19話
夜明け前。
空はまだ色を持たず、街は眠りの底に沈んでいた。
シリウスは、誰にも見送られぬまま街を出た。
薬屋の戸は閉ざされ、灯りもない。
それを振り返ることなく、通りを抜け、街道へ向かう。
ルカの提案に乗るべきか、考えなかったわけではない。
だが、関わる人間をこれ以上増やすべきではない――
その判断に、迷いはなかった。
フィアは、歩ける状態ではない。
シリウスは彼女を背負い、外套で身体ごとしっかりと固定する。
冷たい空気が入り込まぬよう、結び目を何度も確かめた。
背中に伝わる体温は、夜気に比べてあまりに頼りない。
「……シリウス、どこに?」
かすれた声が、耳元で揺れる。
その言葉に、シリウスは何も答えなかった。
街を離れ、森道へ入ってしばらくした頃。
フィアの身体が、背中で小さく震えた。
「……っ」
咳。
堪えきれず、短く息が漏れる。
シリウスは足を止めた。
「フィア様」
呼びかけると、背中の重みが少し揺れる。
返事はない。
代わりに、再び小さな咳が続いた。
無理をさせすぎた。
そう理解するより先に、シリウスは地面に荷を下ろしていた。
枯れ枝を集め、火を起こす。
外套を解き、フィアを抱くようにして座らせる。
指先で肩をさすり、呼吸が落ち着くのを待つ。
「……寒い」
「すぐ、温まります」
そう言いながら、シリウスは自分の外套も重ねた。
体温を分けるように、できる限り近く。
だが、時間が経っても、咳は止まらない。
むしろ、呼吸は浅くなり、熱が上がっていくのが分かる。
(……動けない)
火を焚いても、抱いても、改善しない。
沸かした湯に溶かした薬も少し呼吸を楽にするが、長く続かない。
このままでは、進むことも、戻ることもできない。
そのときだった。
遠くから、車輪の軋む音が聞こえた。
シリウスが顔を上げるより早く、馬車が森道の向こうから姿を現す。
手綱を引く青年が、それを見た瞬間――
勢いよく馬車を止め、飛び降りた。
「――見つけた!」
荒い声だった。
「正気か!?
その状態で連れ出すなんて、彼女を殺す気か!」
掴みかかるように、ルカがシリウスの胸元を掴む。
あの穏やかな笑顔は、どこにもない。
「……離してください」
「離す?その前に彼女を見ろ!」
ルカは一瞬も迷わず、視線をフィアへ向ける。
「……それよりも」
声を低くして、断じるように言う。
「今すぐ、馬車に乗せろ」
拒否を想定していない声だった。
「中は温めてある。人手もある」
「しかし――」
「しかし、じゃない」
ルカは、はっきりと言った。
「その判断で、彼女が死んでもいいのか?」
その言葉に、シリウスは言葉を失った。
理由なら、いくらでもあった。
追われていること。
これ以上人を巻き込みたくないこと。
自分で守ると決めたこと。
だが――
そのどれもが、今この瞬間のフィアの呼吸を救わない。
シリウスは、拳を強く握りしめる。
「……私の考えが、甘かった」
そう認める声は、低く、重かった。
ルカはそれ以上責めなかった。
すぐに振り返り、馬車へ合図を送る。
馬車の中は、暖かく整えられていた。
薬屋の主人が待っており、ルカの指示でフィアを受け取る。
外套に包まれた身体が、慎重に横たえられる。
馬車の外。
ルカは深く息を吐き、拳を震わせたまま言った。
「……なぜ、わざわざこの時間に出た?
僕の提案を蹴るにしても、
もっと休ませるべきだった」
シリウスは何も言えなかった。
並べていた理由が、すべて崩れていると、
自分自身が一番よく分かっていたからだ。
「彼女を守るつもりなら」
ルカは、はっきりと告げる。
「……独りで抱え込むのは、勇気じゃない」
その言葉は、叱責でも、嘲笑でもなかった。
ただの事実だった。
シリウスは、静かに頭を下げた。
「……感謝します」
ルカは何も言わず、シリウスを伴い馬車へ戻る。
再び手綱を取り、進路を示す。
夜明けの街道に、馬車が走り出す。
その背後で、
シリウスは初めて――
自分一人では、守れないものがあると、認めていた。




