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many merry bad ENDs  作者: 源泉


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40話

血のついた指先が、フィアの顎に触れる。

わずかに上を向かせた。


冷たい、と最初に思った。


血に濡れているのに、その手には妙な熱がなかった。

ぬめる感触より先に、指先の骨ばった硬さと、生きた人間らしくない温度だけが頬に残る。


フィアは息を止めたまま、目の前の男を見た。


黒い髪。

夕方へ傾き始めた光を吸うような、色の沈んだ髪だった。

その下にある肌は息をしているのか分からないほど静かに見える。

なのに、そこへ散った返り血だけがやけに鮮やかだった。


背が高い。


ただ高いだけではない。

何もしていないのに、人より一歩ぶん遠い場所に立っているように見える。

シリウスよりも高く見えるその体躯は、削ぎ落とされたように無駄がない。


服は妙に布が少なく、動くたびに首筋や腕の肌が覗く。

そこには返り血ではない黒い線があった。

刺青だと気づくまで、少し時間がかかった。


腰にある武器は、たった一振りの短剣だけ。

それなのに、足元に転がる死体の数が、その異様さを物語っている。


瞳は灰色だった。

夜ではない時間に浮かぶ、光のない月のように見えた。


髪にも、瞳にも、肌にも、色が少ない。


まるでその男だけがこの世界から半歩ずれていて、血だけがそこに無理やり塗りつけられたみたいだった。


その視線が、フィアに向けられている。


助けられた、とは思えなかった。

ただ、何者なのかも分からない。


人間に見えるのに、人間の範疇に収まっていないような違和感だけが、じわじわと肌を這ってくる。


顎に触れた指が、そのままほんの少しだけ力を込める。

逃げ場のない角度で顔を上向かされ、フィアは喉の奥をきつく絞った。


「――っ」


言葉にならない息が漏れる。


近い。

近すぎる。


この男が自分を見ている。

見ているだけなのに、切っ先を向けられた時よりも身がすくんだ。


だが、フィアの口からこぼれたのは拒絶ではなかった。


「……ごめんなさい」


かすれた、小さな声だった。


男の目が、わずかに止まる。


フィアは自分でも、なぜまずその言葉が出たのか分からなかった。

けれど、胸の中にはそれしかなかった。


目の前には血がある。

倒れた野盗たちがいる。

自分を捕らえていた相手だとしても、誰かが死んだ。

それを見ている。

その真ん中に、自分がいる。


シリウスも、ルカも、野盗たちも。

誰かが傷つくたび、自分のせいではないはずなのに、自分の前を血が流れていく気がした。


「……私、は……」


続きは言葉にならなかった。


男は何も言わない。


ただ、フィアを見ている。


礼でもない。

恐怖でもない。

命乞いでもない。


謝るのか。


自分を捕らえた野盗を殺した相手に。

血の中に立つ相手に。

この状況で、まずそう言うのか。


理解できなかった。


理解できないものは珍しくない。

だが、たいていはそこで終わる。

切り捨てるか、壊すか、放っておくか。そのどれかで済む。


だが今は、判断が止まった。


この女を捕らえて、依頼人に引き渡すのか。

聖女として、女として、消費することしか考えていない連中に。

あるいは、この国の平穏を乱すためだけに、これを殺せと軽く言ってきた連中に。


そうすることはできる。

できるはずだった。


それなのに、妙に手が進まない。


男の指先が、フィアの顎から離れる。


その一瞬の空白が、逆に大きく感じられた。

解放されたはずなのに、フィアはまだ息を止めていた。


男はフィアを縛っていた縄を見る。

次に、その手を見る。

血がついている。

野盗のものだ。自分が流した血の色だ。


それから、刃を動かした。


縄が切れる。


自分が自由になったのだと気づくまで、フィアには少し時間がかかった。

手首に食い込んでいた圧が消え、痺れた腕が重く落ちる。


逃がすつもりなのか。

それとも別の意味なのか。


フィアが分からずに見上げると、男の手がまた動いた。


今度は、もっと遅かった。


触れていいのか迷うみたいに、ほんのわずかだけためらってから、その指先がフィアの髪に触れる。


白色金の髪が、血のついた手に絡む。

触れたところだけ、赤が滲んだ。


フィアは目を瞬いた。


痛くはない。

乱暴でもない。

ただ、不思議だった。


目の前の男も、同じように不思議そうだった。


自分で触れておきながら、その意味を決めかねているような気配が、灰色の目の奥でかすかに揺れた。


男は髪から手を離した。


その指先に残る白と赤を、ほんの短い間だけ見ている。


そのとき。


遠くで枝を踏む音がした。


ひとつではない。

ふたつ。


急いでいる足音。

片方は重く真っ直ぐで、もう片方は傷を抱えたまま無理に速度を上げている。

どちらも、この場所を目指している。


シリウスとルカだと、フィアにも分かった。


フィアの胸が揺れる。

助かった、と思う前に、男が顔を上げた。


気配を聞いたというより、最初から知っていたものを確かめただけの顔だった。


戦うこともできる。

ここで待つこともできる。


けれど男はそうしなかった。


ただ一歩、後ろへ退く。


去るのだと、フィアはそれでようやく理解した。


「……あ」


呼び止めようとしたのか、自分でも分からない声だった。

男は振り返らない。


木柵の外へ出る手前で、足が一瞬だけ止まる。


その背へ、遠くからシリウスの声が飛ぶ。


「フィア様――!」


その声に、フィアは思わずそちらを向いた。

振り向きかけた視界の端で、男の肩がほんのわずかに揺れる。


次の瞬間、口の中で小さく音が転がった。


「……フィア」


自分で確かめるみたいな、低い声だった。


フィアは息を呑む。


男はそれ以上何も言わない。

名を名乗りもしない。

問い返しもしない。


ただ、その音だけを残して、夕方の森の中へ溶けるように歩き去っていく。


フィアはその背を見つめた。


助けられたのかどうかも、分からない。

何者なのかも、分からない。

なぜ自分を解いたのかも、なぜ髪に触れたのかも、何ひとつ分からない。


それでも、去っていくその姿から目が離せなかった。


黒い髪。

灰色の目。

血だけが鮮やかな、色のない男。


やがてその影は木々の奥に沈み、見えなくなる。


その直後、シリウスが駆け込んできた。

続いてルカも、荒い息を押して姿を見せる。


「フィア様!」


シリウスの声が、今度はちゃんと届いた。

フィアはようやく息を吐く。


けれど、去っていった男の残した違和感だけは、胸のどこかに薄く引っかかったままだった。

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