10話
シリウスは宿の外で一度呼吸を整え、街の喧騒に耳を澄ませた。
雑多な人の往来、決して上等とは言えない宿。
そこにフィアを残して出かけるという行為に、急に背筋が冷たくなる。
踵を返して宿に戻ると、入口のあたりで数人の酔っ払いが騒いでいるのが目に入った。
シリウスはフィアの待つ部屋へと急いだ。
ノックをし、その意味がないほどの早さで扉を開く。
「フィア様、失礼します……」
開いたドアの先には、顔をパッと明るくするフィアの姿。
「見てください、シリウス。
ちゃんと、自分で……着替えられました」
寝台の上には不器用に畳まれた聖女の装衣と、少しだけ不格好に着替えを終えたフィアの姿。
シリウスは教会では見たことのない、フィアの無邪気な笑顔に安堵の息を吐き、そのそばに歩み寄る。
「ええ、頑張りましたね」
曲がった襟を整え、捲れたままの袖を直すと、フィアの手を取る。
その小ささを、無言で確かめるように。
「薬屋に行くならば、その薬を飲む本人も行くべきだと思いまして。
フィア様がお辛いのならば、また私の背に乗って行きましょう」
「すぐ近くと言っていましたよね、私、歩いて行きたいです。
帰り道は、お願いするかもしれないけど……」
その言葉にシリウスは微笑むと、フィアにフード付きの外套を着せる。
「では、歩いて行きましょう。私の手は離さないように」
シリウスの手に小さな手が重ねられる。
そしてフィアは初めて自分の足で見知らぬ街の地面を踏んだ。
「人が……沢山いますね」
「ええ、商業が盛んな街だと聞きました」
シリウスは何度もフィアの外套のフードを直す。
その目立つ白色金の髪が、誰かの目に留まらないように、と。
薬屋は宿から通りを挟んだ向かいにあった。
それだけの距離でも人混みに慣れていないフィアには歩くのが難しい。
ほとんどシリウスに抱えられるようだったが、フィアはそれでも満足そうだった。
薬屋の扉を開く。
ドアが開くと揺れるベルを興味深げに眺めるフィア。
それだけでなく、薄暗い薬屋に並ぶ何もかもが初めて見るものばかりだった。
シリウスが店主と会話をし、フィアにもいくつか質問をされるが、フィアはキョロキョロと落ち着かない。
「風邪や伝染病ではなさそうだが……原因が分からない。
すまないが、一般的な解熱剤しか出せない」
「いえ、助かります」
シリウスが代金を支払うと、思い出したように店主は語る。
「明日か、明後日か……医学を学んだのに商人をやってる奇特な奴が薬を卸しに来るんだ。
変わってるが腕は確かだ、よかったら診てもらうといい」
店主は微笑むと、フィアの手に飴玉を一つ置く。
フィアは目を丸くして、それを眺め、シリウスの顔をみる。
「熱、早く良くなるといいな、お嬢ちゃん」
「よかったですね」
「ありがとう、ございます」
店を出ると、フィアは思い出したように小さく口を開く。
「……さっき、薬屋の方が……“お嬢ちゃん”って」
その声には責める色はなく、ただ不思議そうな響きがあった。
「私、もう……成人しているのに」
シリウスは一瞬だけ歩調を緩める。
「そうですね。ですが、あの方にとっては――」
言いかけて、言葉を選ぶ。
フィアは自分の胸元に視線を落とし、飴玉を包んだ指をぎゅっと握った。
「……私、そう見えるんですね」
それは落ち込んだ声ではなく、
初めて“自分がどう見られているか”を意識した音だった。
「……きっと、その服が大きかったからそう見えるんですよ」
昨日の夜からの出来事を考えると、あまりに平和な悩み事で、シリウスは肩の力が抜けた。
しかし繋いだ手の力は緩めることない。
フィアはその手の暖かさを感じながら、初めて“帰る場所”へ向かって、シリウスと並んで歩いた。




