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many merry bad ENDs  作者: 源泉


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36話


フィアとルカが斜面の下へ消えていった瞬間の光景が、まだシリウスの瞼の裏に焼きついていた。


崩れる土。

馬の背から投げ出され、霧に呑まれる外套。


シリウスは、その後の記憶をあまり正確に思い出せない。


気づけば剣を振っていた。

霧の中から迫る影を斬り、払い、また次の気配へ刃を向けていた。

乾いた悲鳴がいくつか上がり、血の匂いが木々の湿った匂いに混じる。


だが、野盗たちは深追いしてこなかった。


何人かを失った後、彼らの意識は斜面の下へ向いた。

シリウス自身には、もう興味がないかのように。


そのことが、余計に胸を冷やした。

馬や積荷ではなく、フィアたちだけを追っていた。

その異様さだけが、頭の中にはっきり残っていた。


森の中を、シリウスは半ば無理やり進んでいた。

折れた枝が散り、踏み荒らされた土にまだ新しい傷が残っている。

霧は少しずつ薄れているのに、視界はむしろ狭くなっていた。


呼吸が荒い。

握りしめた剣の柄に、血がぬるく張りついている。

自分のものか、相手のものか、もう分からない。



「……フィア様」



一度、名を呼びかけて止まる。

返事はない。


分かっている。

呼んだだけで届く距離には、もういない。


それでも呼ばずにはいられなかった。


地面に残る跡を追う。

靴の跡。擦れた草。折れた若枝。


見失うほどではない。だが、焦りで判断が鈍っているのが自分でも分かった。


視線が、定まらない。

足跡を追っているはずなのに、何度も別の方向へ足が向きかける。



(守れなかった)



その言葉が浮かんだ瞬間、シリウスは無意識に歯を食いしばった。


もう一度だけでも、あの腕を掴めていれば。

もう少し早く、斜面へ飛び込めていれば。



悔恨は際限なく形を変える。

どれを掴んでも、今この手の中にフィアはいない。


シリウスが木々の奥へ踏み込もうとした、そのときだった。



「……シリウス、そっちじゃない」



掠れた声が、斜め後ろから飛んだ。

シリウスが振り返る。


倒木にもたれるようにして、ルカが立っていた。

腹を押さえ、片足に余計な負担をかけないよう姿勢をずらしている。

顔色は悪い。だが目だけは冴えていた。


シリウスはすぐにそちらへ向かった。



「ルカ……フィア様は?」


「…少しは僕のことも気にしてよ」



ルカは笑いかけて、途中でやめた。

唇の端が少しだけ上がって、それきりだった。



「君、顔がだいぶひどい。血もついてるし」


「それよりも、フィア様は」



短く返し、シリウスは周囲を見た。



「連れて行かれた、僕が気を失っている間にもういなくなってた」



その言葉が落ちた瞬間、シリウスの足がもう前に出ていた。



「待て」



ルカの声が、それを止めた。


強くはない。

怒鳴ってもいない。


それなのに、シリウスの身体は一瞬で固まった。


ルカ自身も、その声の重さに少しだけ驚いたように瞬きをしたが、すぐに視線を戻した。



「焦って追えば、今度は本当に終わる」



声から、冗談の色が完全に消えていた。


シリウスは息を荒げたまま、ルカを見た。

反論したい。今すぐ行かなければならない。そう思っているのに、言葉が喉で止まる。


ルカは腹に手を当てたまま、淡々と続ける。



「連中は追走に慣れてた。囮を使った。地形も分かってる。

偶然この山で出会った相手じゃない」



視線を地面へ落とす。



「近くに拠点があるはずだ」



その一言で、森の空気が別のものになった。

散らばった足跡も、折れた枝も、ただの痕跡ではなく“巣”へ続く道になる。


その先にフィアがいる。そう思っただけで、喉が焼けた。


シリウスは剣を持つ手に力を込めた。



「急がなくては」


「うん。急ぐよ」



ルカは認めた。

だがその上で、低く言い切る。



「でも、闇雲には行かない」



短い沈黙が落ちる。


木々の上を渡る風の音だけが、遠く鳴った。


ルカはそこで、ようやくフィアが連れ去られた場面を話した。


小屋に隠れたこと。

足音が近づいたこと。

連中が“若い女”を探していたこと。


そして、



「フィアは、自分で出ていった」



シリウスの呼吸が止まる。


ルカは目を逸らさなかった。



「“二人を見逃してくれるなら、私が行きます”って」



森が急に遠くなった気がした。


シリウスは何も言わない。

言えなかった。


目線だけが落ちる。

剣を握る手に、さらに力が入る。

柄の革が軋む音が、自分にだけ聞こえた。


フィアが自分で。


そうさせたのは誰だ。

野盗か。

自分か。


守れなかった。

それだけではない。

フィアに、そう選ばせた。


その優しさを利用された。

そして、その優しさを止められなかった。


怒りの行き場が定まらない。

野盗を斬りたい。

自分を斬りたい。

それでも今は、どちらもできない。


ルカがその沈黙を破った。



「フィアは取り返す」



短く。

抑えた声で。


そして、ほんの少しだけ間を置く。



「渡す気はない」



その言葉だけが、やけに冷たくはっきりしていた。


情に押された響きではない。

決めた人間の声だ。


シリウスはゆっくりと息を吐いた。

吐き切るまでに、ほんの少し時間がかかった。



「……私もそのつもりだ」



そう答えてから、視線を地面へ落とす。


泥の上には、いくつもの足跡が重なっていた。

乱れた靴底。重い踏み込み。野盗のものだろう。


だが、その端に一つだけ、別の跡がある。


浅い。

無駄がない。

足音まで消して歩いたような、静かな踏み方。


ルカもそれに気づいたらしく、しゃがみ込んだ。



「……これ、野盗だけじゃない」



シリウスが眉を寄せる。


ルカは足跡の先を目で追い、少し離れた岩の縁に視線を止めた。

そこには刃が触れたような傷が残っている。だが粗い傷ではない。

真っ直ぐで、迷いがない。



「連中にしては、動きが整いすぎてる」



囮を使う。

地形を読む。

そして、この跡。


野盗だけではない。

別の誰かが、そこにいた。


その瞬間、シリウスは背筋にかすかなものを感じた。


視線。


森が、静かすぎる。


鳥の鳴き声はない。

枝葉の揺れも少ない。

それなのに、どこかから“見られている”ような感覚だけが残る。


シリウスが顔を上げる。

霧の残る木立の向こう。岩陰。倒木の隙間。


誰もいない。

だが、気配だけが一拍遅れて消えた。



「……何かいる」



低く呟くと、ルカも同じ方向を見た。

数秒。

やがて首を横に振る。



「今は追わない。そっちは後」



ルカは立ち上がり、痛みを押し殺すように呼吸を整えた。



「野盗の拠点は近い。

水場と斜面を使って追い込んだなら、この先の高低差を熟知してる。


山の奥で、人目がなくて、馬を置ける場所……候補は絞れる」



シリウスは頷いた。


剣についた血を、上衣の裾で無造作に拭う。

乾きかけた赤が布へ滲む。


感情を消したわけではない。

消せるはずもない。


ただ、今は刃に乗せる前に、進むための形へ整える。


ルカが先に歩き出した。

シリウスがその半歩後ろにつく。



「行こう、シリウス」



朝霧の薄れ始めた森へ、二人は踏み込んでいく。

フィアのいない空白が、足元にずっとまとわりついていた。


それでも立ち止まらない。

守れなかったまま終わるのではなく、守るためにもう一度進む。

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