26話
旅は、拍子抜けするほど順調だった。
追手に気配はなく、馬車は壊れず、道は開けている。
警戒を緩めてはいけないと分かっていながら、
それでもシリウスは、その順調さに救われていた。
何より、フィアの様子が違う。
馬車の小窓から流れていく景色を、彼女は飽きもせずに見つめていた。
森も、畑も、遠くに見える村の屋根も、すべてが初めて目に映るもののように、その淡い瞳を輝かせる。
体調も、確かに回復している。
呼吸は安定し、指先の冷えも薄れていた。
(……守れている)
そう判断できる事実が、今のシリウスには何よりも重要だった。
やがて、空気が変わる。
湿り気を含んだ風が混じり、鼻腔にわずかな塩の匂いが届いた。
海が近い。
まだ見えない。
だが、風が先に教えてくる。
遠く、地平線の向こうに、白い帆が点のように浮かんでいた。
フィアも、それに気づいたのだろう。
小さく息を吸い、視線を外へ向ける。
シリウスにとっても、それは初めての風だった。
海を見るのは、これが初めてだ。
内陸で生まれ、幼い頃から騎士団の見習いとして教会の中で過ごしてきた。
世界は石の壁と聖堂の天井で完結していた。
馬車の中で、ルカが港町の話をする。
潮の満ち引き、船乗りの噂、魚市場の朝の騒がしさ。
軽い口調だった。
だからこそ、シリウスは苦いものを噛みしめるような気分になる。
知らない。
自分は、あまりにも外の世界を知らなかった。
馬車は、わずかな傾斜を越え――そして街が広がった。
馬車が港町に入ると、喧騒が一気に押し寄せてくる。
人の声、荷車の軋む音、呼び込みの叫び。
色と匂いと動きが、無秩序に溢れている。
潮の香りが、乾いた木材と魚の匂いと混じり合っていた。
三人は並んで立ち止まった。
この街までは一緒に行く。
そういう約束だった。
ルカが足を止め、振り返る。
穏やかな表情のまま、問いかける。
「で、ここから先は?」
一拍、間を置いて。
「――逃げる、以外の予定はある?」
言葉は軽い。
責める響きも、詰問の色もない。
それでも、シリウスの中で何かが確実に止まった。
答えが、ない。
教会から逃げることだけを考えていた。
フィアを連れ出し、遠ざけることだけを目的にしていた。
その先を――
生きる場所を、選ぶ未来を、考えていなかった。
視線を落とす。
剣にも、フィアにも、手を伸ばせない。
港町の賑やかな雰囲気の中、三人は沈黙のなかにいた。
それは気まずさではなかった。
初めて、自分たちの未来が空白だと知った、静かな時間だった。
そして、未来を考える余地があると、気づいた時間でもあった。




