41話
森の中を進むあいだ、シリウスはほとんど呼吸の仕方を忘れていた。
時間はどれくらい経った。
フィアと離れてから、フィアがルカと離れてから。
朝の空気が残っていたあの時間はもう遠い。
足元の土を見ているはずなのに、視界は何度も別の方向へ逸れた。
折れた枝。
削れた地面。
踏み荒らされた草。
痕跡はある。
だが、はっきり続いてはくれない。
斜面を下りた先は岩が多く、雨水に削られた細い道がいくつにも分かれている。
一度乱れた足跡はすぐに途切れ、どこへ向かったのか見失いそうになる。
「……待って」
後ろから、ルカの声が飛んだ。
シリウスは足を止める。
止まりたくなかった。
一歩でも早く進まなければならないのに、止まるしかなかった。
ルカは腹を押さえたまま、少し前かがみで地面を見ていた。
顔色は悪い。
歩くたびに足取りもわずかに遅れる。
それでも目だけは鋭かった。
「こっちじゃない。石の多い方は囮だね。重い足跡が途中で消えすぎてる」
シリウスは黙ってルカの示す先を見る。
緩やかに迂回するような獣道。踏み跡は薄い。だが、草の倒れ方が不自然だった。
「……分かるのか」
「断定じゃないよ。でも、連れていく側なら歩きやすい道を選ぶ。
それに、何かを運んでたなら、わざわざ岩場を通らない」
軽い口調だった。
だが、その軽さは呼吸の浅さと噛み合っていない。
シリウスは短く頷き、また歩き出した。
焦りが消えることはない。
むしろ、一歩ごとに濃くなる。
フィアを奪われた。
守れなかった。
その事実はもう十分すぎるほど胸に刺さっているのに、今は立ち止まって咀嚼する暇すらなかった。
ただ前へ進む。
進んで、追いつくしかない。
やがて木々の密度が変わった。
山肌を削ったような開けた空間の気配。
風に混じる焚き火の匂い。
そこに、血の匂いが重なる。
シリウスは反射的に剣へ手をかけた。
ルカも同時に息を潜める。
見えたのは木柵だった。
粗雑に組まれた見張り台。
黒く口を開けた廃鉱山の入口。
確かに人が根を張っていた場所のはずなのに、妙に静かだった。
「……おかしいね」
ルカが低く言う。
「見張りがいない」
シリウスは答えない。
答える代わりに、身を低くして木柵沿いに進んだ。
人の気配はある。
だが、生きた気配が薄い。
笑い声も、怒鳴り声も、酒の匂いに伴う雑多な空気もない。
あるのは、火の燃え残りと、乾きかけた血の臭気だけだった。
「静かすぎるな」
今度はシリウスが言った。
ルカは頷いたが、それ以上は何も言わなかった。
今はそれを考えるより先に、確かめるべきことがあった。
木柵の隙間から中を覗いた瞬間、シリウスの眉がわずかに動く。
死体が転がっていた。
一人や二人ではない。
焚き火のそば。木箱の影。鉱山の入口近く。
いくつもの身体が、まるで作業の途中で急に糸を切られたみたいに、ばらばらの向きで倒れている。
だが、その散らばり方が妙だった。
逃げた跡が薄い。
争ったにしては、崩れ方が短い。
武器を持ったまま倒れている者もいる。
血は多いのに、混乱の痕跡が少ない。
まるで誰かが、順番に処理していったあとのようだった。
シリウスの視線は、その違和感を一瞬だけ捉えて、すぐに別のものを探す。
フィア。
その名が頭の中で他のすべてを押しのける。
「……フィア様……!」
小さく呼んだ声に、自分でも気づかないほどの焦りが滲んでいた。
「シリウス、待って!」
ルカが腕を伸ばしかける。
だがシリウスはもう木柵を越えていた。
死体の間を駆け抜ける。
視界の端に切断された縄。
柱。
地面に落ちた血のついた繊維。
その先に、フィアがいた。
木柵の内側、柱のそばに座り込んでいた。
意識はある、繋がれてもいない。
だがすぐにでも崩れそうに見えた。
大きな外傷は見当たらない。
服は乱れている。
けれど、暴かれたような痕跡はない。
「フィア様!」
シリウスは駆け寄った。
呼ばれたフィアが、少し遅れて顔を上げる。
「……シリウス……」
声はある。
返事もある。
それだけで胸の奥が一瞬ほどける。
シリウスはその肩へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、ようやく本当にここにいるのだと分かった。
温度がある。
息もしている。
「無事ですか」
問いかける声が、自分でも驚くほど低くなっていた。
荒らげれば、ここにいることまで壊してしまいそうだった。
フィアはすぐに答えず、ほんの短い間だけシリウスを見ていた。
それから、小さく頷く。
「……無事……、です」
無事。
そう言った。
だが、その返事にはわずかな遅れがあった。
シリウスは眉を寄せる。
何か言おうとして、結局飲み込んだ。
ルカもすぐそばまで来ていた。
柱の根元に落ちた縄を見て、周囲の死体を見て、それからフィアを見る。
「……間に合った、って言っていいのかな」
軽く言ったつもりらしかった。
だが声に、いつもの余裕はない。
フィアはルカの方を見る。
その視線もやはり、ほんの少しだけ遅れて動く。
「ルカ……怪我は」
「僕?見ての通り、君に心配されるほどじゃあない」
口元だけで笑ってみせる。
けれど顔色は悪い。額には脂汗が浮いている。
シリウスはようやく周囲へ目を向けた。
改めて見ても、違和感は消えない。
死体の傷は深い。
だが無駄が少ない。
一撃で終わっているものが多い。
戦闘というより、手際よく片づけられた結果みたいだった。
ルカも同じものを見ていたらしい。
焚き火のそばにしゃがみ込み、倒れた野盗の首元を一瞥する。
「……妙だね」
「何がだ」
「妙に綺麗すぎる」
ルカは立ち上がる。
腹を庇うようにしながら、それでも視線は拠点全体を舐めるように動いていた。
「野盗同士の揉め事にしては、壊れ方が短い。
逃げた跡も少ないし、誰かが一方的にやった感じがする」
シリウスの目が細まる。
「教会の追っ手か」
「どうだろう。……分からない」
ルカはそう言って、そこで言葉を切った。
分からないままにしておくには、引っかかりが強すぎる顔だった。
だが今は、それを追うべきではない。
フィアに何を見たか聞くのも今じゃない。
それはシリウスにも分かっていた。
フィアが無事だった。
それだけで十分ではない。
だが、今やるべきことは決まっていた。
「フィア様、ここを離れましょう」
シリウスが言う。
即断だった。
ルカも頷く。
「うん。残党が戻ってくるかもしれないし、この場所に長くいるのはまずい」
フィアはまだ少しぼんやりしたまま、二人の声を聞いている。
頷きはする。
けれど、その視線は一度だけ森の奥へ向いた。
シリウスはそれに気づいたが、何も言わなかった。
今はまず動くべきだ。
木柵の外れに、馬が二頭繋がれていた。
ルカの馬だ。
無事だったこと自体は幸運だった。
だが、出来すぎている気もした。
今は考えない。
ルカが手綱を見て、小さく肩をすくめる。
「売るつもりだったのか、使うつもりだったのか……ちゃっかりしてるね」
軽く言ったつもりなのは分かる。
空気を少しでも緩めようとしたのだろう。
フィアはその言葉に、ほんのわずかだけ口元を動かした。
笑った、とまでは言えないほどの小さな変化だったが、それでもゼロではなかった。
シリウスは二頭の馬を見て、次の動きを考える。
ルカの状態では一人で長く乗るのは厳しい。
フィアも今は一人にできない。
「フィア様は私の馬へ。ルカ、お前はもう一頭で行けるか」
「死ぬほどじゃないよ。たぶんね」
ルカはそう言って笑ったが、息の浅さは隠しきれていなかった。
シリウスは何か言い返しかけて、やめた。
今はここを離れることが先だ。
フィアを馬へ乗せるとき、彼女の身体は思ったより軽かった。
力が抜けているせいかもしれない。
シリウスの腕に触れた肩が、まだ少し冷たい。
「大丈夫です」
そう言いながら、自分に言い聞かせている気もした。
フィアは小さく頷いた。
ルカもなんとかもう一頭へ跨がる。
腹に響いたのか、顔が一瞬だけ歪んだ。
それでもすぐにいつもの顔へ戻す。
焚き火の煙が細く流れ、死体の間を夕方の風が抜けていく。
説明のつかない違和感は、そこに残ったままだった。
だが、今はそれを置いていくしかない。
三人は野盗の拠点を後にした。
誰が何をしたのか分からないまま。
ただ一つ、助かったという事実だけを胸に抱えながら。
その裏に残る説明のつかない違和感ごと。
フィアは一瞬だけ空を見上げた。
まだ形になりきらない薄い月が、空の端に浮かんでいた。




