39話-2(分岐バッドエンド)
※この先は分岐となります。
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血のついた指先が、フィアの顎に触れる。
わずかに上を向かせた。
冷たい、と最初に思った。
血に濡れているのに、その手には妙な熱がなかった。
ぬめる感触より先に、指先の骨ばった硬さと、生きた人間らしくない温度だけが頬に残る。
フィアは息を止めたまま、目の前の男を見た。
黒い髪。
夕方へ傾き始めた光を吸うような、色の沈んだ髪だった。
その下にある肌は血の気が感じられない、死体のように静かに見える。
なのに、目だけが違った。
灰色だった。
乾いた石のようでもあり、曇った空の底のようでもある。
感情がないわけではないのに、何を考えているのか少しも読めない。
その視線だけが、血の匂いの中ではっきりとフィアを捉えていた。
助けられたのかどうか、それすら分からなかった。
けれど、何者なのかも分からない。
人間に見えるのに、人間の範疇に収まっていないような違和感だけが、じわじわと肌を這ってくる。
顎に触れた指が、そのままほんの少しだけ力を込める。
逃げ場のない角度で顔を上向かされ、フィアは喉の奥をきつく絞った。
「――っ」
言葉にならない息が漏れる。
近い。
近すぎる。
この男が自分を見ている。
見ているだけなのに、切っ先を向けられた時よりも身がすくむ。
フィアは反射的に顔を背けようとした。
だが、指先がそれを許さない。
「……やめて」
かすれた声だった。
拒絶と言うには弱すぎて、懇願と言うには硬い。
それでも確かに、拒む言葉だった。
男の目が、ほんのわずかに細まった。
フィアは自分でも何を恐れているのか分からないまま、さらに首を引こうとする。
縄に縛られた身体は逃げられず、肩が柱にぶつかるだけだった。
「触らないで」
今度は、はっきり言えた。
その瞬間、空気が微かに変わった気がした。
男は何も言わない。
怒ったようにも見えない。
けれど、顎に触れた指先だけが、一瞬わずかに強くなった。
理由の分からない沈黙。
それを破ったのは、木柵の外から飛び込んできた鋭い声だった。
「フィア様!」
シリウスだった。
ほとんど同時に、別方向からルカも姿を現す。
二人とも傷を負っている。
泥にまみれ、呼吸も浅い。それでも、迷いなくこの場へ踏み込んでくる。
フィアの胸が一瞬だけ強く鳴った。
「シリウス――」
シリウスは即座に斬りかかった。
迷いのない一撃。
大上段から、まっすぐに叩き落とされる重い刃。
男が持っていたのは、短剣一本だけだった。
それでも退かない。
真正面から受けるのではなく、刃の角度へわずかに短剣を差し込み、流す。
金属が耳障りな音を立て、シリウスの剣筋が半歩だけ外れる。
二撃目。
横薙ぎ。
その刃も、男は身を沈めてかわし、短剣の背で軌道を押し上げる。
重いはずの剣が、妙に軽く見えた。
いや、違う。
軽くしているのは、男の方だった。
シリウスが三撃目へ踏み込んだ、その瞬間。
ルカが死角へ滑り込み、フィアを縛る縄へ手を伸ばす。
男の腕が、一度だけ揺れた。
短剣が飛ぶ。
次の瞬間、ルカの足元の柱へ深々と刃が突き立っていた。
あと半歩でも踏み込んでいれば、脚ごと貫かれていた位置だった。
ルカの動きが止まる。
その一瞬で十分だった。
男はもう武器を持っていない。
それなのに、シリウスの前へ一歩で入り込む。
大剣の振り下ろしを紙一重で外し、懐へ潜る。
脇腹へ膝が入る。
鈍い音と共に、シリウスの呼吸が潰れた。
それでも倒れない。
シリウスは歯を食いしばり、柄を握り直す。
だが、男の手が先に動いた。
手首を捻り上げ、肘を逆方向へ折るように崩す。
力の逃げた指から、大剣が地へ落ちた。
さらに首筋へ打ち込まれた一撃で、シリウスの膝がついに折れる。
ルカが再び飛び込む。
今度はフィアではなく、男そのものを狙って。
だが届かない。
振り向きもしないまま腹へ蹴りが入り、ルカの身体が折れた。
地へ崩れたところへ、追い打ちの一撃が背に落ちる。
ルカの指先が地を掻いて止まる。
シリウスはなお起き上がろうとした。
フィアへ向かって、血の滲む指を伸ばす。
その手首を、男が踏みつける。
鈍い音がして、短い呻きが漏れる。
そして、首の横へ叩き込まれた一撃で、シリウスの身体もまた地に沈んだ。
フィアは息を呑んだ。
生きているのか、死んでいるのか。
フィアには分からなかった。
ルカも同じだった。
背を向けたまま崩れ落ち、指先一つ動かない。
二人とも、もうフィアのところまでは届かない。
それだけが、残酷なほどはっきり分かった。
男が振り返る。
その灰色の目が、再びフィアへ向けられる。
さっき拒んだことを覚えているのかどうかも分からない。
けれど、その視線にはわずかに硬いものが混じっていた。
苛立ちに似ている。
だが、何に対するものなのか、本人にさえ分かっていないような、行き場のない歪みだった。
男はフィアを捕らえていた縄を断つ。
今度は逃がすためではないと、フィアにも分かった。
自由になった腕が落ちるより早く、男の手が肩を掴む。
そのまま乱暴に引き寄せられ、抱え上げられた。
「……っ」
抗おうとしても、力が入らない。
足はもつれ、声も続かない。
男はフィアを肩に担ぐ。
前の野盗たちよりも、ずっと静かに。
なのに、容赦がない。
物のように持ち上げられた身体が揺れ、視界の端で、血溜まりの中に倒れた二人の姿が逆さに歪んだ。
「シリウス……ルカ……」
返事はない。
あるのは、夕方の風の音だけだった。
男は振り返らない。
木柵の外へ出る手前で、男の足が一瞬だけ止まる。
けれど、それもすぐに途切れて、また歩き出した。
肩の上で揺られながら、フィアは最後にもう一度だけ後ろを見た。
血の中に沈むシリウス。
うつ伏せに倒れたまま動かないルカ。
生きているのか、死んでいるのか、それすら分からない。
その不確かな絶望だけを残して、山の影がすべてを呑み込んでいく。
男はフィアを担いだまま、暮れかけた森の奥へ消えた。
bad end.
拒絶の代償




