13話
シリウスの目覚めを、フィアは静かに待っていた。
そのとき、遠慮がちにノックの音がした。
それは強くもなく、急かすようでもない。
廊下の向こうで、ためらいがちな指が木を叩いたような、控えめな音だった。
フィアは、はっとして顔を上げる。
同時に、隣の寝台へ視線を向けた。
シリウスは、まだ深く眠っている。
呼吸は整い、眉間の緊張もなく、ようやく手に入れた眠りだった。
(……まだ、休んでいてほしい)
その思いが、まず浮かぶ。
だが――それだけでは、終わらなかった。
(でも……)
胸の奥に、小さな違和感が残る。
なぜか、起こさなければいけない気がした。
自分が不安だからではない。
このまま眠らせていたら、シリウスの身に何かが起きる。
理由は言葉にできないのに、そう思えてしまった。
「……シリウス」
小さく声をかける。だが、反応はない。
フィアは唇を噛み、そっと彼の肩に触れた。
布越しでも分かる、重たい疲労。
「シリウス……あの……」
もう一度、少しだけ強く肩を揺する。
その瞬間、シリウスの瞼が動いた。
焦点の合わない目が開き、数拍遅れてフィアを映す。
「……フィア様?」
声が低く、かすれている。
シリウスは身体を起こそうとして、わずかに動きを止める。
(重い)
頭の奥が鈍く、思考が一瞬遅れる。 眠気ではない。
夢ではない。
身体の感覚を切り分ける。
手足は動く。
視界も定まっている。
――だが、この違和感は、疲労だけでは説明がつかない。
「……失礼しました、深く眠っていたようです」
短く言って、シリウスは深く息を吸う。
意識を無理に引き上げ、立ち上がった。
「あの、起こしてごめんなさい。
誰かが、扉を……」
フィアが指さすと、シリウスは立ち上がり、扉に向かう。
シリウスが警戒しながらも扉を開けると、そこに立っていたのは薬屋の店主だった。
その後ろに、宿の女主人の姿がある。
「……通りの向かいの薬屋だよ。
あんたらに渡した薬について話があるって言うから、私は部屋まで案内しただけだ」
フィアと目が合いそうになった女主人は、すぐに視線を逸らした。
そして、足早に廊下を去っていく。
扉が閉まる音が、妙に早かった。
薬屋の店主は、部屋の中を一瞥してから、眉をひそめた。
「……すまない、薬について話があるというのは、あんた達の部屋を聞くための口実だ。
だが、この部屋に来て確信した」
低く呟き、シリウスを見る。
「ここを引き払え。今すぐだ」
「……理由を伺っても?」
シリウスの問いに、店主は視線を上げる。
「この宿は、評判がよくない。
客を狙った物取りに、宿が加担しているって噂がある」
フィアが息を呑む。
「男も一緒なら大丈夫だろう、と一度は思った。
だが、あんたたちは旅慣れているように見えない、そういうやつらは危ない。
それに……」
店主はシリウスを見据えた。
「頭が重くないか。
痺れるような感じは?」
シリウスは、一拍置いて頷いた。
「……あります」
その答えに、店主は即座に言った。
「睡眠薬を盛られている可能性が高い。
ここのやつらの、よくやる手口だ」
店主は何かに納得するように辺りを見回す。
「部屋に残る匂いと、今の症状から見て、まず間違いない」
店主は、二人がこの宿で口にしたものを一つずつ尋ねた。
宿で買った食事、馬車に乗せてくれた商人に貰った水筒の水、そして薬屋で買った薬と貰った飴。
薬屋の店主は水筒をじっと見つめ、中身の臭いを確認し、違う、と呟く。
「おそらく、宿の飯に何か混ぜられてたんだろう。
それを……お嬢ちゃんは、あまり食べなかった。違うか?」
フィアは頷く。
普段とは違う環境と、食べ慣れない食事。
もともと食の細いフィアが口にした量は、シリウスよりずっと少なかった。
「それに、普段から熱を出しやすいなら薬も飲み慣れているだろう。
そういう人は薬の効果が出づらい、だからお前さんだけが深く眠っていた」
その言葉を聞いた瞬間、シリウスの中で、すべてが繋がった。
同時に理解する。
フィアが追われる聖女だから、ということ以外の危険があることに。
「もっといい宿を教えてやる、数日なら店の二階を貸してもいい」
シリウスは、迷わなかった。
「お願いします」
短く告げる。
その声は低く、揺れていなかった。
薬屋の店主が頷く。
「ああ、こっちが言い出したんだ、話を聞いてくれてよかったよ」
フィアは、何も聞かずにシリウスの外套の裾を掴んだ。
部屋を出るとき、フィアは一度だけ振り返る。
あの静かな寝台と、閉じられた扉。
――そこに残っていた可能性を、振り切るように。
荷物をまとめるシリウス。
その手に握られた水筒を、店主はもう一度、静かに見つめていた。




