34話
闇が、遅れてやってきた。
落ちていく感覚が途切れ、土と枯れ葉の湿った匂いだけが残る。
耳の奥で、まだ蹄の音が鳴っている気がした。
フィアは目を開けようとして、まぶたが重いことに気づいた。
光はまだ弱く、冷えだけが刺さった。
「……フィア」
すぐ近くで声がする。
「起きて。息できる?」
ルカの声だ。軽い調子を装っているのに、呼吸が少し荒い。
フィアは喉を鳴らして頷こうとし、頭の奥がずきりと鳴った。
「……う、ん……」
声が掠れる。口の中が砂だらけだった。
「よかった。……ほら、ゆっくりでいい」
ルカの手が肩に触れる。指先が冷たい。
支えられて上半身を起こすと、外套がずるりと滑り、泥と水を吸った布が重く肌にまとわりついた。
シリウスの外套。
それがまだ自分の肩にあることが、妙に現実だった。
銀の髪の彼が、崖の上に残ったことも。
「……シリウス……」
言いかけて、噛む。口の中の砂がざらつく。
ルカは一瞬だけ黙り、それから笑った。
「うん。たぶん、今頃怒ってる。
いや、怒る前に君の名前叫んで走り回ってるかな」
軽口の中に、確かな願いが混じる。
「大丈夫。彼は簡単に死なない」
フィアは息を吸った。
冷たい空気が肺を締める。
外套の下で、身体が震えていることに気づく。
怖さではない。冷えだ。泥が体温を奪い続けている。
「怪我は無さそう?君にかすり傷一つでもつけたら、シリウスになんて言われるか」
その言葉の端々に、シリウスの無事を疑わない強さと、フィアを励まそうとする気遣いが滲んでいた。
「私より、ルカ……足……」
視線が、ルカの足元に落ちた。
片足に体重をかけないようにしている。立ち上がる動きがほんの少し遅い。
「……平気平気」
ルカはわざとらしく肩をすくめる。
「君を守れたなら問題ないよ、むしろこれくらいで済んだら上出来」
笑ってみせる。
でも額には汗が浮いていた。痛みをごまかす種類の笑いだと、フィアにも分かる。
「……ごめんなさい」
反射的に出た言葉を、ルカはすぐ切った。
「それ、禁止。謝るくらいなら笑ってよ」
柔らかい声。
だが、拒否ははっきりしている。
「いい?今は生き残る。再会する。そこまで。
――少し落ち着ける場所を探そう」
ルカは周囲を見回した。
明るい時間のはずなのに、森の底は薄暗く、霧がまだ木々の間に残っている。
遠くで水が落ちる音がする。鳥の声はない。静かすぎて、逆に怖い。
二人は並んで歩き出した。
ルカは平気そうに足を運ぶ。
けれど一歩ごとに、ほんのわずか遅れる。
フィアはその遅れに合わせて歩幅を小さくした。
助けたいのに、腕を貸していいのか迷う。
触れれば「守られる側」に戻る気がした。
(私が、状況を見ないと)
初めて、そんなことを思った。
誰かの判断を待つのではなく。
誰かの指示に従うのでもなく。
木々の奥、斜面に寄りかかるようにして小さな影が見えた。
打ち捨てられた小屋。屋根は半分崩れ、板は黒ずんでいる。扉は傾いて、隙間から風が鳴った。
安全ではない。
むしろ見つかる危険はある。
それでも――
泥に濡れた外套が重い。
冷えがじわじわ深くなる。
ルカも足をかばいながら歩いている。ここで無理をしたら、次の一歩がなくなる。
「……ルカ、あそこ」
フィアが指差すと、ルカが小さく頷いた。
二人は小屋に入った。
木の床は腐りかけていて、踏むと呻くように軋む。
中は狭い。けれど奥に、壁の裏へ潜り込むような小さな空間があった。外からは見えない位置。影が濃い。
そこでようやく、フィアは外套を握り直した。
布は濡れて重く、冷たいのに――離すのが怖かった。
ルカが腰を下ろし、短く息を吐く。
それから、いつもの調子で言った。
「本当は秘密だったんだけど」
フィアが顔を上げる。
ルカは自分の足首に手を当てた。
捻ったのだろう、腫れている。足をつくたびに痛みが走るはずだ。
指先に、ほのかな熱が集まった。
光ではない。火でもない。
空気が、そこだけ薄く揺れる。
「……っ」
フィアは息を呑んだ。
腫れが、ゆっくりと引いていく。
皮膚の下で膨らんでいた痛みが、押し戻されるように静まっていく。
ルカの指先が、ほんの少し震えた。
「魔法……」
言葉にすると、現実味が増す。
ルカは苦笑した。
「この国ではね、魔法を使うと“魔”に近づくって敬遠される。……ただの迷信なんだけど」
手を離し、足首を軽く回してみせる。
「信頼を失ってまで使うほどの大した魔法は使えないし、今の一回でしばらくまた使えない。
使いどころは選ぶよ」
“この国では”――という言い方が、さらりと落ちる。
そこに、出自の匂いが混じった。
フィアはそれを追いかけるように、ルカを見た。
同じくらいの年に見える。
けれど、知っていることが多すぎる。
世界が広い。
自分が暮らしていた壁の中が、どれほど狭かったのか――今になって、息が詰まるほど分かる。
「……ルカは……」
問おうとして、言葉が止まった。
ルカはフィアの表情だけで察したのか、肩をすくめた。
「その話は、また今度。今は休む。
体、冷えきってるよ」
フィアは頷き、外套を胸元まで引き寄せた。
泥まみれの布の冷たさが、逆に“ここにある”という感触になって、少しだけ落ち着く。
(シリウス……無事でいて)
願いが、喉の奥で固くなる。




