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焚火のあと  作者: 夢追人
3/6

第二話 再び 一

 朝陽がカーテンの隙間より漏れ入り、応接間で眠っていた幸一の寝顔を清々しく照らしている。彼は真理の声で目を覚ました。遠くで聞こえていた彼女の声が足音と共に近づいてくると、ドアの前でひと呼吸間が空いてからノック音が響いた。

「どうぞ」

 幸一の寝ぼけた声とは対象的に、爽やかな朝風のように真理が舞い込んで来る。

「おはよう。良く眠れた?」

「ああ」

 小さく答えてから眩しげに真理を見上げた時、幸一は自分の愚かさに恥じ入った。明るく幸一に尋ねかけた真理の表情は、一見しただけで睡眠不足であることが伺える。

「朝食の用意が出来てるさかい、すぐに来てね」

『秋子さんは?』と、問いあぐねている幸一のさえない瞳を見抜いたのか、

「秋子はまだ帰ってないの」

と、真理の方からさらりと言ってのけた。

 幸一は居間に通された。同時に八人は食事出来そうな手彫りの木製テーブルが畳部屋に鎮座している。味噌汁の香りと、焼魚の香りが旅館の朝食を思い起こさせた。

「いつもこんな贅沢な朝食食べてはるの?」

 全部で五品ほどの惣菜が並んでいる。真理は当然のように頷いてから、

「幸一さんはいつもどんな朝食食べてはるの?」

と、却って疑問を持たれた。ひとり暮らしをしていると、まともに朝食を取ることなどほとんど無い。

「秘密」

 味噌汁をひと口味わう。出汁の風味が寝ぼけた神経に優しく染み渡ってゆく。

「美味い」

 別段、真理にお世辞を言うつもりは無いが自然と言葉が出てしまう。彼女はにこりと笑ってから幸一にお茶を差し出す。

「おばあさんは?」

 出汁巻きを頬張ったまま尋ねる。

「朝早くに起きて食事しはったけど、また寝たはる。秋子のことは、友だちの家に遊びに行ったはるて誤魔化しといたわ」

「俺のことは何て説明したの?」

「男友だちが遊びに来てはるって」

「それで何て?」

「別に……。ご飯をしっかり食べてもらいなさいとしかいわはらへんかった」

 真理の言葉を聞きながら、焼き鮭と飯を頬張って味噌汁で流し込む。空腹なのでどんどん詰め込みたくなる。

「相変わらず忙しい食べ方しはるわ」

 真理は、幸一の食べ方を懐かしむような目をして、子供のように黙々と食べる彼を微笑みながら見つめている。

「食事が済んだら円山公園に行ってみよか?」

 幸一の言葉に、真理がはっと胸を突かれたような愛らしい表情を浮かべて、

「そうやね、秋子とばったり出会うかも知れへんしね」

と、どこまで本気で言っているのかわからない、やや空虚な言葉を吐いた。濃いお茶を口に運ぶと、苦味を含んだ熱い香りが、まだ半分しか覚醒していない幸一の脳裏を刺激する。そしてほっと息を吐いて虚空を見つめる。

 そして複雑な心境に陥った。秋子が今日中に帰って来なかったら、日常生活から掛け離れた『事件』となって、家族を不安の渦中に巻き込んでゆくだろう。だが、今日中に帰ってくれば、どんな問題を持ち込まれたとしても、また元のような日常生活の中で徐々に解決されてゆくような気がする。

「聞くだけ無駄やと思うけど、お母さんの秘密みたいな話しとか、怪しい過去の話なんて聞いたことないよなあ?」

 プライベートな情報なので遠慮気味に尋ねてみる。

「当然。知っていたら秘密やないわ」

 真理は笑顔を浮かべて温かいお茶をすすった。

「秋子さんに何らかの情報を渡して特をする人がいるのかなあ。または秋子さんから情報を聞き出したいのか……」

 幸一は、覚醒してきた頭に浮かんでくる疑問をひとり言のように口に出した。

「家族のことを聞きたいのなら私でも良かったのに。姫路の家の住所は知らはらへんのかしら、その男は」

 真理も客観的な口調で推理し始める。

「もし、男がここの住所しか知らないなら、お母さんがここに住んでいた頃の知り合いで、それ以降は付き合いが途絶えているということになる。そもそもお母さんはこの家にいつ頃までいたはったの?」

「結婚するまで居たらしいわ」

「結婚して家を出て行かはった。と言う事は、秋子さんが子供の頃にこの家で暮らしていたことは無かった。じゃあ、何で秋子さんが今ここに住んでいることがわかったんやろう」

「祖母の知り合い関係かな。秋子が一緒に住むことを祖母が知り合いに話した。その話が回り回って男の耳に入った。それしか考えられへんわね」

「お祖父さんは?」

「私らが小さい時に亡くならはった」

 真理は幸一の瞳を見つめた後お茶を飲み干した。

「そやけど、旅館に泊まり込んでまで何を話してはるのかしら。何か怖い気もするわ」

 そう言って幸一の湯飲みをちらりと覗く。真理の至極自然な疑問に幸一は脳裏を針で刺されたような閃きを感じたが、まだ安易に口にすることは自制した。


 さすがに平日の午前中では観光客は少ない。二人は四条通りをゆっくりと歩き八坂神社までやって来た。そして荘厳な朱塗の西楼門を潜ると、門外の騒々しい生業の協奏曲とは打って変って、神木に囲まれた、ひっそりと落ち着いた冷厳な気に二人は包まれた。

 幸一にとっては全くと言って良いほど興味の涌かない、小さな祠がたくさんあって難解な漢字が並んでいる。数多の提灯で装飾された鳥居をいくつか潜り抜けると、祇園造の荘厳な本堂が現われた。祇園造というのは本殿と拝殿が一つの屋根で覆われた珍しい造りのことらしい。

 神社であるから当然のことながら参拝の人々がいる。鳩もいる。敷き詰められた小石の隙間を、鳩たちが呆れるほどの素早い動作で突いている。

「御参りしていきましょ」

 真理が過去に吸い込まれそうな語気で誘う。

「御参り?」

 ふと交錯した二人の視線は同時に過去の記憶へと散ってゆく。初めてのデートは、書写山という標高四百メートル程度の小山の頂にある、天台宗円教寺への初詣だ。そして、二人が最後の時間を過ごしたのも同じ場所だった。

 あれから二年の月日を経た二人が再び神仏を参詣して、ここからまた何かが始まるかのような予感を、二人の記憶が運んで来た。

「そう言えば、幸一さんは御参りするのが嫌いやったわね」

 初めてのデートだというのに、幸一は神仏に手を合わせるのが嫌いで、真理が詣でている姿をじっと見ていた。そのことを思い出した真理は、爽やかな笑顔だけを置去りにして、ひとりですたすたと歩いてゆく。しかし、幸一も静かに彼女の後に続いた。

「最近は俺も御参りするようになった。京都にはたくさんのお寺や神社があるのに、御参りせんかったら罰が当たるさかい」

 真理は軽く幸一を見上げて、本当に神仏を敬う気持ちが出来たのか、それとも、何でも女子に合わせる軟派な男になってしまったのかを探るように、清潔な笑いを浮かべて幸一の瞳の奥を覗いた。

「いつも、どんなことをお願いしはるの?」

 真理は玉砂利の音を立てないように、俯いたまま小さな歩幅で歩んでゆく。

「この世から、ありとあらゆる災害や人災が無くなって、人類すべてが平和に暮らせますように……」

 幸一はふと空を見上げた。今日も一日暑くなることを、背に感じる強烈な日射しで予感しながら、青空を美しいと思った。

「ほんまに?誰かさんと仲良くなれますようにとかお願いしてはるでしょ、ほんまは」

「たまにはね、真理ちゃんともう一度仲良くなれますように、とか……」

 真理は軽く笑ってポシェットの中を探り始めた。幸一はその一瞬の美しい恥じらいを目に捉えながら、初詣の夜もそうしたように、ポケットから小銭を一掴み取りだして彼女に差し出した。

 真理もまた、あの夜のように小首を傾げて彼の瞳を伺い、百円玉をつまんだ。二人は拝殿に立って厳粛に合掌する。

「なんてお願いしたの?」

 答えはわかっているが敢えて尋ねてみる。

「勿論、早く秋子が帰りますように、て。幸一さんは?」

「一刻も早く秋子さんを見つけ出して見せます」

 真理は口元に笑みを浮かべただけで、黙したまま静かに拝殿から離れて歩き始める。

「どうかした?」

 幸一もゆっくりと玉砂利を踏みながら彼女の横顔を伺う。

「何でもないの、おおきに」

 その瞬間、鳩たちが群れを成して舞い上がり、その嵐のような羽根音に周囲のすべての音が飲み込まれて、二人の周囲が過去に戻ったような錯覚に陥った。二人は八坂神社を抜けて円山公園へ進んだ。そして花の無い桜並木の下を歩いていく。

「春は綺麗でしょうねえ」

 真理は、青葉しか付いていない桜の枝を見上げて、その隙間を群青色に敷き詰めている夏空に嘆息を投げ掛ける。満開の桜を想像した感嘆の嘆息なのか、現在の不安から零れ落ちた溜息なのか、幸一には推し測れない。

 春には円山公園の中心となる枝垂れ桜の大木や、幕末志士のモニュメントを眺め、幕末の頃から営業しているという御茶屋で一休みした。

「まあ、ざっとこんな所ですけど、円山公園は」

 今日初めてのコーヒーを味わいながら幸一は真理の瞳を見つめる。

「知ってるわよ、家族で夜桜を見に来たことがあるさかい」

「なんや。はよ言ってくれよ」

「でも、幸一さんの案内は参考になるわ」

「何の参考?」

「観光客が喜びそうなポイントを押さえてはる。多分、たくさんの女の子を案内しはったんでしょうね」

 真理は紅茶を口に運びながら、からかう風に幸一の瞳を覗きこむ。

「……」

「ほんま、昔から幸一さんはわかりやすいわ」

 今度は口に手を当てて、彼女はくすっと笑う。昔から自分を子供扱いする真理の態度にどう反応すれば良いのか困惑することが多いが、やはり苦笑するしか術は無い。

「これからどっちへ行く?」

 幸一は分の悪い状況から速く脱しようとしている。

「清水の方へ行ってみたいわ」

 真理は軽く語尾を上げて、紅茶を飲み干した。

 茶屋を出た二人は、円山音楽堂の横を抜けて、趣のある石畳の街並をぶらぶらと歩く。そして、高台寺へ通じる青葉のトンネルのような階段を、少しの間立ち止まって見上げた後再び歩み出し、産寧坂まで歩を進めてきた。

「清水も来たことがあるの?」

 真理は小さくかぶりを振る。円山公園でもそうだったが、彼女は周囲の風景や店には余り興味を示さず、行き交う若い女性を全員確認するくらいの集中力で眼球が迅速な動きをしている。

 産寧坂を上がり、長い清水寺の坂道を上り詰めると、背中に幾筋もの汗が流れてきた。強い日射しが嫌がらせのようにじりじりと照り付けてくる。

 清水寺の舞台からの眺めは絶景だ。日向と、青葉の日影がくっきりと境界線を描いた盛夏の風景。二人は舞台の手摺に並んで身をもたげながら、まばゆい風景を全身で吸い込んだ。

「ここから見える街のどこかに、秋子はいるのかなあ」

 真理の吐息のような言葉を聞いた幸一は、秋子がすぐに帰って来ないことを、真理も予感しているのではないかと思った。だが、そんな思いは微塵も表さず、彼女の不安を吸収することが出来るように、優しい気持ちだけを胸いっぱいに湛えてみた。

「ごめんね、秋子のことばかり考えていて。折角、幸一さんが側にいたはるのに」

 真理が申し訳なさそうに謝る。彼は小さく首を振って、

「何も気にしてへんよ。俺も秋子さんのことばかり考えていたさかい……」

と、笑顔を浮かべた。

「でも、わかっていたことやけど、ここへ来てみても秋子とは会えへんかったし、手掛かりも無かったわね」

 真理は幸一に笑顔を返したものの、すぐさま空蝉のような表情になって音羽山の方をぼんやりと眺めた。

「秋子さんの机から出てきた写真の中にも、この清水寺の写真があったような気がする」

 幸一はひとり言のように言葉を吐いてみる。

「そう……」

 太陽が益々高く上り始めて大地を照りつけている。幸一は左手首で額の汗を拭ったが、真理は全く無表情だった。


 秋子の部屋で、幸一はモノクロの写真を一枚ずつ確かめている。秋子の椅子に座って、机の上に写真を広げている。そうして、その中の二枚を取り出して目の前にかざしてみた。

 やはりあった。清水の舞台で音羽山を背景に一枚。音羽の滝の前で一枚。幸一は、場所を確定すると言う観点で他の写真も順々に繰ってみたが、平安神宮と銀閣寺、それに嵐山で撮ったと思われる物が数枚判別できる程度で、他の物は、どこで撮った写真なのか良くわからない。そして全ては真理の母親がひとりで写っている。

 背景にしても建物や自然の風景が部分的に入っているだけで、場所を確定できるような物は写っていないし、モノクロ写真で二十年も前の風景であるから、場所を特定出来ない物がほとんどだ。

 そこへ、一階でお茶を入れていたはずの真理が、心持ち緊張した面持ちで幸一のいる秋子の部屋に飛び込んできた。

「今、秋子から電話があったの。大原にいるって」

「ひとりで?」

 幸一の声に彼女は首を横に振る。そして自分を落着けるかのように、スカートの裾を整えながら静かにベッドに腰掛けた。

「大事なことは何も言わはらへんの。大丈夫やさかい心配せんといて、二三日で帰るとしか……。後は何を聞いても、とにかく安心して待っていて。それからお母さんには絶対言うたらあかん。て、念を押されたわ」

 彼女の声は、だんだんと沈着な語気に収まってきた。

「やっぱり。しばらく帰って来ないか」

 そう呟いてから幸一は再び写真を繰り始める。

「やっぱりって、何でそう思わはるの?」

 真理の鋭い目の光が幸一に注がれる。あまり認めたくない推測なのであろう。

「何となく……。気に障ったらごめん」

 真理もそう感じているはずだと思いつつ言葉にはしなかった。真理の表情が一時は硬くなったが、やがていつもどおりの涼しい表情に戻って幸一の仕草を見つめる。次の言葉を待っているかのようでもある。しかし、幸一はそんな彼女の視線には全く気付きもせずに、写真を見つめながらじっと考え続けている。

「そうか、大原か。三千院やなあ、恐らく」

 幸一はひとりで納得したかと思うと、写真を左手に束ねてから真理のそばに近づいた。そして軽く彼女の肩に手を添えてからその隣に腰を降ろした。

「秋子さんは大丈夫やから心配せんといてって言わはった。秋子さんは君の心を案じて、君がこうして不安になったらあかんと思って電話しはったんや。彼女には、君の事を心配出来るほど余裕があるさかい、きっと大丈夫や。そやさかい冷静に事実を受け止めなあかん」

 真理の肩を優しく叩きながら幸一は静かに諭した。真理は彼の右肩に額を当てて小さく頷く。

「ほら、これ見て」

 幸一は真理の肩を抱いたままで、数枚の写真を彼女のデニムスカートの上に広げた。スカートからはみ出た白い脚が気になったが、今はそんな状況ではないと敢えて意識から外した。真理は幸一のそんなささやかな動揺など全く気付かない風に、彼の肩に頭をもたげたままで、広げられた写真をぼんやりと見つめている。

「この二枚は円山公園で撮ったもの。そしてこれは清水寺」

 幸一の言葉に真理は反応することなく、示された写真を見つめたままで言葉の続きを待っている。

「これは多分、三千院の中庭やと思う」

「それで?」

 きょとんと見上げた彼女の長い睫毛が、まるで付け睫毛のように綺麗に上向いている。

「それだけのこと」

 あっさりと彼女への回答をはぐらかす。

「ちゃんと言うて。何を聞いても大丈夫やさかい」

 幸一はちらりと彼女の瞳に視線を置いてから、

「要するに、昨日から今日にかけて秋子さんが行かはった所は、昔、お母さんが行かはった所と同じなんや。秋子さんは二十年前のお母さんの知り合いと、二十年前の旅行を再現しているのかも……」

と、静かだが、部屋に響き渡る低い声で説明した。

「旅行?何のために?」

 真理は思わず反発的な語気で疑問を投げたが、すぐに冷静な表情に戻った。

「母がひとりで写った写真しか無いのに、二人で旅行したことになるの?」

「この写真を撮った人が必ずいるはずや。京都生まれの京都育ちのお母さんが、京都の有名観光地をひとりで旅して、カメラの自動シャターや、通りすがりの人に頼んで自分の写真を撮ってもらうなんてかなり不自然や。一緒に旅した男とお母さんが恋愛関係やったかどうかはわからへんけど」

「本当は、二人で写った写真もあったのかも」

 真理は写真をきれいに束ねながら零した。

「昔別れた彼女から聞いたけど、彼女は俺が写った写真を全部破いたらしい。別れた日の夜に……」

 相変わらず何でも正直に話してしまう幸一を、真理は驚きと愛情を含んだ視線で包んでから、

「そう考えるのが一番自然やね。母はその男と旅をした後、喧嘩でもしたのか、男が写った写真を全部捨ててしまった。自分が写ったものだけ思い出に置いてはったけど、そのうち置いていることすら忘れてしまわはった。それをたまたま秋子が見つけた」

と、かなり客観的な結論を出した。

「そうやとしたら、何のために秋子さんと一緒に過去の旅を再現する必要があるのか。電話の内容からしても、何となく秋子さんもその男に協力しているようにさえ感じるけどなあ」

 幸一が疑問だけを置いて立ち上がる。そして真理の手から写真の束を取って秋子の机に戻った。

「私もそう感じていたの。秋子が男に協力しているような感じ。そやから、母に連絡したらあかんて何度も言うのも、心配させたくないだけでなくて何か理由があるのかも……」

 真理の言葉に幸一は背中を刺されたような驚きを感じて、

「なるほど。確かにあり得る話しや」

と、驚嘆の表情で彼女を振り返った。真理はにこりと微笑み返しをしてから窓際へ歩み寄る。幸一はすべての写真を集めて、写真の裏に記された日付順に分類を始める。

「昭和四十八年九月二十七日」

 彼は、ぶつぶつと口篭りながら仕分けをしていく。

「秋子ももっと電話くれたらええのに」

 開け放った窓から割り込んでくる堤防工事の音が、折角の川風を暑苦しいものにしている。真夏の強い陽射しが彼女のやや陰鬱な表情に反射して、妙なコントラストを醸し出している。

「無理やり協力させられているのかも」

 唐突に振り返った真理がやや張り詰めた声を出したが、幸一は別段驚きもせずに平然と答える。

「その可能性は大やと思う。何の接点も無かった男にいきなり協力するなんて普通は有り得ないよな」

 真理は微かな笑みと信頼の眼差しを幸一に送ったが、彼は全く気づかずにいる。

 真理は手持ち無沙汰に部屋の中をうろつき始めた。そうして時折幸一の方を盗み見たが、彼は秋子の椅子にふんぞり返って頭を抱えたり、目を閉じたりしてしきりに考え込んでいる。真理はふと、煤ぼけた戸棚の上に陶器の灰皿が置いてあるのを見つけて、

「煙草、やめはったの?昔はよう吸うてはったのに」

と、幸一の興味を引くように話題を提供した。だが、幸一は苦笑いを浮かべるだけで返答しない。

「二十歳にならはったんでしょ?」

「ああ」

「ほんなら堂々と吸えるわね?いつ二十歳にならはったの?」

「七月四日」

 彼は粗暴に答えたが真理は気にも止めずに、

「私は四月十日よ、覚えていてくれはった?」

と、冗談気味に語尾を跳ね挙げてから部屋を出て行こうとした。と、その瞬間、

「何やて!」

 幸一の張り詰めた声が彼女の背中を貫いた。

「どないしたん?大きな声ださはって」

 彼女の顔が青ざめて可哀想なくらいだ。

「ごめん。君の誕生日は昭和四十八年の四月十日なんやね?間違いないね」

「そうよ。やっぱり忘れてはったの、悲しいわ」

 真理は平静に戻った様子で、わざと拗ねた表情を作って見せる。

「いいか、この写真は昭和四十八年の九月二十七日から三十日の間に撮影されたものや。つまり、男とお母さんが旅をしていた時、君はもう生まれていたんや。お母さんはもう結婚してはった。普通に考えると……」

 真理はすべてを聞き終える前に、柱に寄り掛かったまま力なく床に崩れ落ちた。

「秋子さんはこの写真を見た時に、日付のことに気づかはったんやなあ。そやけど相手が知れへんさかい、不可解なまま放っておいた。そこへ、ある日手紙が来てお母さんの写真が同封してあった。しかもその写真は、この束になった写真と同時期に撮られたもののようやった……」

 座り込んだ真理はぼんやりとうつ向いたまま身動きひとつしない。

「秋子さんは、この辺りの事実をねたに、何かに協力させられているのかも知れへんな、お母さんを傷つけまいとして。だから執拗に、お母さんに連絡したらあかんと言っている」

 真理にとって冷たい現実を突きつける幸一の言葉が彼女の心を凍らせる。彼女はしばらく床を見つめたまま呼吸すら忘れているような様子だったが、やがて静かに立ち上がり、精一杯の作り笑顔を幸一に送った。

「冷たいコーヒー飲まはる?」

「ありがとう」

 夢遊病者のように不規則な真理の足音が、静かに階段を下りていった。


 一階からアイスコーヒーを運んできた真理は、幸一の横顔をちらりと確認してから、秋子のベッドの枕元にある、五十センチ四方のガラステーブルに盆を置いた。

「写真をじっくり見て二人のコースを整理してみたんや」

 真理の動きなど全く気にしていない様子の幸一が小さなメモを手にして、自慢げに彼女の表情を伺った。真理は落ち着いた表情で幸一のグラスをコースターと共に秋子の机に運ぶ。

「シロップはいらなかったわね?」

「うん」

 彼女はコースターを敷いてグラスを置き、フレッシュミルクを幸一の手元に置く。

「どんなコース?」

 ベッドに戻りながら尋ねるが余り興味は無さそうだ。

「一日目、円山公園―清水寺―平安神宮―銀閣寺。二日目、大原三千院―寂光院。三日目、銀閣寺―龍安寺―清滝―高雄高山寺。四日目、松尾大社―大覚寺―嵐山。お母さんがひとりで写ってる写真ばかりやし、写さなかった所もあるやろうから、抜けている所があるかも知れへんけど、だいたいこれ位やと思う」

 幸一は静かに語った後、目を閉じて椅子にもたれ掛かる。レースの白いカーテンがなびいて、涼しい微風が舞い込んで来る。真理はベッドに腰掛け自分のグラスにシロップを注ぎながら、

「そう」

と、他人事みたいに呟いた。もっと関心を抱くだろうと期していた幸一はちょっと落胆する。しかし、まだ先ほどの衝撃が尾を引いているのだと感じて、無表情のままフレッシュをグラスに注いだ。そして白い液体が地下水のようにコーヒーの中へ潜り込んでいく様子を見て、不思議な落ち着きを覚えた。

「じゃあ、三日目のコースを辿ればどこかで秋子に会えるかも知れへんわね」

 真理がストローに口を付けて氷の音を響かせる。

「二十年前のこの日はあまり天気が良くなかったみたいで、影がぼやけて良く見えない」

 数分前に真理と同様なことを考えていたので、すぐに返答できた。

「影が見えないとどうなの?」

「時間の見当がつかない。何時頃に撮った写真なのかわからないから、何時どこへ行ったのか、どういう順番で旅したのか確証がない。さっき言ったのは俺の勝手な旅行プランやからな」

 幸一は小さく吐息をつく。

「なるほどね……」

 真理も少し目を伏せてコーヒーを流し込む。しばらくの間、ぼんやりと写真を見つめていた幸一が、突然笑顔になった。

「どうしはったの?」

 真理も小首を傾けて小さく笑う。

「何でもない。でもこんな時に、こんなこと言うたら悪いと思うけど、俺は今、とても幸せなんやて気づいたんや」

「……」

「君とこうして一つの問題に取り組んでいることが」

「問題が他のことやったら良いのにね。でも、私も幸せよ。それに、こんなに真剣になったはる幸一さんを見るのも久しぶりやもの」

 真理がグラスをテーブルに戻す寸前、雫がきらりと輝いて床に落ちた。

「そもそも口を利くのも久しぶりやから」

 幸一はグラスから雫が流れ落ちる前に一気に飲み干してしまう。

「口は利いてないけど、時々は幸一さんのこと見てたんよ。三年生の時のソフトボール大会では真剣に投げてはった」

「君のクラスと決勝で戦ったな。敵を応援している君にむかついていたけど」

「だって自分のクラスやもの、応援するわよ。幸一さんはピッチャーで球が速かった。でもうちのピッチャーも上手かったから、投手戦で締まったゲームやったわ」

 真理は懐かしそうに話しながら脚を組んだ。

「良く覚えてるな」

 幸一はグラスを置くとゆっくりと椅子から立ち上がる。

「そりゃあ、あんなに印象に残るゲームやもの、覚えてるわ。七回裏ツーアウト満塁。得点三対二。後ひとつアウトを取ったら幸一さんチームの優勝。最後の打者が打った当たりはボテボテのゴロ。運悪くピッチャーとサードの間に転んで、幸一さんがダッシュして捕球。ファーストに投げた剛速球が暴投。ボールがミットを弾いて転がる隙に逆転サヨナラ。楽しいゲームやったわ。うちらの優勝に貢献してくれてありがとう」

 真理は明るく笑っている。

「今の解説にはひとつ誤りがあるよ。俺の送球は暴投やない。あれはファーストのエラーや」

 どうでも良いと思いながらも、悔しいので訂正した。そしてベッドに腰掛けている真理の横に並んで座る。

「まあ、俺の人生なんてあんなものよ」

 幸一は軽く笑いながらも、何をやっても中途半端だった高校生活の虚しさが蘇ってきた。

「たかがソフトボール大会でも、全校三十チームの中で優勝するのは大変なことやと思うわ。決勝まで進んだだけでもすごいやないの」

 幸一は、そんな昔のことよりも、ミニスカートから伸びている彼女の白い脚が気になって、平静を装うのに苦労している。

「今夜、木屋町にでも飲みにいこか?」

 気分を一新して幸一が提案する。

「連れてってくれはるの?嬉しいわ。焼鳥屋さんに行きたい」

 真理が喜々として幸一の腕を握る。

「焼鳥ね、了解。じゃあ、五時に上賀茂神社バス停に集合しよう」

 幸一は立ち上がって窓の外に視線を伸ばした。工事の音が再び大きくなって、彼の耳に不快な響きを与えていた。

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