32話
夕暮れが夜の色に変わり、港町の角を鈍く染めはじめるころ、三人はルカの隠れ家へ戻った。
石畳に残る昼の熱がゆっくり冷えていき、潮の匂いに混じって、焚き火と魚の焦げた匂いがどこからともなく漂ってくる。
通りはまだ賑やかだったが、笑い声の輪郭が少しずつ丸くなっていく。
夜に向けて、街が息を整える時間帯だ。
「夕飯、買って帰ろう。夜の港町は初心者にはちょっと危険が多いからね」
ルカが軽い調子で言い、フィアは頷いてその後を追う。
シリウスも黙って並んだ。
屋台の灯りは早くも点々と揺れていた。
油の匂い、香草、炭。
フィアは目の前を通り過ぎる料理を見ても、味を想像できない。
教会の食事は、ただ「胃に入る」ものだった。
味という概念は、いつも遠い。
ルカは手早く二つ三つ注文を済ませる。
焼いた魚の串と、香辛料のきいた濃いスープ、硬い黒パン。
そしてもう一つ、フィアに向けては、香草を控えめにした白いスープを選び、塩も薄く、具も柔らかいものを頼んだ。
「こっちはフィア用ね。あんまり濃いの、まだ得意じゃないでしょ」
ルカの声は軽い。気遣いなのか、観察なのか、その境目がいつも曖昧だ。
隠れ家に戻ると、小さなランプに火を点けた。揺れる光が木の机を照らし、粗い木目の影を長く落とす。
食事を並べると、匂いの層がはっきり分かれた。
ルカとシリウスの前には、香辛料の立った湯気。
フィアの前には、薄い白い湯気。
温度だけが同じで、匂いは別の世界みたいだった。
フィアはスプーンを握り、白いスープを口に運んだ。
味は薄い。
それでも教会よりはわずかに塩が立っていて、舌が戸惑う。
「……どう?」
ルカが尋ねると、シリウスも食べる手を止め、目だけをフィアに向けた。
その視線に心配と気遣いが同時に含まれていて、フィアは息が詰まりそうになる。
「……大丈夫、ありがとう」
返事はできた。
だが次の一口が、途中で止まる。
スプーンが小さく震えて、湯気が揺れた。
自分でも分かるほど、手が落ち着いていない。
(明日、迎えに来ます)
礼拝堂で聞いた言葉が、湯気の中から立ち上るみたいに蘇る。
薄いスープは飲み込めるのに、その言葉は喉に引っかかる。
ルカは咳払いを一つして、わざと明るい声を出した。
「ねえ見て、僕、魚食べるの得意なんだ」
頭と尾を残し、きれいに骨だけ残した串をフィアに見せる。
あえて視線を引っ張るように。
「フィア、食べられるなら少しだけでもいいから、おなかに入れたほうがいいよ」
シリウスが黒パンを小さく割ってフィアの皿の端に置いた。
力の入れ方が優しい。
戦う人の手なのに、フィアの前では壊れ物を扱うみたいに優しくなる。
フィアは笑おうとした。だが口元が上がりきらない。
ルカはその空気を破るように、いつもの調子で肩をすくめた。
「ま、食べられないなら無理はしないで。食べてそれを消化するのにも体力がいるからね。
そのかわり明日の朝はちゃんと食べよう」
その言葉の「明日」に、フィアの心臓が跳ねる。
シリウスが何か言いかけて、やめた。
言葉を探している時間が、フィアには耐えがたかった。沈黙が優しいほど、罪が浮き上がる。
食事は終わった。皿は片付いた。ランプの火だけが残った。
夜が深まるにつれて、外の音は減っていった。
潮風が板戸を小さく鳴らし、時折どこかで犬が吠える。町の呼吸がゆっくりになる。
フィアは「先に休みます」と言った。声は平静に出たのに、自分の耳には遠く聞こえた。
同じ部屋の中で、フィアは布団に入る準備をする。
シリウスは黙っている。
黙ったまま、何度もフィアを見る。
その視線は責めない。
けれど、逃がさない。
優しさは、時に刃より痛い。
フィアは耐えきれず、ランプの灯りに目を落とした。
「……シリウス」
声が震えるのを抑えようとすると、余計に息が浅くなる。
「今日、礼拝堂で」
シリウスの手が止まる。息が止まる音が聞こえた気がした。
フィアは言葉をつなぐ。
「教会の人が……来て。私、一人のときに」
シリウスの瞳が僅かに暗くなる。怒りではない。
怖さに近い色。
「司教様からの伝言だと……」
フィアは、できるだけ淡々と告げた。
心を守るために、言葉を平らにする。
「……祈りが弱まったせいで、民が不安に震えている。魔物が増えている。
そして……明日、迎えに来ると」
言い終わると、胸の奥が空になる。
代わりに冷たいものが満ちてくる。
「私……一度、ついていこうと思ってしまって」
その瞬間、言葉が自分の喉を切ったように痛む。
「……戻れば、平和になるって。その言葉が……」
シリウスは、すぐに否定しなかった。それが救いだった。
ただ、ゆっくりと呼吸を整えてから、フィアを見た。
「迷うのは当然です」
声は低い。落ち着いている。
「罪悪感があるのは、フィア様が優しいからです。……ですが」
一拍置く。その間に、フィアの呼吸が乱れる。
「それは、貴女の罪ではない」
フィアは目を瞬いた。
そんな言葉を、誰かが自分に向けたことがあっただろうか。
シリウスは続ける。
「聖女という役目は、貴女が選んだものではありません。生まれたときから、与えられていた」
指先が、布を握りしめる。
「義務は、自分で引き受けた者が背負うものです」
その言葉は、静かな断定だった。
「貴女は背負わされた。だから……貴女の心まで縛る権利は、誰にもありません」
フィアの胸の奥で、何かが崩れそうになった。壊れるのではなく、固く固く詰められていたものがほどける感じ。
シリウスはそこで言葉を止めなかった。むしろ、ここからが本音だった。
「……海を見たとき」
フィアの目が、わずかに揺れる。
「あの景色を見ていた貴女は、聖女ではなかった。
驚いて、笑って、言葉を失って……」
息を吸う音が、シリウス自身にも聞こえたのか、彼は一瞬だけ黙った。
そして、真顔のまま言う。
「私は、フィア様のあの顔を、もっと見ていたい」
歯の浮くような言葉なのに、照れがない。逃げ道を与えないほど、真剣だ。
「私は聖騎士の立場を捨てました。
もう、教会の騎士でも、聖女の騎士でもない」
視線がまっすぐ刺さる。
「フィア様の騎士として、そばに置いてください」
フィアの喉が鳴る。
何か言おうとして、言葉が見つからない。
シリウスは続ける。躊躇なく。
「……駄目だと言うのなら、私が攫っていきます」
脅しではない。誓いだ。
その瞬間、扉の向こうで小さく息を吐く気配がした。
ルカだ。聞いている。
(僕に聞かれてること、分かってる……?)
フィアの様子がおかしいことを察して、二人は決めていた。
シリウスが聞き出し、急を要するならばすぐに動けるように、ルカが扉の前で待つ。
ルカは呆れたような顔をしながらも、そのまま待つ。
二人が選ぶべきだと、分かっているから。
フィアはしばらく沈黙した。罪悪感は消えない。消えるはずがない。
それでも。
「……戻りたく、ない」
ようやく出た声は、かすれていた。けれど、はっきりしていた。
シリウスの肩がわずかに落ちる。安堵だと分かる程度に。
フィアは目を伏せたまま続ける。
「怖い、でも」
そして、小さく頷く。
「……私も、もっと普通の生き方を、知りたい」
そこで扉が静かに開いた。
ルカが立っていた。何食わぬ顔で、軽く笑っている。
「街を出る準備、できてるよ」
さらりと告げる。
「馬車は修理中。幸い馬たちは元気だ。
ここからは馬で行こう、馬車を引かない分今までより速いはずだ。
夜明け前なら、誰にも見つかりにくい」
そして、ほんの一言だけ。
「……シリウス。今の、僕に聞かれてるの分かってた?」
深追いしない。答えも求めない。ただ、苦笑だけを残す。
シリウスは短く息を止める。
「……」
「うん、まあ、そこはもういいや」
ルカの笑顔は人の良さそうなまま。けれど瞳は冷えている。
計算が回り始めている目だ。
夜が終わる前に出発する。
それだけが、三人の合言葉になった。
フィアは外套を羽織った。
息が白い。指先が冷える。
でも心のどこかが、初めて「自分の体温」を取り戻したように感じる。
街は眠っていた。
窓に灯りはほとんどなく、石畳の上を潮風だけが滑っていく。
遠くで波が鳴る。近くで馬たちが鼻を鳴らす。
シリウスがフィアと同じ馬にまたがる。
蹄の音を殺すように、ゆっくりと。
「……寒くないですか」
シリウスが囁く。
「大丈夫」
フィアはそう答えた。
本当に大丈夫かどうかは分からない。
でも、今はそう言えた。
街の門を抜け、背後の灯りがさらに小さくなる。
夜明け前の空が薄く白み始める。
明日が来る前に、彼らは消える。
その頃、港町では。
礼拝堂の扉が開く。
黒衣の男が静かに中を確かめ、首を横に振った。
宿も空。残っているのは、冷えたランプと、誰かが座った跡だけ。
「……もうこの街にはいませんね」
司教は苛立たず、ただ穏やかに言った。
「ですが構いません」
微笑みは薄い。
「歩き方を覚えただけです。戻る道も……いずれ自分で選びます」
黒衣の男が息を呑む。
司教は淡々と続けた。
「探しなさい。ただし、急がないように。怯えは祈りを薄める。
……聖女が消えたという噂は、そろそろ消しておくべきですね。
他の目があの子に向くことは避けたい」
外では、朝の鐘が鳴り始めていた。




