は別に取る。写真は撮らない。旅が終わったら二度と会わない。最後の約束は切ないけどな。しかも思い切り贅沢をさせると言った。旅の準備をしていない秋子さんの持ち物も全部買い揃えると約した。何せ森は、残り半年の命であるのに独り身。お金なんて残しても仕方がない。この旅にすべてを懸ける積りやったと思う。その強い思いが秋子さんを協力に導いたんやろう」

 幸一は鶏皮串をつまんで目の前に掲げる。

「それで秋子は、家族に連絡したらあかんて執拗に言わはったんやね。母に知れたら旅を中断させられるかも知れへんさかい」

「そう。お母さんは旅のコースも泊まった宿も知ってはるから、秋子さんを連れ戻されてしもたら終わりや。一日目は秋子さんを説得したり、買い物をしたりしていたから、二十年前のコースどおりではなかった。円山公園にある料亭で食事をした後、蹴上げの高級ホテルに泊まった。清水寺と平安神宮には行かなかったらしい」

「なんや、うちらが行った所だけパスしはったなんて、皮肉やわ」

 真理も肝を串から外す作業を行いながら、片手間に呟いた。

「二日目は、大原にある老舗の旅館で宿泊。山菜料理が美味しかったそうや。俺は好きやないけどな、山菜料理。そして三日目が高雄の旅館で宿泊。巡った名所はだいたい予測したとおりやった。まあ、今となってはそんなことどうでも良いけど」

 幸一は串の半ば辺りを噛んで、一気に鶏皮を口に入れた。ぱりぱりと良く焼けている。

「俺は良く焼けた皮が好きや。これは美味いなあ」

「そう、この前焼鳥屋さんへ行った時にも同じこと言わはったわ。で、何か隠してるの?」

 相変わらずの真理の勘の良さにどきりとする。真理はふっと笑いを漏らしてねぎを箸でつまんだ。

 幸一は秋子と会った時に秋子から礼を言われた。高雄で自分を探しに来てくれた幸一の姿を見つけた時、とても嬉しかったらしい。

 だから、今回も信頼して家族との仲介をお願いしたいと言った。彼にはなぜ、探しに行ったことぐらいがそんなに嬉しかったのか理解できなかったが、深く考えるのは止めにした。女の心理など考えてわかるものではない。

「何も隠して無いよ」

 幸一は口に皮を残したままで弁解する。真理は俯き加減に笑みを零してから、

「秋子は写真の日付のことは知ってはった?」

と言ってねぎを口に入れる。鶏と一緒に食べたほうが美味いのにと反射的に感じながら、

「知ってはった。そのことも森に確認したらしい。そうしたら、単に、お父さんとの子供が先に出来て、つまり真理ちゃんが結婚前に生まれて、結婚が後手に回っただけやって。そう言われてしまうと、つい興奮してしまった俺たちが馬鹿らしく思えるけど。まあ、良くある話に落ち着いて良かった」

と、さらりと説明して真理がこれ以上質問しないことを祈った。

「じゃあ、何で秋子は家に帰って来はらへんの?」

「俺にも良くわからん。聞いてみたけど、何となく顔を合わせづらいとしか説明してくれなかった。これは俺の想像やけど、秋子さんは当時の赤裸々な恋愛関係の出来事を森から聞き出したんやないかな。お母さんが、森からお父さんに移り気しはったんやから、多少の揉め事があっても不思議やないと思う。それで顔を合わせづらいのかも知れへんな」

 幸一は冷酒をくいと飲み干す。そして、

「焼きお握り食べる?」

と、話題を変えようとした。真理はじっと幸一の瞳を見つめて、

「相変わらず幸一さんはわかりやすいわ。でも、可哀想やし今日はこのくらいにしといてあげるわ。幸一さんの言葉に騙されてあげます」

と言って、彼の頬を軽くつねって笑った。幸一は騙している積りなどなかったが、自分が感じたことを隠していることも、彼女を騙すことになるのかと自問してみた。

「うちも幸一さんを騙したし、お相子ね」

 真理はもう一度笑い声を上げた。陽気な彼女を見つめて、彼女は酔っているのかと勘繰ったが、不意に背中に衝撃が走って思わず声を張ってしまう。

「秋子さんから電話があったのは……嘘か?」

「ごめんね」

 真理は愛らしい笑みを浮かべて、幸一の怒りに向かう心を萎えさせる。彼は苦笑しながら串を串入れに放り込んで、焼きお握りを二つ注文した。真理の頬はほんのりと紅く染まって、窓から見える夕暮れの風景に溶け込んしまいそうだった。


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