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many merry bad ENDs  作者: 源泉


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38話

どれほど意識を飛ばしていたか、フィアには分からなかった。


意識が浮かび上がるより先に、頬に触れる空気の温度が変わっていることに気づく。

いつの間にか熱を失い始めた夕方の乾いた気配が、皮膚を薄く撫でていく。


重いまぶたを開ける。


光の色が、違っていた。


真上から落ちていた白い光は傾き、木柵の影を長く地面へ引きずっている。

焚き火の煙が、斜めに流れていた。


どれくらい時間が過ぎたのだろうか。


縄に擦れた手首は熱を持ち、背中に押しつけられた柱の感触は、変わらずざらついている。

身体はだるく、頭の芯がまだぼんやりしていた。

だが、それでも分かった。


さっきまでより、近い。


野盗たちの声が。

足音が。

視線が。


焚き火の向こうで酒をあおっていた男たちが、いつの間にか少しずつ場所を変えている。


何気ない顔で立ち上がり、道具を持ったまま歩き、気づけばフィアのいる柱の近くにいる。

囲んでいる、と言うほどあからさまではない。

だが、逃げ道のような空間は、もうどこにも残っていなかった。



「頭、まだ戻らねえのか」



誰かが言う。



「戻るだろ。その前に勝手な真似して首飛ばされたくはねえな」


「けどよ」



笑いを含んだ声が重なる。



「見つけて連れてきたのは俺たちだろ」


「ああ、少しくらい試す権利はあるよな」



試す、という言葉に、何を指しているのか一瞬分からなかった。


フィアの喉が小さく鳴る。



「頭に見せてからだって言ってんだろ」


「だから、少しくらいなら、って話だ」



誰かが近づいた。

靴底が土を踏む音が、妙に大きく聞こえる。


フィアは顔を上げる。


その男の顔を見た瞬間、肩が強ばった。


腹の底が、冷たくなる。



小屋の中。

ルカの腹に蹴りを入れた足。

短剣が床へ転がる音。

目の奥で揺れた、言葉にならない拒絶。



あの男だ。


フィアの身体は、頭で考えるより先に反応した。

指先が強張り、呼吸が浅くなり、背中が柱へ押しつけられる。

逃げようとしたわけではない。

ただ、勝手に身体が固まった。


男はその反応に気づいたらしく、口元を歪めた。



「……ああ、覚えてんのか」



その声が、前より近い。



「そんな顔するなよ。お前のことは蹴ったりしねえよ」



何人かが笑った。

だが、その笑いは長く続かなかった。

空気が変わったのを、誰もが感じている。


フィアが怯えている。

その事実が、火種みたいに男たちの間へ落ちたのだ。


誰も止めない。


止める気がない、という方が近い。


視線だけが、揃う。


焚き火のぱちりという音が、やけに遠く聞こえた。



「少しくらいなら、減りもしねえだろ」



別の男が言う。



「どうせ売る前の商品だ。傷つけなきゃいい」


「頭が怒るか?」


「何、最初っからこうだったって言えばいいさ」



笑い声が混じる。

けれど、そのどれもが先ほどまでの気安さとは違っていた。


気の緩みではない。

獲物の前で、秩序がほどける音だった。


フィアは目を逸らさなかった。

逸らせば終わる気がした。


だが、抵抗もしなかった。

抵抗の仕方が分からない。


縄に縛られた手首に力を入れても、意味はない。

叫んでも、助けは届かない。

祈っても――その先を考えてしまう。


だから、何もしない。


ただ、そこにいる。


男の一人が、しゃがみ込むようにして視線の高さを合わせた。


酒の匂いがした。

汗と土と、昼の熱が抜けきらない衣服の臭いが鼻を刺す。



「本当に綺麗な顔してるなあ」



指先が、顎へ伸びる。


フィアは強く目を閉じた。

触れられる、と思った。


その瞬間。


何も起きなかった。


指先は届かない。

頬に熱も、圧も、何も落ちてこない。


ただ、空気だけが変わった。


ざわめきが、消える。



焚き火の音まで遠のいたような静けさの中で、男の息だけがひどく浅く聞こえた。


おそるおそる、フィアは目を開ける。


目の前の男は、動きを止めていた。

手を伸ばしたまま、何かを忘れたように固まっている。

その顔から、さっきまでの薄汚れた笑いが消えていた。



視線が、フィアではないどこかを向いている。


その場にいた男たち全員が、同じ方向を見ていた。


誰も喋らない。

誰も、動かない。


見られている。

そう思った。


けれど、その視線はフィアに向けられたものではなかった。

もっと別の、何かに向けられている。


木柵の外。

夕方の光が斜めに差し込み、影を長く伸ばす、その境目。


フィアには、そこに何がいるのか見えなかった。


ただ、男たちの顔色だけが変わっていく。

冗談でも、欲でも、酒でもない。

もっと原始的な何かに押し黙る顔。


「……おい、なんだ、それ」



誰かの声が、掠れる。

次の瞬間、何かが地面に落ちた。

鈍い音。

ぐしゃり、と湿った感触が遅れて響く。



「……は?」



誰も近づかない。

誰も、触れようとしない。

ただ、それを見ている。



「ひっ……」



誰かが息を呑む。



「……なんで」



言葉が続かない。

フィアには、それが何なのかよく見えなかった。


ただ――

空気だけが、完全に変わっていた。

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