5話
石の回廊を抜ける足音は、意識して殺しても完全には消えない。
湿った空気が肺に重く、腕の中の華奢な肩は酷く軽い。
初めて抱きしめたその身体は、このまま世界から消えてしまうのではないかというほどに、儚い。
シリウスは振り返らない。
振り返れば、自分が教会の騎士で、その命に背くことをしていると認めてしまう気がしたからだ。
腕の中で、フィアの身体が小さく震えている。
細く、頼りない震えだった。
泣き声はほとんど音になっていない。
喉の奥で押し殺され、息に混じって零れるだけの、かすかな嗚咽。
それでも、彼には十分すぎた。
聖女とその騎士となってからフィアが初めて願った、助けて、という言葉。
それだけがシリウスを動かしていた。
冷たい夜気が二人を撫でると、シリウスは迷いなく青い外套を外し、フィアの身体ごと包み込む。
まるで、彼女の視界を覆うように。
自分の色で、外界を遮断するように。
外套の内側は、まだ彼の体温が残っていた。
甲冑の冷たさが、直接フィアに触れないよう、腕の位置をわずかに調整する。
教会を囲む壁は近い。
侵入者を見張る警備はいるが、外へ出る者を止める仕組みはない。
だが、それも時間が経てばわからない。
(司教が指示を出す前に、外へ)
シリウスは教会からフィアを連れ出すつもりだった。
先のことは考えていられなかったが、ここにいれば、いずれこの夜の続きが訪れる。
その時にはもう、一度司教に逆らったシリウスはフィアのそばにはいられない。
だが――
越えた瞬間に、戻れなくなることも分かっていた。
「フィア様、私は貴女を連れ出します」
フィアは淡い青碧色の瞳に銀色の髪の色を写しながらシリウスを見上げる。
「それが正しいことなのかはわかりませんが、この教会にいては司教から貴女を助けることはできません」
司教、という言葉にフィアは肩をさらに震わせる。
「私と行けば、もう戻ることも出来ないでしょう。
ですが、それは私の罪です」
「……」
フィアの指が、外套の端をきゅっと掴んだ。
助けを求めるというより、離されることを恐れるような。
それが十分にフィアの答えだった。
シリウスは警備の薄い壁まで走ると、周囲の気配を探り、越える。
その瞬間、地面の感触が石から土へと変わる。
湿り気を含んだ落ち葉が靴裏で音を立てそうになるたび、シリウスは重心を調整し、速度を落とさずに進んだ。
向かう先は森の中。
それは、枝葉が月光を細かく裂き、視界は不規則な影に満ちる。
人の目には追いにくい、シリウスはそう考えた。
シリウスは一度も立ち止まらず駆けた。
足跡を消すための小細工も、囮も使わない。
ただ、距離を稼ぐ。少しでも教会から離れようと。
腕の中で、フィアの呼吸が少しずつ乱れていく。
まるでシリウスの心音と同期するかのように。
外套の内側、胸元に押し当てられた額が、微かに熱を帯びている。
震えは、止まっていない。
森の奥へ、さらに踏み込んだところで、シリウスはようやく速度を落とした。
完全に足を止めることはしない。
歩幅を詰め、音を殺しながら進む。
遠く――
風に混じって、何かが鳴った気がした。
それは角笛か、鳥か。
フィアの途切れそうな呼吸に胸を痛めるシリウスには判断はつかない。




