23話
朝の光が、静かに部屋へ差し込んでいた。
フィアは目を覚まし、しばらく天井を見つめてから、ゆっくりと身体を起こす。
頭はまだ重く、喉の奥に引っかかるような感覚は残っている。
咳も完全には治まっていない。
けれど――動ける。
昨日までとは違う。
呼吸を整えれば、起き上がることも、数歩歩くこともできそうだった。
寝台の傍で、シリウスがすぐに気づく。
「フィア様、あまり無理は……」
そう言いかけて、言葉が止まる。
フィアが、すでに自分の足で床に触れていたからだ。
「大丈夫、もう平気」
そう言って微笑む顔は、まだ弱々しいが、はっきりと意思を持っていた。
その様子を見ていたルカが、扉のそばから声をかける。
「今日は調子良さそうですね、どうします?」
問いかけは穏やかで、促す調子ではない。
あくまで、確認。
「港町までは、馬車で数日。
途中で休めますし、無理だと感じたら引き返せます」
そう前置きしてから、続ける。
「出発してもいいですか?」
決定ではない。
命令でもない。
選択肢として、ただ置かれた言葉だった。
フィアは、すぐには答えなかった。
無意識に、シリウスを見る。
いつもなら、ここで彼が判断していた。
行くべきか、留まるべきか。
安全か、危険か。
だが今回は、シリウスは何も言わない。
ただ、フィアを見ている。
待っている。
フィアは、胸の奥で小さく息を吸った。
「……ルカさん、よろしくお願いします」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「……ずっとここにいたら、見つかる気がするの」
理由は曖昧だ。
根拠もない。
けれど、あの鐘の音、あの気配を、もう一度感じることへの恐怖だけは、確かだった。
「……それに」
一瞬、言葉を探してから。
「シリウスと、話し合って決めたから。
私が行きたいと思ったら、行くって」
その言葉に、シリウスの肩がわずかに揺れる。
フィアは続ける。
「わたし、進みたい。
また、シリウスと、ルカさんに迷惑かけると思うけど……ちゃんと、前に」
沈黙。
シリウスは一度、口を開きかけた。
――まだ体調が万全ではない。
――港町が安全だと決まったわけではない。
言葉は、そこまで来て、飲み込まれた。
代わりに、深く息を吐き。
「……分かりました」
それだけを言った。
反対もしない。
理由を重ねることもしない。
その選択を、受け取った。
ルカは、そのやり取りを一歩引いた場所で見ていた。
急かさない。
口を挟まない。
フィアが決め、シリウスが受け入れたことを確認してから、ようやく言う。
「準備はできています。
出るなら、いつでも!」
馬車は、すでに整えられていた。
街を抜け、門を出る。
石畳の音が次第に途切れ、土の道に変わる。
その瞬間、フィアは気づいた。
――鐘の音が、しない。
耳を澄ましても、祈りを告げる響きは、もう届かない。
代わりに聞こえるのは、車輪の規則正しい軋みと、遠ざかっていく街の気配。
フィアは、無意識に深く息を吸った。
胸が、少しだけ軽くなる。
それを、シリウスは見逃さなかった。
(……ああ)
この選択は、間違っていなかった。
教会から、街から、追う者たちから――
物理的に距離が離れていく。
馬車は静かに進み、街並みは次第に小さくなる。
向かう先は港町。
祈りの鐘が届かない場所。
それは、まだ安全ではないかもしれない。
だが少なくとも――
選んで進んだ道だった。
フィアは、外套に包まれたまま、そっと目を閉じる。
その表情には、確かな安堵があった。
シリウスはその横顔を見ながら、初めてはっきりと理解する。
守るとは、前に立つことだけではない。
選ばせ、共に進むこともまた、守りなのだと。
馬車は、朝の光の中を走り続けていた。
その日の昼過ぎ。
教会の捜索隊が、街へ入った。
淡い髪の女と銀の髪の男を見たという目撃情報は複数あり、
その足取りは薬屋へと繋がっていた。
店主は怯えながらも、問われるままに答える。
確かに、
銀の男と体調の悪そうな少女が泊まっていた宿があったこと。
だが――今朝方、すでに立ち去ったこと。
案内された宿は、もぬけの殻だった。
寝台は整えられ、私物は残されていない。
逃走を急いだ形跡もない。
ただ、
「確かに、いた」
という事実だけが、街に残されていた。
捜索隊の一人が、低く舌打ちする。
「……出遅れたな」
街道はすでに複数に分かれている。
追跡は、ここで一度途切れた。
聖女と騎士は、
教会の影が届かない場所へ――
すでに歩みを進めていた。




