39話
焚き火の匂いが風に乗っていた。
人の臭いもした。
酒と汗、血の乾きかけた匂い。どれも珍しくはない。山中で群れている連中など、見に行く価値もないことの方が多い。
だが、その日は少しだけ考えることがあった。
聖女が逃げた、という噂。
教会が血相を変えて追っている、という話。
捕らえろ、連れてこい、殺してしまっても構わない――雑多な依頼が、ここ数日いくつも流れてきていた。
真偽は分からない。
誇張も混じっているだろう。
ただ、あの街で一度だけ見た。
銀髪の騎士のような男。
その傍らにいた、白に近い髪の女。
夕方の雑踏の中でも、その組み合わせだけが妙に目についた。
女の髪は金髪と呼ぶには白すぎて、銀髪と言うには色を含んでいる。
金属光沢にも似た白色金を宿した髪。
噂の条件には合う。まあ、それだけだ。
だから、そのときは何もしなかった。
殺すにしろ攫うにしろ、先に見てから決めようと思っていた。
本当に価値があるのか。
どんな顔をするのか。
それくらいは確かめてからでいい。
そう思っただけだった。
距離を置き、その女と銀髪の男、もう一人の男に悟られないように、追っていた。
だが、その獲物が奪われた。
その価値を知らない者たちに。
それが、わずかに判断を濁らせた。
金髪の男と斜面を転がり落ちる女。
そこで一瞬見失うが、野盗どもが彼らを捕らえれば拠点に連れ帰るだろうとその場所を探した。
山中にあるそこは、思っていたより粗末だった。
最初に殺したのは彼らの頭だった。
拠点に辿り着く前に見つけた。
どこかから戻る途中だったようで、酒と血の匂い、それと少しの女の匂いがした。
どうせあとで殺すことになる、そう判断してからは早かった。
声を上げる暇もない。
喉を裂くのも面倒で、首の骨を折った。
鈍い音がして、身体が崩れる。目だけが少し遅れて空を向いた。
木柵。
焚き火。
廃鉱山の入口。
人の営みのふりをした獣の巣。
見張りはいる。だが甘い。
周囲の地形に甘えて、外から来るものを“人間”しか想定していない歩き方だった。
聖女に関する依頼は複数ある。
頭を殺した今、混乱に紛れて女をさらう手もある。
あるいは、その場で殺して首だけを持っていくのでもいい。
だが、そこに捕らえられている女を見て、手が止まった。
柱に縛られた女は、騒がなかった。
泣きもしない。
助けも呼ばない。
祈る気配もない。
怯えていないわけではなかった。
肩の入り方も、呼吸の浅さも、目の奥の強張りも、嫌というほど分かる。
それでも、逃げようとしない。
おかしな止まり方だった。
折れているのではない。
諦めているのでもない。
何か一つだけを信じて、そこに立ち尽くしているような、歪な静けさだった。
野盗どもは、その静けさの意味を分からないまま、勝手に気を緩めていった。
頭が戻らない。
だがまだ時間はある。
少しくらいなら。
傷をつけなければ。
そうやって、自分たちで線を消していく。
安い。
木柵の影に立ったまま、それを見ていた。
止める理由はない。
止めたところで、こいつらの末路が少し遅くなるだけだ。
だが、女に手が伸びる寸前になって、それを見るのが、少し面倒だった。
それだけだった。
影が揺れた。
それで、ようやく気がついた。
動揺が走る。
「それに触るな」
自分の口の中だけで、呟くような低い声。
実際、聞こえたものはいなかっただろう。
地面に、何かを落とした。
さっき殺した“彼らの頭だったもの”だった。
湿った音を立てて転がり、焚き火の赤を受けて止まる。
そこでようやく、空気が壊れた。
まず一人、死んだ。
伸ばしかけた手首が、途中で力を失って垂れる。
次に近くにいた男が振り向く。
遅い。
刃が入る。
血が飛ぶ。
喉が途切れた声を吐き、膝から崩れる。
三人目はようやく状況を理解しかけたが、武器を取る前に終わった。
抜きかけた刃ごと腕を落とし、そのまま首を断つ。
火の明かりが血で鈍く滲んだ。
音が少ない。
悲鳴は短い。
死体だけが増える。
生き残った連中が後ずさる。
腰が引ける。
それでも誰もすぐには逃げない。目の前で起きていることを、自分の現実として飲み込めていないからだ。
誰かが息を呑む。
誰かが武器を落とす。
誰かが後ろへよろめく。
山の獣どもが、もっと大きな獣に気づいたときの顔だった。
血の匂いが濃くなる。
その中を歩いた。
急がない。
隠れもしない。
もはや隠れる必要がないからだ。
死体の間を抜けるたび、男たちの視線が揺れる。
逃げるか、立ち向かうか、それすら決めきれずに止まっている。
「……おい」
一人が、ひどく掠れた声を出した。
「まさか、あいつ……」
別の男が後ずさる。
「嘘だろ……」
三人目は、顔色を失ったまま口の中で何かを呟き、結局、言葉にできなかった。
もう一人。
前に出ようとした男の額へ短剣を突き立てる。
骨に当たる感触。
押し込む。
抜く。
崩れた身体の向こうに、女が見えた。
白色金の髪。
細い肩。
汚れた外套。
縄に縛られたまま、柱に押しつけられている。
ああ、とだけ思う。
前の街で見た女。
噂の中心。
教会が追っている聖女かもしれないもの。
だが、だからどうした、という感想しか浮かばない。
聖女だろうが、ただの女だろうが、今のところ違いはない。
価値があるかどうかは、これから見ればいい。
野盗の一人が、なおも震える足で後ずさった。
逃げようとしている。
その首を横から裂く。
血が噴き、木柵に飛ぶ。
これで終わりだった。
焚き火は相変わらず燃えている。
夕方の光は傾き、長い影が死体の間を細く伸びていた。
さっきまでの下卑た笑いは、もうどこにもない。
残ったのは、血の匂いと、倒れた身体と、柱に縛られた女だけ。
その前で止まる。
血溜まりの中に立っているのに、自分の足元だけが妙に静かに見えた。
女は顔を上げていた。
怯えている。
だが泣いていない。
逃げ場のない小動物みたいに震えているのに、目だけは閉じきれずにこちらを見ている。
理解できないものを見る目だった。
こちらもまた、女を見る。
近くで見ると、思ったより若い。
壊れやすそうで、実際に少し壊れかけている。
それなのに、完全には崩れていない。
綺麗な顔立ちをしている。
疲弊して青ざめていたその顔はまるで人形のようだった。
それなのに、やけに髪の色だけが目を引く。
その髪の色は、月を水に溶かしたような、曖昧な色だった。
その手が動いた。
理由は、なかった。
血のついた指先が、女の顎に触れる。
わずかに上を向かせた。




