35話
その願いが、叶う時間は与えられなかった。
そのとき。
小屋の外で、枝が踏まれる音がした。
二人の呼吸が同時に止まる。
また一つ。
ゆっくり。わざとらしく。
足音が、小屋の周りを回った。
まるで中にいるのを知っているみたいに、間合いを測っている。
ルカの腕が、無言でフィアの背に回る。
音を立てないように、身体ごと引き寄せる。
「動かないで」
それは命令ではなく、呼吸の仕方を教える声だった。
扉が軋む。
誰かが、外から軽く押した。
「……いるんだろ」
低い声。笑いが混じる。
次に聞こえたのは、別の声だった。
「積荷らしいもんはなかった。追いかけ損だな」
「こっちは二人やられたしな。割に合わねぇ」
二人。
それはおそらく、シリウスが剣を振った数。
フィアの背が粟立つ。彼が誰かを斬った事実が、今になって痛い。
「若い女がいたはずだ」
その言葉が、空気を変えた。
フィアの喉が鳴る。
自分のことだと、理解するのに時間はいらなかった。
ルカがフィアを抱く手に力がこもる。
足音が、小屋の中に入ってくる。
板が軋む。わざと重く踏む。戸棚を蹴る。机の残骸を倒す。音が大きい。必要以上に。
広くはない小屋なのに、探し回る動きが妙にのんびりしていた。
焦りがない。
獲物が怯えて息を潜める時間を――楽しんでいる。
「おーい、嬢ちゃん」
囁くような声が、壁越しに近づく。
「出てこいよ。怖くて泣いてんのか?」
笑い声。
それが、刃物より冷たく刺さる。
ルカの指が、短剣の柄に触れた。
けれど、手が止まる。勝ち目を計算している目だ。
ここで斬れば、叫びが上がる。
増援が来る。
シリウスがどこかで戦っているなら、また血が増える。
フィアの胸の奥で、あの場面が蘇る。
崖の上。叫ぶ声。剣戟の音。遠ざかる世界。
(また、誰かが血を流す)
それだけは嫌だった。
二人が傷つくのも、傷つけるのも。
ルカが小さく首を振る。「待て」と言うように。
——このまま見つかれば、ルカは戦う。戦えば、傷つく。
でも、フィアはもう分かってしまっていた。
目的は若い女。
自分が出れば、ルカは逃げられる。
自分が残れば――
また誰かが斬る。
また誰かが倒れる。
また“自分のせい”が積み上がる。
フィアは息を吸った。
冷たい空気が肺を刺す。
ルカが、何かを言いかけた。止める言葉。
その前に、フィアは立ち上がった。
影から一歩、外へ出る。
「……ここにいます」
声は震えていた。
けれど、逃げなかった。
音が止まる。
足音が一斉にこちらを向く気配。
視線が絡みつく。
男たちが、笑った。
「ほら、いた」
「いい子じゃねぇか」
囲まれる。
ルカが動く。
短剣を抜く――間に合わない。
「二人を見逃してくれるのなら、私が行きます」
言葉が落ちると、男たちの息が揃って、笑いが薄くなった。
ルカが、低く言った。
「……フィア、それは違う」
その声は怒りではなく、否定だった。
選択そのものを拒む声。
次の瞬間、鈍い音。
男の足がルカの腹に飛ぶ。
空気が一気に抜け、ルカの声が途切れる。
「っ……!」
膝が床を擦り、短剣が転がる。
フィアが息を呑んだ。
「ルカ!」
ルカの叫びは、喉の奥で潰れた。
叫べば状況が崩れる。崩れれば――もっと酷くなる。
男が、ルカの髪を掴み上げて笑う。
「うるせぇのは寝てろ」
二度目の蹴りが入る。
ルカの目が、一瞬だけフィアを見た。
焦点が揺れる。言葉にならない「やめろ」がそこにあった。
そして、意識が落ちていく。
フィアの心臓が、冷たく鳴った。
腕を掴まれる。
力が強い。抵抗しても無駄だと分かる強さ。
「行こうか、お姫様」
誰かがそう言った。
嘲りが混じる。
名前を知らないふざけた呼び方。
聖女ではなく、ただの獲物として。
「逃げなかったのは賢いな」
「震えてるくせに、目は逸らさねぇ」
フィアは歯を食いしばった。
泣かなかった。
目を逸らさなかった。
ただ一度だけ、小屋の奥に倒れたルカを見る。
息はしている。していると信じたい。
(生きて)
今度は声にならなかった。
引きずられるように外へ出ると、朝の霧がまだ残り、木々の間で人影がゆらぐ。
足が地面を擦る。
枝が髪に絡む。
後ろを振り向けば、戻りたくなる。
だから振り向かなかった。
遠くで、何かが折れる音がした。
それがシリウスの剣か、木の枝か――フィアには分からない。
ただ、世界はまだ終わっていなかった。
フィアは連れられていく。




