6話
それからどれくらい走ったか。
月の光さえ拒む深い森の中。
静かに、シリウスは片膝をつく。
枝葉の影が交錯する場所。
岩と木の根が寄り添う窪地。
風が直接当たらず、土も湿ってはいない。
(ここなら、少しの間であれば)
彼は腕の中のフィアをそっと抱え直し、外套を緩めながらその顔を覗き込んだ。
「……フィア様」
名を呼んでも、返事はない。
だが目を閉じたままの睫毛が、微かに震えている。
「失礼します」
手袋を外し、フィアの額に手を添えると、その温度に眉がわずかに寄る。
「……やはり」
フィアが身に纏っている祈りの衣装は、あまりに酷だった。
刺繍や宝石の装飾は多くとも、防寒にも実用にも向かないそれは、今や冷えを吸い込むだけの布だ。
喉を鳴らし、シリウスは外套の中で手早く、衣の下に腕を滑り込ませる。
甲冑の隙間を最小限に抑えた装備の中で、
胸当てを外し、自らの体温が伝わるように抱き直す。
彼女の呼吸が、少しだけ深くなる。
その変化に安堵する一方で――
彼の瞳は夜の奥を睨んでいた。
(このままでは、まずい)
森を抜けるには数時間はかかる。
だが、この状態で無理をさせれば、それこそ命に関わる。
体温を奪う夜の空気。
聖女として縛られていた日々の疲労。
そして、この夜に起きた恐怖。
今、彼女はすべてを背負ったまま、逃げているのだ。
外套を更に包み込むように整え、シリウスはフィアの髪を撫でる。
その行為に、迷いはもうなかった。
再び歩き出したシリウスは足を止めない。
枝を払い、蔦を踏み越え、森の奥へと進むうち――それは、突然現れた。
半ば崩れた石壁。
屋根はところどころ抜け落ち、尖塔は折れ、蔦と苔に絡め取られている。
意図して探さなければ、ただの岩の塊として見過ごしてしまうほど、森に溶け込んだ建物。
それは古い礼拝堂だった。
だが、教会に仕える彼ですら、その名を知らない。
記録からも、祈祷の系譜からも、すでに切り離された場所なのだろう。
(……ここなら)
人の祈りが絶えた場所、
神の視線も、司教の支配も、届きにくい。
シリウスは音を殺して扉の残骸を押し開け、中へ滑り込む。
中は、静まり返っていた。
祭壇は欠け、聖印は削れ、床には落ち葉と瓦礫。
だが――風は弱く、壁はまだ夜気を遮っている。
彼は迷わず、祭壇の影へ向かった。
石で作られたその壇は、外からの視線を遮る。
追手が来たとしても、すぐには見つからない位置。
シリウスは膝をつき、腕の中のフィアを、まるで壊れ物を扱うように、ゆっくりと横たえた。
「シリウス……?」
微かに瞳を開き、不安そうにシリウスの姿を探す。
「はい、ここにおりますよフィア様……」
床に引いた外套を、背と肩を支えるように整える。
冷たい石が直接触れないよう、何度も位置を確かめる。
壁の隙間から、細い月光が差し込む。
それは偶然のようで、あまりにも静かな導きだった。
光は、フィアの頬に落ちる。
青白いのに、熱を帯びた肌。
伏せられた睫毛が、わずかに影を作る。
シリウスは、その顔を見下ろしたまま、しばらく動けなかった。
何かを求めるようなフィアの手に触れる。
額の熱さとは対照的に凍りつくような指先。
シリウスに迷いはなかった。
甲冑の留め具に指をかけ、音を殺して外していく。
肩当て、外套の留め。
夜風を凌ぐとはいえ、礼拝堂の空気は冷えている。
外套越しとはいえ、石の床もフィアの体温を奪い、内側から熱を引き出している。
だが、彼の身体はまだ走り続けていた名残で熱を帯びていた。
シリウスは床に寝かせたフィアの身体を外套ごと包み直す。
首元、肩、脇――冷えやすい場所を確かめるように、慎重に。
「……大丈夫です」
声は、彼自身に言い聞かせるように低い。
祈りの言葉ではない。
騎士の報告でもない。
ただの、囁き。
彼は手袋を完全に外し、素手でフィアの手を包む。
小さく、冷たい。
それを両手で覆う。
体温を分けるように。
外套の中に、自分の前腕を滑り込ませ、彼女の背と肩を支えるように抱え直す。
密着しすぎない。
だが、離れもしない。
フィアの喉の奥で、小さな音がなる。
言葉にならない、弱い反応。
シリウスは、視線を逸らさない。
月光に照らされたその顔を、ただ見つめていた。
長い沈黙の中で、フィアの指が、彼の衣を掴む。
今度は、はっきりと。
シリウスは、その手を逃がさなかった。
礼拝堂の外で、風が枝を揺らす。
夜はまだ、続く。




