20話
馬車は、音を立てずに動き出した。
車輪の軋みはほとんどなく、揺れも少ない。外気は厚い布と板に遮られ、内部には一定の温度が保たれている。
一目で分かる、上等な造りだった。
店主とルカは場所を入れ替わり、フィアの看病を交代する。
火鉢が調整され、車内はゆるやかに暖められていった。
ルカは手際よく薬剤を取り出し、湯にかける。
立ちのぼる蒸気には、薬草の匂いが混じっていた。
「吸ってください。深く、無理のない程度で」
フィアは意識が朦朧としたまま、指示に従う。
数度、蒸気を吸い込むうちに、荒れていた呼吸がわずかに整っていく。
胸の上下が、ほんの少しだけ穏やかになる。
そのとき、フィアの手が動いた。
宙を探るように彷徨い、やがてシリウスの外套の端を掴む。
弱々しい力だったが、確かにそこに意志があった。
シリウスは何も言わず、その手を離させなかった。
「……一度、街へ戻ります」
ルカの声は静かだった。
威圧はない。だが、決定事項として告げる温度だった。
「これは決定です」
シリウスは返事をしなかった。
反論の言葉が浮かばなかったからではない。
浮かんだ理由のすべてが、今のフィアの呼吸を救わないと理解していたからだ。
「詳しくは聞きませんが」
ルカは続ける。
「シリウスさん、早くあの街を離れたいんでしょう?」
「ああ……」
声に、力がなかった。
自分の判断で、彼女の命を危険に晒した。
その実感が、今になって重くのしかかっている。
「誰かに追われていて、見つかりたくない」
「……そう、だ」
迷いながらも、シリウスは認めた。
正しい選択を積み重ねてきたはずだった。
だが、いつの間にか――
自分は「正しいと思ったこと」しか選べなくなっていたのだと、遅れて気づく。
「じゃあ、一度、僕の泊まっている宿に行きましょう」
ルカは“安全”という言葉を選びながら、
その意味を誰よりも正確に理解していた。
「値段は張りますが、その分、安全です」
シリウスは断ることができなかった。
目の前の青年は、確かに今、
大切な存在を救った恩人に見えていたからだ。
やがて馬車は、ひときわ大きな建物の前で止まった。
石造りの外壁、控えめだが隙のない意匠。
富裕層や要人が使う宿だと、一目で分かる。
薬屋の主人は「店があるから」と短く告げ、そこで別れた。
「ここの主人と知り合いなんですよ」
ルカは微笑む。
「別に、僕が無駄遣いや見栄っ張りなわけじゃありませんよ?」
人当たりの良い笑顔が戻っていた。
咳が落ち着き、フィアは静かな寝息を立てている。
シリウスはそれを起こさぬよう、そっと抱き上げ、ルカの後に続いた。
街はまだ朝の気配に包まれている。
宿の入り口に、他の客の姿はない。
ルカの部屋は広かった。
複数の寝室があり、余裕のある造りをしている。
「値段が高くて、あまり使われない部屋だから」
ルカは苦笑する。
「いつも、ここをあてがわれるんですよ」
そう言って、寝室の一つの扉を開けた。
中は、すでに温められていた。
用意の良さに、シリウスはわずかに眉を寄せる。
それに気づいたのか、ルカは軽く肩をすくめた。
「薬屋の主人が、血相を変えて駆け込んできたんです。 お二人がいない、って」
実際に血相を変えた理由は、
二人が消えたことで自分がルカに責められるのを恐れたからだ。
だが、それは伝わらなくていい。
「それに、昨日の診察から考えて……。
咳が酷い。遠くまでは行けないだろう、と思いました」
そこで、ルカはふと立ち上がる。
机の上に置かれたのは、
シリウスが薬屋に置き去りにしていた荷物だった。
「それは……」
聖騎士の甲冑と、聖女の装衣。
「……中身は確認しました。
我々へのお礼のつもりだったんでしょう。二度と会わないつもりで」
責める口調ではない。
だが、優しくもなかった。
「確かに、売る経路を持っていれば、かなりの金額になります」
ルカの声色が、わずかに低くなる。
「ですが、今はもっと高く売れます。
教会から聖女を連れ去った聖騎士の話が、広まり始めていますから」
シリウスは顔を伏せた。
自分の判断で、フィアの命を危険に晒した。
さらに、自らの正体まで世に晒してしまった。
その事実が、今になって、静かに胸を締めつけていた。




