30話
この街には、小さな礼拝堂がある。
白く塗られた壁は潮風に晒され、
入口の木扉には簡素な聖印が刻まれていた。
そのそばを通りかかったとき、
ルカの耳に、ひそやかな噂話が届く。
「この数日、この国では珍しく魔物の被害が続いているらしいよ」
港町は、噂が流れ着くのも早い。
「聖女様がいるのにねぇ」
誰かが肩をすくめる。
責めているわけでもない。
ただ、当然のように。
まるで魔物の被害が、聖女の不出来であるかのような言い方だった。
(やっぱり、どこでも同じだ)
与えられ続けるものは、やがて当然になる。
「それなら――」
思考が、危うく声になりかける。
ルカは足を止め、自分の口元を押さえた。
何でもない顔で方向を変え、
二人に噂が届かない距離を取る。
「二人とも、海ちゃんと見てないよね?
もっと近くまで行こうよ」
明るい声で、軽く。
三人は浜辺へ向かった。
昼と夕のあわい。
空はまだ青を残しながら、ゆるやかに色を失い始めている。
人影はなく、波音だけが広がっていた。
フィアとシリウスは並んで立ち、
言葉もなく、その景色を見つめる。
「海を初めて見る人を見るって、何回見ても面白いよね」
ルカが笑う。
フィアは目を細めたまま、呟いた。
「シリウス……すごい。こんな景色、本当にあるなんて」
「話では知っていましたが……実際に見ると、言葉を失います」
しばらく、ただ波を眺める。
「この景色を見られただけでも、私……」
そこでフィアは言葉を止めた。
その先が、うまく形にならない。
教会を出てよかった、と言いたいのか。
これでもう十分だと思っているのか。
それとも――戻るべきなのか。
迷いが、波のように胸の奥を往復する。
「……もっと、たくさん見に行きましょう」
シリウスがフィアに向き直る。
「ルカさんとともに各地を巡って、
どこか安心して過ごせる場所を探しましょう」
その言葉は、未来を指している。
だがフィアの中には、
礼拝堂の前で一瞬浮かんだ感覚が、まだ残っていた。
聖女としての責務。
生まれてからずっと背負わされてきたもの。
それは、波のように何度も戻ってくる。
海を見ているフィア。
シリウスは未来を語る。
ルカは黙っている。
フィアの指が、無意識に組まれかけた。
祈りの形。
だが、途中で止まる。
ゆっくりと、手を下ろす。
波音だけが、変わらず打ち寄せていた。
その余韻を胸に残したまま、三人は街へ戻る。
礼拝堂の前で、フィアが足を止めた。
白い壁に夕陽がかかり、扉の影が長く伸びている。
「……少しだけ、祈ってもいいですか」
振り返ったフィアは、どこか照れくさそうに微笑んだ。
「長年の習慣だったから……落ち着かなくて」
その言葉に、シリウスはすぐに頷く。
「強制されたものではなく、フィア様がそう思われるのであれば」
ルカは特に何も言わず、軽く肩をすくめた。
「どうぞ。僕らは外にいるよ」
礼拝堂の扉が静かに閉まる。
中からは、わずかな灯りが漏れていた。
入口に立ち、シリウスとルカは並ぶ。
沈黙は気まずくない。
ただ、波音が遠くに聞こえている。
やがてルカが、何気なく口を開いた。
「シリウスが“僕と一緒に”って言ってくれるなんて、ちょっと意外だったな」
横目で笑う。
「少し嬉しかった。正直、胡散臭がられてるかと思ってたし」
シリウスは一瞬考え、それから答えた。
「これほど助けられて、例えそうだとしても……ルカさんが恩人であることに変わりはありません」
「胡散臭いのは否定してくれないんだ……」
小さく肩を落とすルカ。
「ねえ、シリウス」
「なんでしょうか」
「もうちょっと話し方、崩してよ。旅の仲間にしては固すぎる」
少しだけ間が空く。
「……考えておく」
ルカが顔を上げる。
「あ! その感じ、その感じ!」
そのやり取りの途中で、礼拝堂の扉が静かに開いた。
フィアが出てくる。
夕陽に照らされた顔は、穏やかだった。
二人のやり取りを見て、ふっと笑う。
「二人とも、楽しそう」
その笑みは、祈りを終えたばかりの聖女ではなく、
ただの旅の娘のものに見えた。
それでも。
礼拝堂の中に残る静寂は、
まだ彼女を完全には解き放っていなかった。
風が吹き、遠くで鐘が鳴った気がした。
それぞれの胸に違う思いを抱えたまま、三人は歩き出す。




