陽だまり村
陽だまり村の朝は、小鳥のさえずりよりも先に、ガレスの野太い声で幕を開ける。
木製の小さな小屋に差し込む朝日が、埃を白くきらめかせて宙を舞っている。
ヒロは重たい瞼をこすりながら、毛布の中にさらに深く潜り込んだ。
扉の向こうから聞こえるガレスの声は、今日も今日とて容赦がない。
「ヒロー!剣の修行行くぞー!」
「……うるさいな、朝から」
掠れた声で呟くが、分厚い木の扉一枚隔てた向こう側にいるガレスには、蚊の羽音ほどにも届いていないらしい。
むしろ、その拒絶が火に油を注いだのか、扉がバン!と小気味よい音を立てて叩かれる。
「もうとっくに朝だぞ!昨日、特訓の約束しただろ?早くしないと、今日の分のご飯当番、ヒロが全部やることになるぞ!」
ヒロはため息をつき、寝癖も直さないまま体を起こした。木の床がギシリと鳴り、窓の外を見ると、陽だまり村ののどかな風景が広がっている。
遠くの方で羊が鳴き、村人たちが一日の仕事を始めようと活気づいているのが見える。
ヒロは布団から這い出し、隅に立てかけてある木剣に視線を落とした。
ガレスの言う「剣の修行」とは名ばかりで、その実態は村の外れの岩場まで全力疾走し、そこから朝の仕事開始までひたすら素振りや組み合いを繰り返すという、体力自慢の彼らしいハードなメニューだ。
昨日、断りきれずに頷いてしまった自分を恨めしく思う。
「どうせガレスがご飯作ったら黒焦げになるだけでしょ」
そう返事をすると、外からは「おっ、ようやく起きたか!」と、勝ち誇ったようなガレスの笑い声が返ってきた。
ヒロは水差しで顔を洗い、冷たい水でようやく頭を覚醒させる。
腰に木剣を差し、扉の鍵を外すと、眩しいほどの朝の光が小屋の中に雪崩れ込んできた。
そこには、すでに汗ばむほどの勢いで準備体操をしているガレスが、満面の笑みで立っていた。
「よお、寝不足って顔だな。だが、修行は甘くねぇぞ。昨日の続きから、徹底的にやるぞ!」
ヒロはガレスの熱気に気圧されながら、一歩、陽だまり村の土を踏み締める。
この村の平和な日常とは裏腹に、今日もまた、心身ともに削られる一日が始まろうとしていた。
今にも飛び出さんばかりに駆け回っているガレスを横目に、あえてゆっくりと戸締りをする。木の軋む音が、ヒロの気怠げさを強調するように響く。
「おいおい、ヒロ!そんなのんびりしてたら、日が暮れちまうぞ!」
ガレスが地団駄を踏み、じれったそうにその場で足踏みを繰り返す。
しかし、ヒロはそんな相棒の焦燥などどこ吹く風といった様子で、陽だまり村の土を静かに踏みしめて歩き出した。
この村は小さい。
山あいにひっそりと寄り添うようにして並ぶ家々は、どこもかしこも顔見知りばかりだ。お互いに両親を早くに亡くし、残されたガレスとヒロ。
そんな境遇の二人を、村の大人たちはまるで自分の子のように——いや、それ以上に温かく見守ってきてくれた。
ヒロは、道沿いに並ぶ家々の前を通るたび、丁寧に頭を下げる。
「おはようございます。いい朝ですね」
「あら、ヒロちゃん!今日も元気に修行ね。頑張るのよ!ガレスくんもあんまり無茶しないのよ!」
すれ違う村人たちが笑顔で返してくれる。立ち止まり、言葉を交わす。
村の朝は、こういった挨拶で始まるのが習わしだった。
村のメインストリートを抜け、焼きたての香ばしい匂いが漂うパン屋の前に足を止めた。忙しそうに立ち回る店主の姿を見つけ、いつものように声をかける。
「おはようございます」
店主はヒロと元気なガレスの顔を見るなり、目尻を下げて笑った。
「おはよう、ヒロ、ガレス。さあ、今日は少し多めに焼けたんだ。持っていきな」
差し出されたのは、温もりの残る焼きたてのパンだ。(いつも多めに焼いてるね)ヒロが心の中で小さくため息をついた、その横でガレスは「うぉ!今日もうまそうな匂い!」と乱暴に受け取る。
ヒロは丁寧にお辞儀をした。
「ありがとうございます。いただきます。」
手渡されたパンの温かさが、手のひらから全身へ、じんわりと心まで溶かしていくようだった。
ヒロは受け取ったパンを大切そうに握りしめた。
——非効率だ。
頭の片隅で、冷静な自分がそう分析する。剣の腕を上げるためなら、一分一秒でも早く岩場に向かい、素振りを繰り返す方が遥かに生産的だ。
挨拶に時間を割き、村人たちの厚意を貰い受ける。そこに剣術の技術的な向上は何一つ含まれていない。
しかし、胸の奥底で、ふつふつと湧き上がるこの熱のようなものは一体なんだろう。
冷え切った朝の空気が、村人たちの笑顔とパンの温もりによって、少しずつ溶かされていく。それは、ただの情という言葉で片付けるには少しだけ重く、けれど、何よりも心地よい重さだった。
(……悪くないな)
パン屋にとっても利益にならない、生産性のない行為。
けれど、それが積み重なって形作られるこの穏やかな場所を、ヒロは心の底から嫌いではない——いや、むしろ愛おしいとすら思っていた。
「おい!ヒロー!とっとと食って修行行くぞ!」
後ろからガレスの野太い声が追い越していく。ヒロは静かに微笑み、温かいパンを一口齧ってから、ようやく駆け出した。
陽だまり村の外れ、鋭く切り立った岩場は、二人にとっての戦場であり、遊び場でもあった。
ガレスの足音が激しく砂利を跳ね上げる。
彼は咆哮とともに、まるで暴風のような勢いで木剣を振り下ろしてきた。
ヒロの視界には、ガレスの肩の動きから剣筋まで、全てが手に取るように映っている。
「……またその大振りか」
ヒロは微かに息を吐くと、最小限の動きで半身に回り込んだ。
長年、同じ飯を食い、何百回と剣を交えてきた相手だ。ガレスの癖も、追い詰められた時にどちらへ逃げるかも、呼吸の回数すら知っている。
ヒロの木剣が、しなやかにガレスの懐へ滑り込む。
ガレスの剣を右へいなし、空いた隙間に左の小手を打つ。
踏み込みの甘いガレスの足を払い、バランスを崩した背中に一撃を入れる。
「隙だらけだぞ、ガレス」
ヒロは涼しい顔で、ガレスの攻撃をすべて無効化し、まるでダンスを踊るかのように軽やかに「点」を積み重ねていく。
ヒロの剣術は論理そのものだった。
距離、重心、重心移動。最適解を導き出し、それを実行するだけ。
しかし。
「うおおおっ!」
ガレスが地面を強く踏み締める音がした。次の瞬間、空気が変わった。
ガレスはヒロの動きを読もうとも、論理的に考えようともしていない。
ただ、ヒロの剣先が自分の懐に入ろうとしたその瞬間、獣のような直感——あらかじめ定められた未来を強引に書き換えるような——狂気じみた一撃が、ヒロの脇腹に深く突き刺さった。
「ぐっ……!」
重い衝撃がヒロの胴体を突き抜ける。防御の態勢を整える前に、強烈な圧力を受けてヒロの体が宙に浮いた。
そのまま岩場に背中から叩きつけられ、ガラガラと小石を巻き込んでひっくり返る。
視界が回転し、突き抜けるような青空が見えた。
「……った……」
痛みに顔をしかめながら立ち上がろうとすると、頭上から大きな影が落ちてきた。
ガレスだ。
彼は息を切らしながらも、ニカッと笑って手を差し伸べてくる。
「考えてばっかりだからこうなるんだ、一本取ったぞ!」
ヒロは差し出された手を取らず、自分で砂を払って立ち上がった。脇腹の鈍痛が、今の光景を現実だと告げている。
分析すればするほど、ガレスの動きは支離滅裂だ。剣道の教科書に載せれば、すべて「不正解」と赤線を引かれるようなデタラメな動き。
理論のかけらもない、無茶苦茶な荒業。
だが、今の攻撃は——完璧だった。
「……まるで獣だね」
ヒロは自分の脇腹をさすりながら、どこか呆れたような、しかし隠しきれない敬意を込めて呟いた。
「天才だよ、ガレスは」
そう言ったヒロの表情には、自分の計画が崩された悔しさよりも、相棒の持つ予測不能な輝きに対する純粋な驚きが滲んでいた。
ガレスは「へへっ、もっと褒めろ!」と大声で笑い、次の手合わせをせがむようにまた木剣を構えた。




