46話
昼に近づくにつれて、村の音が少しずつ増えていった。
戸の向こうを誰かが歩く足音。
遠くで薪を割る乾いた響き。
家々のあいだを抜ける風に、煮炊きの匂いが薄く混じる。
空き家の中はまだ静かだったが、昨日までとは違う静けさだった。
誰もいない森の底ではなく、人が生きている場所の静けさ。
フィアは寝台の上に起き上がり、毛布を膝まで引き寄せた。
熱はかなり下がったらしい。
身体はまだ重いけれど、頭の奥の霞は少し薄くなっている。
シリウスは卓の上で湯を冷まし、薬を分けていた。
言葉は少ない。
けれど、水差しの位置も、布の替えも、薬の量も、何もかもきちんと整っている。
「苦くても、飲めますか」
差し出された椀からは、薬草の匂いが立っていた。
フィアは少しだけ眉を寄せ、それでも受け取る。
「……たぶん」
「たぶん、では困ります」
声は穏やかだった。
だが、譲らない響きがある。
フィアは小さく息をついて、椀に口をつけた。
やっぱり苦い。
顔に出たのだろう、シリウスの口元がほんの少しだけ和らぐ。
その様子を、ルカが椅子に座ったまま眺めていた。
背もたれに体重を預けているが、腹から脇にかけては無意識に庇っている。動きは最小限だった。
「なんだかシリウス、少し楽しそうだね」
「楽しんでない」
「即答だ」
ルカは軽く笑ってみせたが、笑いきる前に痛みが走ったらしく、息が少しだけ詰まる。
フィアはその変化に気づいて、椀を下ろした。
「……ルカ、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。昨日よりはましだよ」
いつもの調子で返す。
けれど顔色はまだ戻りきっていない。
額の薄い汗も、体のどこかで痛みが続いていることを隠していなかった。
フィアはそれ以上言わず、薬を飲み切る。
シリウスがそれを受け取って水を差し出した。
水を飲ませるその手つきは自然だった。
あまりに自然で、ルカはしばらくそれを見てしまう。
細い指が椀を支える。
フィアがむせないように少しだけ傾ける。
飲み終わるまで待ってから、黙って受け取る。
助かった。
無事だった。
それでいいはずなのに。
(……なのに、何だろうな)
ルカは視線を逸らした。
窓の外では、軒先に干した布が風に揺れている。
穏やかな昼前だった。
戸が叩かれたのは、その少し後だった。
「入るよ」
年嵩の女が、木椀と包みを抱えて入ってくる。
昨日、ルカを診た診療所の手伝いの女だった。
後ろから、見張り小屋にいた男も顔を覗かせる。
「昼の粥と薬草。熱が下がっても、まだ無理はさせるなって先生が言ってた。
あと必要ならルカは縛り付けておけってさ」
「先生、僕にだけ酷くない?」
「お前は放っておくとすぐ動くからだよ」
女は即答した。
その調子に、ルカも苦笑するしかない。
見張りの男は部屋の中を一度見回してから、ルカに向き直る。
「あと、お前が言ってた南の山道、やっぱり少し崩れてた。二日三日じゃ戻らん」
「そっか。じゃあ西の細道の方がまだましか」
「荷馬車は無理だな」
「馬だけなら?」
「昼間なら通れる。夜はやめとけ」
当たり前のように話が続く。
どの道が崩れやすいか。どこに獣が出るか。教会の巡回がこの辺りまで来ていないか。
「この数日、見慣れない連中は?」
「いや、ないな。少なくとも村に入ったのはいない」
「山裾の方も?」
「今朝見てきたが、足跡は古いのだけだ」
ルカは頷いた。
返事に迷いがない。訊き方にも慣れている。
フィアは二人のやり取りを聞きながら、ほんの少しだけ首を傾げた。
各地を巡る商人なら、こういうものなのだろうか。
それとも、ルカが今だけ違う顔をしているせいだろうか。
女は卓に粥を置き、フィアの顔色を一度確かめる。
「ルカがあんたが熱を出すかもって言ってたけど、本当に寝込むなんてね。食べられそうなら食べな」
「……ありがとうございます」
フィアが小さく礼を言うと、女はそれ以上深入りせずに頷いた。
シリウスにも食事を入れた籠を渡していく。
「扱いが悪いように見えるけど、ルカの世話になってるからね、気にしないで受け取っておくれ」
見張りの男も、去り際にルカへ一言だけ落とす。
「無理だけはするなよ」
「分かってる」
軽く返すルカの声に、男はそれで十分らしかった。
戸が閉まる。
また静かになる。
置かれた粥から湯気が立っている。
湯気の向こうで、フィアはしばらくルカを見た。
「……ルカ」
呼ばれて、ルカが顔を上げる。
「ちゃんと言えてなかったけど、落ちた時に、助けてくれてありがとう」
その言葉は、飾りのない真っ直ぐさで落ちた。
ルカは一瞬だけ黙る。
いつもなら軽く笑って、どういたしまして、くらいで流せるはずだった。
なのに、言葉が遅れる。
「……いや、別に」
ようやく出た返事は、思ったより短かった。
視線も自然に逸れてしまう。
守れなかったのに。
取り返せなかったのに。
胸のどこかが、その礼をそのまま受け取るのを拒んでいる。
(……違う)
違う、のに。
何が違うのかは、自分でもまだ分からない。
フィアはその反応に少しだけ瞬きをしたが、追及はしなかった。
代わりに、粥の椀に手を伸ばす。シリウスがそれを支え、熱くないように少しだけ冷ましてから渡した。
ルカはまた、その動きを見てしまう。
見なければいいのに、目が行く。
自分でも気づいて、今度は早めに視線を外した。
フィアは粥を少しだけ口に運んでから、不意に顔を上げた。
「……そういえば、ルカ」
「ん?」
「あの時に、足……治してたよね」
ルカの表情が、ほんのわずかに止まる。
「ああ、あれね」
思い出したように返す。
軽く流したつもりだったが、フィアはそのまま続けた。
「……あの魔法で、その怪我は治せないの?」
問いは静かだった。
責める色も、期待しすぎる熱もない。
ただ、純粋な疑問だけがある。
ルカは少しだけ視線を逸らした。
「僕の魔法で治せるのは、軽いのだけ」
短く答える。
「骨は無理、しかも続けては使えない」
フィアは黙って聞いている。
ルカは肩をすくめかけて、痛みに顔をしかめ、代わりに小さく息をついた。
「あまり時間が経ったのも、深いのも無理。使えるけど、便利とは言えないね」
言い切ってから、少しだけ間が空く。
治せるなら、とっくにやってる。
(――あの時も、もっと早く戻れていれば)
思考がそこで止まる。
止めたのか、止まったのか、自分でも分からない。
フィアはその答えを聞いてから、ぽつりと呟いた。
「……でも、きれいだった」
ルカの指先が、膝の上でほんの少しだけ止まる。
「……そう?」
返した声は軽かった。
だが、薄い。
フィアは頷く。
「光ってるわけじゃないのに、あったかくて……やわらかい感じがして」
言葉を探しながら話している。
飾ろうとしていないぶん、そのまま胸に落ちてくる。
ルカは少しだけ目を伏せた。
「そういうものじゃないんだけどね」
独り言のように言う。
フィアに届いたかどうか分からない程度の小さな声だった。
それ以上は続けない。
代わりに、背もたれへ体を預け直す。脇腹に痛みが走って、呼吸が一瞬だけ浅くなる。
シリウスはその変化に気づいたらしく、無言で水差しを卓の手前へ寄せた。
必要ならすぐ手が届く位置だ。
「……動けるようになるまで、ここで休ませてもらおう」
シリウスが静かに言う。
ルカはその言葉を受けてから、窓の外へ目を向けた。
村の屋根の向こうに、まだ明るい空がある。
「そうだね。長くはいられないだろうけど、しばらくは安全だ」
少しの沈黙。
「その後は、もう少し人の少ない場所に移ろうか」
フィアが顔を上げる。
「もう決めてるの?」
「決めてるってほどじゃないよ。候補を考えてるだけ」
ルカはそう言って笑った。
けれど、その声には昨日までより少しだけ深いものが混じっていた。
ただ匿うだけでは終わらない。
教会から遠ざけるだけでも足りない。
その先。
どこへ置くのか。
どこなら、取り戻されないのか。
そこまで考えている自分に気づいて、ルカは少しだけ目を細めた。
フィアは食べ終えた椀を両手で持ったまま、小さく息をつく。
まだ疲れは残っているらしい。睫毛が少し重そうに落ちていた。
「フィア様、無理はしないでください」
シリウスに続いて、ルカも低く言った。
「休めるうちに休んだ方がいい」
二人の言葉にフィアは頷き、寝台へ体を戻した。
毛布を引き寄せる動作も、昨日よりはずっとしっかりしている。
シリウスは少しだけ外へ出た。
井戸まで水を汲みに行ったのだろう。
戸が閉まる。
部屋に残るのは、フィアとルカだけ。
フィアは目を閉じかけて、それでも完全には眠らずにいた。
ルカはその横顔を見て、すぐに逸らす。
野盗たちにフィアが連れ去られたあの時。
胸の内側が、想像以上に冷えた。
目的のものを失うから。
駒が壊れるから。
そんな理屈で片づけるには、あまりにも強く動揺していた。
「……それだけじゃない、かも」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
外では、村の昼が静かに流れている。
誰かの話し声。桶を置く音。遠くの鳥の一声。
穏やかな時間だった。
寝台の上では、フィアが静かに息をしている。
白色金の髪が毛布の上にこぼれ、昨日よりもわずかに生きた温度が戻っていた。
無事でよかった。
そう思う。
けれど、それだけではもう足りなかった。
ルカは目を伏せる。
自分の中で何がずれ始めているのか、まだ名前はつけられなかった。




