12話-1(分岐)
※この先は分岐となります。
物語の本筋を追う場合は、13話へ。
フィアは、ひとりで目を覚ましていた。
窓辺のカーテンが、昼の風にわずかに揺れている。
差し込む光は柔らかく、時間は穏やかに流れているように見えた。
隣の寝台では、まだシリウスが眠っている。
深い眠りだった。
呼吸は安定し、昨夜から刻まれていた眉間の緊張は消えている。
剣を手放し、警戒を緩めた姿を、フィアは初めて見る。
(……起こしたら、また無理をさせてしまう)
今、この眠りを邪魔してはいけない気がした。
そのとき。
廊下を歩く足音が聞こえた。
ゆっくりとした歩調。
階段の軋む音。
隣の部屋から、何かを落としたような小さな物音。
宿では、珍しいことではない。
まだ「危険」と呼ぶほどの気配ではなかった。
その少し後。
コンコン、と扉が軽く叩かれた。
一度だけ。
控えめで、ためらうような音。
フィアは確信が持てず、動けなかった。
この部屋の扉か、それとも別の部屋の扉を叩く音か。
曖昧な判断でシリウスを起こすべきなのか決めかねていた。
やがて、その音がなかったかのように、廊下は再び静まり返る。
それからまたしばらくして、今度は誰かが呼ぶ声が聞こえた。
はっきりとした声ではない。
それでも確かに、「聖女様」と。
教会で聞いたことのある誰かの声。
扉は叩かず、まるでフィアだけを静かに呼ぶように。
フィアは思わず、シリウスを見る。
――眠っている。
呼吸は乱れていない。
(……起こしたくない)
この眠りを、奪いたくなかった。
(きっと、教会の誰か。
少し話すだけなら……)
この部屋に無理やり押し入り、フィアを連れ出すなんて簡単だろう。
それをしないということは、まだ自分の言葉を聞くつもりなのかもしれない。
続けて、扉の向こうから声がかかる。
「体調の確認に参りました」
「ご無事でしょうか、聖女様が心配なのです」
名は名乗られなかったが、側仕えの侍女の誰かの声に聞こえた。
「……はい」
フィアは、小さく返事をしてしまった。
その瞬間、空気が、変わった。
扉は、まだ開いていない。
逃げることも、叫ぶこともできた。
フィアは、胸に手を当てる。
扉越しの会話。
「今なら、まだ戻れます」
「聖女様がいなくなれば、私たちもどうすればいいのか……」
「銀の騎士は貴女と居る限り罪を重ね続けることになります」
(シリウスの、罪)
その言葉が、フィアの中で最後に残った。
(……シリウスは、私のために)
これ以上、苦しめたくない。
(私が戻れば……)
罪は、自分一人が背負えばいい。
シリウスに、選ばせない。
戦わせない。
罪を、重ねさせない。
フィアは、扉越しに告げた。
「……分かりました。戻ります。ただし……」
声が、震えないように意識する。
「彼を……シリウスを、私を攫った罪人にしないで下さい」
返答は、驚くほど早かった。
「もちろんです、司教様にお伝えします」
「聖女様のご意思ですから」
あまりにも即答で、あまりにも穏やかで。
その不自然さに、気づけなかったのは――
フィアが、人を疑うということを知らなかったからだ。
扉が開く。
フィアは、何も持たなかった。
荷物にも、シリウスの外套にも、触れない。
最後に一度だけ、眠る顔を見る。
(……きっと穏やかな夢を見ているはず。それで、いい)
扉が閉まる。
――約束は、最初から存在していなかった。
『司教様にお伝えします』
交わした約束は、その言葉だけだった。
フィアは「自発的に戻った聖女」
シリウスは「聖女を攫った罪人」
その物語は変わらない。
目を覚ましたとき、シリウスは異様な静寂に違和感を覚えた。
しかし頭の中心が重く痺れたように上手く働かない。
それでもすぐに気がついた。
隣の寝台に、フィアがいない。
その瞬間、部屋の扉が勢いよく開かれた。
入ってきたのは、騎士たちだった。
顔見知りの者もいる。
かつて共に訓練し、剣を交え、笑い合ったこともある者たち。
誰一人、剣を抜かない。
だからこそ、これは戦いではないと分かる。
そして、シリウスはフィアが教会に戻されたのだ、と理解する。
「……シリウス、お前はなんてことを」
誰かが、吐き捨てる。
「やっぱり、真面目な奴ほど裏で何考えてるかわからない」
「聖女様を攫うとか……最低な罪人だ」
腕を取られ、膝をつかされる。
抵抗は許されない。
そのとき、淡々とした声が告げた。
「顔は傷つけるな。
――司教様からの命令だ」
その一言と同時に、痛みと罵声が振り注いだ。
しかしシリウスの中で響いていたのは、
フィアを守れなかったという痛みと、
あの夜、最初に助けを求めた彼女の声だけだった。
シリウスの意識が静かに闇に堕ちる。
次にシリウスの意識が戻ったとき、そこは教会だった。
誰かに腕を掴まれたまま跪かされ、顔を上げた先に――フィアがいた。
完全に聖女の装衣に身を包み、あの日、自分で着替えたはずの衣に、再び戻っている。
その腰を、司教が当然のように抱いていた。
守る手ではない。所有を誇示する手。
フィアは何も言わない。
抵抗もしない。
ただ、その目だけが、シリウスを悲しげに見る。
司教が、微笑んだ。
「さて」
相変わらず正しさだけを貼り付けたような顔で、口を開く。
司教の合図で、シリウスはフィアの前に引き出される。
だが、自分の足で歩いているとは言い難い。
二人の騎士に挟まれ、支えられるようにして前へ出される。
鎧はない。
旅装のまま――いや、宿で着ていた服は、すでに布としての役目を失っていた。
裂け、汚れ、血の跡が乾きかけている。
だが、致命傷は避けられ、顔には傷一つない。
立てる程度には生かされ、
“見せる”にはちょうどいい状態に。
フィアは、息を呑む。
声が出ない。
足が動かない。
それでも、目だけは逸らせなかった。
――あれは。
自分を背負い、森を越え、
剣を抜かずに守り、あの時に眠るまで、側を離れなかった人。
夜の闇から守るように自分を抱いていた胸も腕も赤く、酷い状態だった。
司教は、フィアの腰に添えた手を緩めないまま、穏やかな声で語りかけた。
「ほら。よく、見てください」
諭すような口調だった。
叱責でも、嘲笑でもない。
「これは貴女の罪ですよ。フィア」
フィアの喉が、ひくりと鳴る。
「貴女が彼に“助けて”と願った。
その結果が、これです」
司教は一歩、前に出る。
「彼は貴女のことを守ろうと必死に駆けて、逃げた」
だから――と、司教は微笑む。
「こうなった」
フィアの視界が、揺れた。
違う、と言いたかった。
そんなつもりではなかった、と。
だが。
自分が「助けて」と言ったこと。
あの時に、シリウスを起こさなかったこと。
誰かの言葉を信じたこと。
――すべて、事実だった。
シリウスは、何も言わない。
唇は血で切れているが、視線だけは、フィアを追っている。
責める色はない。
恨みも、怒りもない。
ただ、その青い瞳は静かな確認のように。
(それでも、あなたが選んだのなら)
そう言っているような目だった。
フィアの胸が、強く締めつけられる。
司教は満足そうに、その反応を見下ろす。
「さあ。ここから先は――」
その声が、少しだけ低くなる。
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